今朝はいきなりですが「義理と人情」の話をしたいと思います。
半世紀ほど前の演歌で『人生劇場』というものがありました。歌手は村田英雄という方で、作曲は有名な古賀政男で、作詞は佐藤惣之助という方です。
カラオケで歌われることは、特別な環境下にあるか、高齢の方でないと歌わないように思います。
今朝はこの歌詞に注目したいと思います。作曲家の古賀先生は分かるのですが、佐藤先生となるとまったく知りません。ネットで調べれば、あの曲、この曲ということもあると思いますが今朝は言及しません。
話題にしたいのはこの歌詞の語られている「義理・人情」についてです。
歌詞は3番まであります。
義理がすたれば この世は闇だ(1番)
義理と人情の この世界(3番)
その他には、これも演歌で俳優の高倉健さんの「唐獅子牡丹」などは、いきなり1番、
義理と人情を秤りにかけりゃ 義理が重たい 男の世界
と、はじまります。唐獅子牡丹は、任侠の世界を生きる主人公を想定しているのは明らかですが、「人生劇場」微妙なところがあります。
やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか。(1番)
あんな女に未練はないが、なぜか涙がこぼれてならず。(2番)
そして、
男心は、男でなけば解らない。さらに吉良仁吉(きらのにきち)という幕末にかけて活躍したヤクザの清水の次郎長一家の人間のようにありたい、という宣言がありで、一般的な市民を想定したとも断定できないところがあります。
まあどちらにしても、そのような演歌が昔はありました。逆に現代の歌には「義理・人情」という言葉は感覚的に歌われることはないように思われます。
「義理・人情」がなくなったということではなく、歌にまで歌って「男の世界」を叫ぶような気迫がないと言った方がよいかもしれません。
いわゆる「時代というもの」ということです。何かのきっかけで流行(はや)ることもありましょうが、無いといった方がよいかもしれません。
「義理・人情」は、「義理人情にあつい」とか、上記のとおり「義理人情の世界」などと同じ基盤に立つ言葉として使う場合もあり、また「義理と人情を秤にかける」ように、どちらを立てるかと、対比的に使う場合があるように思います。
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しからば「義理」「人情」とは何ぞやとなります。いつものようにまず古語辞典(大修館書店)を引いてみます。
ぎり【ぎり】(名)
① 物事の筋道。道理。
② 道義。倫理。例:弓矢の義理、これにしかじ(武士の道義はこれに及ぶものはない)
③ 責任。義務。例:義理をかきて細かなる算用ばかりして暮らせば(責任を果たさず勘定高い計算ばかりして暮らせば)
④ 世間への体裁。体面。例:ありゃ義理でした色さ(あれは体面上仕方がなくした色事さ)
⑤ 事情。わけ。
⑥ 血縁関係のない親族関係。例:義理ある子(血縁のない子)
と書かれています。しからば「人情」という古語はあるかとなりますが、大修館書店にはなく、他の辞書も2・3見ましたが「人情」の掲載はありませんでした。
にんじょう【刃傷】刃傷沙汰(にんじょう・ざた)
があり、刃傷であることに気がつきました。
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そこで、古語ではなく国語辞典(三省堂)で「人情」を引いてみますと、
にんじょう【人情】(名)人が本来持っている、人間らしい気持ち。
で、漢字辞典(角川・新字源)では、
人情【にんじょう】 人としての感情。情欲。人間らしい心のはたらき。情け。
と、かかれていました。
これから私的解釈を試みると国語・漢字辞典では「人情」は「人間らしい~」という「義理」の意味にはない言葉が使われています。
「義理」の意味を見てみますと、
義理とは、道理である。
義理とは、倫理である。
義理とは、義務である。
義理とは、体面である。
義理とは、事情である。
義理とは、血縁関係のない親族関係である。
義理という概念の生成には、画一された事実があり。人情のような「人間らしい~」というような画一されない、説明できない、曖昧さを含む「らしさ」の要素は含まれていません。
そこに見えてくるのは、「義理」という言葉は、言葉で定義することができるものであることです。
例えば、
道理ならば、AならばBだろう、という決まり。
倫理ならば、上司に、老人に席を譲る礼儀。
義務ならば責任者としてのとるべき義務。
体面ならば、出席者の序列として、当然等格付けの者。
事情ならば、何らかの理由。
と荒っぽい決めつけですが、義理とは、ある事柄について決められた規則、理由がある状態で成立するように思われます。しかもその成立には、同一の場においてであり、同一の義理概念を共有する者達間で成立するということが言えると思います。
このように考えていくと義理は、共有する者達には共通善でもあるわけです。したがって当然のこと共通の場にない者達においては、共通善ではないことになります。
冠婚葬祭の祝儀や香典、付き合い程度、同じ職場、姻族関係等、それぞれの関係性において義理の度合いが見て取れます。それが正しい行いということになります。
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「人情」はどうでしょう。「人間らしい~」ということは、万人が認めるところの共通善であるとともに理想をも含みます。「そうありたい」という願いでもあり、人情話が成立する理由は、そこにあります。
最後に、この義理と人情を英語で表現するとどうなるか調べてみました。研究社の大型の和英辞典では次のように訳されています。
giri 義理 n :[正道]justice[義務(心)](a sense of)
duty
ninjo 人情 n :[人間的感情] human feelings
などと説明されています。
ハーバード白熱教室の「justice」が出てきました。「正義の話をしよう」でコミュニタリアンのサンデル教授の語る「正義」、ここでは正道となっていますが、日本人が義理を説明するときには、「justice」か「duty」を使うことになるということです。
※ アルク出版社の『日本語を語る』という辞典では、「義理と人情」=「love and duty」となっていました。
「duty」は、英和辞典ですと当然義理と訳されますがその他には「ダーティーハリー」のように、「正義の戦いや」「軍務」などの意味が含まれています。
日本語の「義理・人情」をこのように調べてきますと、義理は集団、コミュニティーの関係者が関係するもので、人情は、コミュニティーに関係なく万人の中で語られる言葉ということになります。
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義理・正義には、人情味な行為や人間らしい行為を度外視した意味合いがあるようです。規律的な集団には時として、非道な行為がある。正道を貫くべきものが非人間的な行為に走ることもあると、結論づけることもできます。
ドイツ民族の優位性はホロコースト世界を中東の宗教・民族戦争は尽きることなき戦いをしたり、している姿に見ることができます。
「義理・人情」という言葉から、コミュニタリアの話になってしまいましたが、人間の集団化・共同体化が、逆に人間性を失わせることもあるということを知る手掛かりになりました。
集団化・共同体化には、重要な覚書が必要だとも言えます。その覚え書きとは、「人間らしさ」ということです。
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