思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

知識の実在感

2010年09月17日 | 心理学

 心理学という学問において人の心を探究しようかとする場合に、人の行動の基盤をどのような視点においていくかが一つの重要な問題です。要は考えの基は何かということですが、その一つに行動心理学という分野があり、行動主義という立場を心理学への接近法の一つとしています。

 ここいう行動主義とはどういう意味なのか、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で「行動主義心理学」という言葉を調べてみますと、その中で

 行動主義 は心理学のアプローチの一つで、内的・心的状態に依拠せずとも科学的に行動を研究できるという主張である。行動主義は、唯物論・機械論の一形態であると考えられ、こころ-mind-の独在を認めていない。 多くの行動主義者に共通する一つの仮説は、“自由意志は錯覚であり、行動は遺伝と環境の両因子の組合せによって決定されていく”というものである。
 
と解説しています。

 この行動心理学においては、「生活体」という言葉が使われます。

 有機的に構成された生命現象を示す物質系。人および動植物の総称。有機体。

という意味ですが、要するに人・動物のことを物質的なニュアンスで表現していることが分かります。

 今朝の引用文の中に日常的に使わないこの「生活体」がいきなり出てきますので、どのような考えの持ち主が使用するのかということも含めて説明しました。
 
 行動主義に出てくる”自由意志は錯覚であり ”は、魅力的な言葉ですが言及しません。

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 私たちは外界にあるものを統合的に認識します。その時の統合とは私たち側から「あれはこうではないか」「あれはこうだ」などと感覚的に感じる細かな逸話で構成し統合していきます。

 感覚的に感じる細かな逸話とは、吟味の視点であり当然自己の経験を超えるものではありません。知識として対象物を感覚的にわかるということは経験に基づきます。

 目の前にある赤いリンゴが「リンゴ」であるためには、そのリンゴをリンゴとして知ら無ければなりません。さもなければ「赤い何ものか」ということになります。

 では外界にあるものが、他人であったならばどうでしょう。目の前にいる人とコミュニケーションをとりなさいと言われた場合、知り合いの仲ならば安心しますが、まったくの知らない人ならば緊張します。すなわち赤の他人の場合は心が落ち着かない不安定なものになるということです。

 それは当然コミュニケーションが取れていないからで、人が安心できるためにはコミュニケーションが取れていないとだめだということです。

 社会生活において対人的な問題で精神の不安定を生じる人が多いのはなぜなのでしょう。そして病が進行すると「自己認識」が薄れ「私が無い」と訴えることになります。

 今朝は精神病の話をしようというものではなく、話題を逆方向から展開しています。

 ここに「自己認識」という言葉が出てきましたが、すなわちこの「自己認識」とは何かということです。ジョージ・ハーバート・ミード (George Herbert Mead、1863年2月27日 - 1931年4月26日) というアメリカの社会心理学者。哲学者、思想史家がいます。その人の有名な言葉に

 「対象としての自我(”Me ”)は、「認識主体としての自我(”I ”)を他人の立場に置き、その他人の立場からながめた自己として発生する」

があります。他者になってみることが、自己認識の根元であるということです。
 したがって自分が自分で無くなれば、他人も自己もあったもんではありません症状になるわけです。

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今朝は次の文章を紹介します。

 もし生活体が実在認識を高めたいならば、どうしても、「視点」そのものの拡大をめざさないわけにはいかない。
 
 このような場合に、ミードが提案するように「他人の立場に立ってみる」ということが重要な役割を演じるであろう。
 
 はじめは、「自分には見えないが、他者には見えること」の存在に気付くであろう。たとえば、類人猿の生活空間でも、見張りザルが「敵」の存在を指摘した場合、たとえ自分には見えなくとも、その「敵」の実在は確実であることを知る。
 
 次に、実際の行為として、「他者の視座」に自らを移動させて、「他者の立場(物理的位置)に自分を置いて」みることによる実在の確信度を高めるであろう。

 さらに、他者の位置に自らを置くことを「イメージ」で行うことにより、実在の確かさを「頭の中で」高めることを知る。

 これが高度に発達すると、最後の認識対象である「見えざる存在=自己」へむかって、はたらきかけてくれる他者の立場に、自らを置いてみて、「自己」の存在を確かめ、自己像を形成するであろう。

 このようにして、高等ザルは、感覚情報に依存しない実在認識の高め方を獲得する。したがって、「鏡の中の自己」の実在性よりは、「鏡の前の自己」の実在性(それは決して見えないにも拘らず)を高め、その見えない自己の「見え方」を「鏡の中の自己像」から抽出するのであろう。

 つまり、「自分にむかってはたらきかける」他者の存在が、自己の存在意識を高める。

 他人の目を通して映る「自己像」が、すべて「統合」できる場合には、たしかに自己の存在感は高まっている。しかし、他人の目に映っているであろう「自己像」が、異なる他人によって、明白に矛盾してくる場合がある。その場合、わたしたちは「自己像」への統合能力を失いはじめ、何とかして「同一性」を確保しようと試みはじめる。自己に対する他人の態度に極端に敏感になり、自己をみる他人の心に、色々とペルソナ化と擬己化の活動を動員する。

 これがさらに昂じると、自己像が分裂しはじめ、実在感が失われる。こうなると、鏡のむこうの自己と鏡のこっち例の自己との実在性が、同時的に失われていく。
 
 分裂病の初期症状として、終日鏡の前にくぎづけになり、独話にふけることが、古くから観察されているが、実在感の失われそうになった自己が、必死で統合化をはかろうとする、空しい試みと解釈できるのではないだろうか。ただ、鏡の中の像は、「別の視点」からの吟味を拒否し、また、その「像」から、自己の存在性を高める「異なった視点」を提供してくれない。
 
 「吟味」はすべて(存在感覚のない)自己からの視点による吟味となり、外界の事物の存在性すら失われ、「他者の立場に立つ」ことが不可能となっていく。
 
 擬人的認識論において、最も重要なことは、単に分身を色々と流通し、活動させるだけでなく、それらをすべて、一つの実在の中に統合化し、ペルソナ化していくことであろう。
 
 今日の学校教育の中で、失われつつある「知識の実在感」の確立は、いくら強調しても足りないことである。

以上佐伯胖(さえき・ゆたか)著『イメージ化による知識と学習』東洋館出版社p129~p131から

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 今朝も相変わらずのわけのわからない文章になってしまいました。「知識の実在感」という非常に重い話ですが、要するに役立つ知識、身になる知識の付与のことと思います。

 鏡を使った実験で、二歳の幼児になると鏡に映る自分が自分であるということが認識できる、という話を最近放映された爆笑問題の「ニッポンの教養」を例にブログに書きました。

 今朝紹介した文章では「分裂症」となっていますがご存じのとおり今は、「統合失調症」という名称になっています。

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