思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人間この過ちやすきもの

2010年09月05日 | 宗教

 哲学的な思考を求めるつもりはないのですが、日々の生活の中に日常的な思考とは異なる現実性をみつめさせられる事象が現れます。

 2・3日前に新聞で、同じ地区に住むが面識のない方が、信号機のある交差点で、赤信号を無視し横断していた自転車の老人をはね、そのまま逃げた死亡ひき逃げ事件がありました。目撃者がいてすぐ犯人は捕まったのですが、新聞には飲酒中との内容がありませんので、推測ですが、いわゆる「怖くなったから逃げた」という弁解の事故かもしれません。

 昨日「教皇の不可謬性」の話から「可謬性」という「人間は過ちを犯すもの」と一般的に語られる人間の性向について話しました。今朝は別の角度から思考したいと思います。

 神話における根源性を見るときそこには混沌とした世界が共通して現れています。日本神話の古事記でさえ別れざる前の混沌とした世界が示されています。光ある世界を示す時にも無垢、無塵を前提としています。

 聖書は神話ではありませんが、旧約は神話的要素が見られると私は思いますので、そのことを前提にして考えます。そのなかで人間の可謬性というものは、イヴの原罪に求められます。聖書世界はそうであり、仏教ではそもそも性悪説に立っていますから、神話的要素はないに等しく、日本神話では、後の和御魂(にぎみたま)、荒御魂(あらみたま)の定立ににみるように、神本体に相対するに要素が含まれています。

 荒御魂は悪ではないと言われそうですが、人間がそれを取り込むとき、戦中の勝戦祈願の現実性に目を向けると、垣間見ることができるのではないかと思います。

 それはあくまでも聖戦だとしたところで、アメリカの原爆投下のようなもの違いはないように思います。

 これについてはこれ以上言及しません。

 さて先の事故自己の話は、そもそも加害者の過失の可能性が高い件です。可謬性を語るとき、問題になるのが「過失」です。法律的な責任性の問題ではなく、信号の見落としという偶然(注意を払わなかったという問題はありますが)がそこに起こったということがあります。

 縁起の因果もありましょうが、現実的なその場においては明らかに偶然なのです。すると現実というものを見つめ直すと「可謬性」ということは、偶然性も含むことになり、人間が存在すること自体が誤りのように思えてしまいます。

 論理の飛躍であり、勝手な決めつけと思われて仕方がありませんが、そう思うのだから仕方がありません。

 すると、無垢、無塵の世界である「無」の創立はなんであろうか、無がなければ有はないのであり、不可謬性も可謬性も、そして過失もないのではないか、と思うに至ります。

 無を有に相対しないものと体得したところで所詮人の現象学的な志向性の産物、いやそれさえも超越もしくは、言葉無い述語の世界としたところで、人を離れることはできません。

 これはあまりにも当然な話で、語るに値しない話と言われそうですが、哲学として、また信仰において越えなければならないことという心の叫びがあります。なぜかあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このような思考を今朝は、ひき逃げ事件を題材に過失を含め展開しました。思考の視点を「可謬性」の問題から立ち上げましたが、フランスの哲学者にP・リクール(1913年2月27日 - 2005年5月20日) という人がいましたが、この人の著書に『人間この過ちやすきもの』があります。これは実に難解な本ですが思考を反転させてくれるます。

 ときことで今朝は、この著の最後の「結論 可謬性の概念」章のさらに最終末の言葉を紹介したいと思います。

 ……しかし可謬性の概念は、さらに積極的な意味での悪の可能性を含んでいる。人間の《不均衡》は人間を過ち得るようにするという意味で、過つ能力なのである。
 
 デカルトが言うように、「私が或る仕方で無、すなわち非存在にあずかっているかぎりにおいては、言いかえると、私自身が最高の実有なのではなく、無限の欠陥にさらされているかぎりにおいては、私が誤ることのあるのも怪しむにあたらないことに私は気づくのである」(「第四省察」)。
 
 私が誤ることのある、私は……にさらされているとは何を意味しているのだろうか。《飛躍》、悪の《定立》と同時に可謬性から過失への《移行》《推移》を確認する必要はないのであろうか。

 後に見られるように、悪の突然の措定、分裂の性格を最も強調した転落の神話は、同時に無垢から悪への微妙な滑りこみ、難解な屈折を語る。それはあたかも悪を同時に「持続」の中にまきこみ、進展していくものとして考えることなしには、「瞬間」の中に出現するものとして悪を表象することが出来ないかのようである。
 
 悪は措定され、進行する。たしかに弱さの完成としての悪の反対の相が発見されるのは、定立としての悪から出発してである。しかし、イヴの像によって聖書の神話の中に象致される、敗北する弱さの動きは、悪が到来する行為と同じ外延をもつ。弱さから誘惑へ、誘惑から堕落へと導くめまいのようなものがある。
 
 このように悪は、私が悪を定立したことを《告白する》瞬問に、めまいの持続的な推移によって、人間の制限性そのものから生まれるように思われる。可謬性の概念にその同義的な探さをすべて与えるのは、悪の定立そのものの中で発見される、無垢から過失への推移である。脆さは単に悪の挿入点、《場》ではなく、人間が堕落する出発点となる《起源》でもない。それは悪の《能力》である。
 
 人間が可謬的であると言うことは、自分自身と一致しない存在に固有な制限性が、悪の生じて来る根源的な弱さであると言うことである。しかしながら悪がこの弱さから生じるのは、悪が定立されるからである。この究極の逆説こそ、悪の象徴学の中心にあるものであろう。

 人間の気づきは、なかなか難しい問題です。「待つこと」なのでしょう。何を待つのか分かりませんが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今朝のNHK教育「こころの時代~宗教・人性~」は、「待てない時代にどう育てるか--人間教育を支えるもの--」基督独立学園高等学校安積力也先生のお話でした。先生はそこで学校教育の教育の本質的な話を語られていました。

  「教育では教えてはならないことがあります、それは一番教えなければならないことでもあるのです」その根本にあるものは、ということを離されていました。

 教育には、教えてはならないものがあるのです。やっと分かってきました。実はそれが一番教えたいことなのです。

 科学的真理というものは言葉によって教えることはできますが、生きることの関わる真理、愛することや思いやることや信じること、勇気を持つこと、・・・どう言うことか。

 これは言葉では教えられない。自らがそれを生きてみる。試行錯誤して苦しんで、そうすることでしか分かってこない。

 そうしますと教育の本質は何かということになります。ぼんやりとしか見えてきませんが、この学校に来て霧が晴れるようにより鮮明に見えてきたように思います。

 一言でいえば、「待つこと」なんです。待つことだなあ~・・・・・・。

 社会の先生などは典型的ですが、生徒が何か苦しさを持って、部屋にいて、何も言わない。じっと一緒にいてあげるだけです。そして涙をぽろっと流して、1時間ぐらいいて「ありがとうございました。」と言って行く場面がいくらでもあります。

 これはなんだろうと思うのですが、存在で聞くと言ったらいいのかなあ~・・・・・・。あるいは自分の時間をその子に捧げ、共に居る。これだけで生徒は、本当の意味で大事にされていることを感じ取るのです。逃げないで自分の問題に向き合おう、と思えるのだと思います。

<略>

 「根を育てれば樹は育つ」で次のように語っていました。

 教育の指名の本質はそこにあると思います。教育には質の違うアプローチが二つあります。 どちらも必要なものですが。私なりの言い方をするならば、結果を強制していくと言いますかそれをきちっと課していくという教育の姿勢と、もう一つは深い原因を与えていく、という・・・・・・二つあると思います。

 どちらが本質的な教育の業かと言いますと、やっぱり今は開かなくとも後の10年先、20年先、30年先に開く深い深い原因を一番今この柔らかい新芽(しんし)の時に与えていく、これがすべき教育の基本だと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「人間この過ちやすきもの」から学校教育の話になってしまいましたが、人間生きる過程では考えることも重要だと思います。思考はややもすると否定されているようにも思いますが、考える機会を与えてくれることが人生であり、気づかせてくれるのも人生です。

 「過ちやすきもの」子供たちがそれに気づく、そういう機会があり、必ずやある。待つことが大切ではなく、待つことにより、応えてくれる人生がある。

http://philosophy.blogmura.com/buddhism/ このブログは、ブログ村に参加しています。