話の流れとしては、「音の風景」「虫の音」の続きになります。日本人の耳に特定した話ではないのですが、西洋の耳、東洋の耳それぞれに聞き取る音は同じでも何かが違う、そんな視点に立っての話になります。
やまと言葉の「にほふ(匂う)」からは、色と匂い、音と匂いの言葉(音)からの深層の共通性を、角田忠信先生からは「日本人の虫の音」に対する特殊性の話を受け、次に西洋音楽と日本音楽との関係から、そして仏教の禅の「音」との関係を見てみたいと思います。
まず最初に、音楽の関係して、小倉朗著『日本の耳』(岩波新書)からの引用です。
・・・・・もともと日本の耳が自然音に抱いた感情は深かった。そしてまた、そのような耳は、松籟の響きとともに尺八を、清水の音とともに琴をきくことが出来た。そしてもちろん、そのとき野鳥の声を排斥することもないだろう。いやむしろ、そのような環境にある方が、現代流の演奏会できくより遥かにふさわしかろうと考えられる。
けれども、これは依然条件つきのことで、たとえば、古池に飛び込む蛙の水音、そのしじまを野鳥の声が破ったらどうなるか。あるいはまた、能の鼓がつくり出す張りつめたしじまを、筧の音が破ったらどうなるか。「厳しさ」と僕らが呼ぶ音の世界は、あたりまえだが、他の音の介入を許さぬ緊張をもつ故に、厳しいのである。
ひるがえせは、そのような緊張が弛められたとき、すなわち、情緒的、気分的対象として音が捉えられるとき、音楽はさまざまな段階において他の物音の介入を許す。実際、尺八の音に松籟がふさわしくとも、話し声は無用であろう。そしてまた、琴に激しい夕立も無用である。だが音頭や俗楽、祭りの囃などは、かなりの雑音にたえ、むしろしばしばそれを歓迎しさえする。
一方、ヨーロッパの耳は、音自体を思考の対象として他の音を排除する方向に進んでいった。そして、そのような耳は、遂に奏者の即興さえ許さぬという厳しい構成にむかって音楽を展開させていった。
さて、その思考とは、あたりまえだが、耳をいかにして音に集中させるかという工夫になる。そのとき、日本の耳は音への没入、無念無想の態度を選んだ。が、ヨーロッパの耳は、過去から未来に向かう普の流れをつくり、その流れに乗せて、きき手の耳を「未来に向けて」集中させる工夫を凝らしていった。(これについてはすでに触れたことがあるが、いわは、リズムと調性という二本のレールの上に、音の流れをつくり出すという思考の形をとる。)当然、この思考はリズムと調性への醒めた意識をもたらし、音への態度を客観化する(理論的体系の誕生)。しかし、その多様な展開のあげく、ある極点において、体系への破壊の意識を必然的に招いた(前衛の誕生)。
そこで、この前衛的態度と伝統的態度の相違は、たとえていえば次のような次第になる。すなわち、かりに音という馬が走っているとする。伝統的な音楽家たちは、その馬の動きを刻一刻と時間的に追いながら、いかに巧妙に画面に捉えるかという工夫を重ねるカメラマンのような仕事をしてきた。従って、鑑賞する側は、その時間の流れに乗ってたえず未来を予感するというふうにしてひきずられていく。
それに対して前衛は、時間的な関連を断ち切って、そのきれぎれの断片を、出来るだけ無関係な状態に配列するカメラマンのような仕事になる。すなわち、歯が映る、ひずめが映る、目が映る、怒張した血管が映る・・・・・・というふうに。こうして、馬は馬でも、次に何が映るか予測がつかない状態に観客を置く。
以上の記述から何が言えるのかということですが、芸術鑑賞において、視覚の世界、聴音の世界を観るときに前衛芸術の世界に現代日本人は違和感を持つことはないでしょうが、私のような古い人間はどうも瞬間に違和感を持つ方です。
そこには未来性を置く西洋的な感覚から、瞬間における音の世界、その世界が瞬間の他の音との交わりの中にも瞬時の和の静寂を感じる、そこに日本的な「音」の世界の捉え方があるように思います。
ここで気になるのが、仏教の世界得に禅の世界の悟りと音の関係です。現代社会は禅の流行もあり世界的なものとなっています。
しかし、ある面そこには日本の禅が連綿と継承されてきた風土と環境があったことを意味するように思います。
中国の禅の衰退が歴史的な背景、その後の西洋思想に基づく統一国家の形成に深くかかわっていることは自明の事実であると思います。そこには輸入文化を咀嚼する才能に長けた日本人の特殊性もあるのではないかと思います。
禅の世界における「音」と言うと「隻手」が想起されますが、今回はその注釈の素晴らしさから『無門関』(秋月龍著 講談社学術文庫)の「鐘声七条(しょうせいしちじょう)」を引用したいと思います(全文)。
16 鐘が鳴ると袈裟を着る(第第十六則 鐘声七条)
雲門は言った、
「世界はこんなに広いのに、なぜ鐘が鳴ると、七条の袈裟を着て[食堂(じきどう)へ出て]行くのか」
雲門文偃禅師(八六四~九四九)が言われました、「世界はこんなに広々としているのに、鐘がなるとどうして七条の袈裟を着て出頭するのか」。
公案はこれだけです。世界はこんなに広い、というのはお悟りの真っ只中、「真空無相」の自由境を体験した人の叫びです。それなのに食事の合図の鐘がなると、どうして袈裟衣をつけて食堂に出かけるのだ。それこそが「真空妙用」(「妙用」は”凡夫の思議を絶した働き ”の意)です。「悟ってもひじは外へ曲らぬ」のが、それが真の「自由」なのです。「水鳥の行くも帰るも跡たえてされども道は忘れざりけり」でありましょう。
ここでも、この「甚(なん)に因(よ)ってか」という問題意識が大事なのです。日常ふだんの何の問題もないようなところに、改めて問題意識を起こさせるところに、古人の「公案」の慈悲にもとづく(否定即肯定)の活手段が存することを忘れてはなりません。
因(ちな)みに、この公案の見解は、天龍僧堂の滴水・龍淵下にすばらしい独特の調べがあります。
無門は評して言う---
およそ禅道を参学するには、音声について廻り色相を追っかけることを切に忌 嫌う。かりに[香厳(きょうげん)のように]音声を聞いて道を悟り、[霊雲(れいうん)のように]色相を見て心を明らめたとしても、それでも、やっぱり[禅者上しては]世の常のことである。[そんな所で満足している人は]とりわけて次の大切なことが分からぬのだ、すなわち禅家たる者は、音声を騎(の)り廻(まわ)し色相を使いこなして、一つ一つのうえで明らかに見て取り、一手一手のうえで思議を絶する働きをするものだということを知らぬのだ。
それはそうだが、まあ言うてみよ、声が耳のほとりに来るのか、耳が声のあたりに往くのか。たとえ、音響と静寂と二つとも忘れた境地になったとしても、ここに到ってそれをどう説明したものか。もし耳で聞いたら会得しがたいであろう、眼で音声を聞いてはじめて親しいであろう。
無門和尚は言われます---
いったい参禅修行には、声(音声、耳の対象)に従い色(形あるもの、眼の対象)を逐うといって、環境の事々物々について廻ることが大の禁物である。たとえ声を聞いて道を悟り(香厳の撃竹)、色をみて心を明らめ(霊雲の桃花)ても、そんなことは禅者としては当たりまえのことである。禅僧たるものは、まず真実の自己を自覚して、主体的に声と色とを使いこなして、一事一事に明らかに、一手一手にうまい手がうてる、という境地を知らねばならん。それはそうだが、いったい声が耳のほうへくるのか、それとも耳が声のほうへ行くのか。
かりに心(主観)も境(客観)もともに忘じて(声をきけば、声と我と内外打成一片、ただ天地ひた一枚の声となり)、心境不二の境を体験したといっても、そこのところになると、それをどう説明したものか? もし耳できけば会得はむずかしい。目できいてはじめて、親しくこの間の消息に通ずることができるであろう。
聞くままにまた心なき身にしあれば
己なりけり軒の玉水 (道元禅師)
耳に見て眼に聞くならば疑わじ
おのずからなる軒の玉水 (大燈国師)
眼で聞くというのは、全身全霊で聞くということです。天地ひた一枚の声になりきるのです。「なりきる」というのは、本来の自己でおることです。「直下無心」です。
”ずばり無心で聞く ”ということです。「世界恁麼(いんもん)に広闊(こうかつ)たり」という体験の真っ只中から、そのままに聞くのです。おやじがせきをしたら、すっとお茶をもってゆくのです。「因甚麼(いんじんも)」は、問いかけて問うことの要らぬ境涯を得させるための手段に外ならないのです。これが「公案」の眼目です。これを先にも言ったように、「東山下の暗号密令」と言います。「東山」というのは、公案禅の大成者である宋代の禅匠五祖法演のいた山の名です。
無門は頌(うた)って言うⅠ
倍ればみんな同じ身内のこと、
悟らねばばらばら。
倍らなくても同じ身内のこと、
悟ってもまたばらばら。
悟れば平等、迷うから差別。迷っていても平等、悟っても差別---、二句はいわゆる「始覚門」で、三、四句は「本覚門」の立場です。悟っても迷っても本来平等、世界は広い、人間本来「自由」(無縄自縛)なのですが、この本覚門の「衆生本来仏なり」の真理も、悟ってはじめて平等の体得という「始覚門」の「修・証」(修行と悟り)があってはじめてその真理がほんとうに体得できるのです。そしてその「平等」の悟り(本覚・本証) の中にも厳として「差別」の働き(妙用・妙修)がなければなりません。「不落因果」 のところが、ただちに「不味因果」です。鐘がなったらただ如法に袈裟をつけて出頭するのです。
以上の引用です。ここで注目したいのは悟りについてではありません。
>かりに心(主観)も境(客観)もともに忘じて(声をきけば、声と我と内外打成一片、ただ天地ひた一枚の声となり)、心境不二の境を体験したといっても、そこのところになると、それをどう説明したものか?<
声をきけば、声と我と内外打成一片(ないげたじょういっぺん)、ただ天地ひた一枚の声となり
この感覚的なものが、虫の音を聞く日本人の耳の音感的な感覚性とどのような共通性を見出すことができるのか、という点です。
共通土台に立っていないと考える方もおられると思いますが、しかし同じ「音」と世界の話として、同じ音の場として、何かを直観的に思うのです。
それは禅が日本に今日まで時代や異文化の輸入があろうとも続き継承される、日本の風土や歴史的な身体的素養を思うのです。
それは瞬間の美、未来性を前提においたそのようなものではなく瞬間の響きであるように思います。
ある面ジャズがその瞬時の形成音であり継続性、未来性はその音の瞬時の感覚の継承で、クラッシックのような未来性の和音を前提にしません。
また民族的な抽象画これは前衛的な感覚の美ではなく、伝統と象徴的な歴史的な新体制の継続のように思います。
日本の美を考えた場合民族的な象徴の美も、音も瞬時の何ものかによる形成が根底にあるように思います。
それは禅における音と少々重なる点があるのではないかと思うのです。
実にくだらない話かもしれませんが、秋の無言(しじま)に聞こえる虫の音にそう思うのです。
虫の声は今聞こえ未来には続きません。
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