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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

おぎゃあ・大いなる母

2011年10月29日 | 仏教

[思考] ブログ村キーワード

 今朝は朝から松本市に出かけました。

 途中連続ドラマ“おひさま”の赤い屋根のお店のセットが建てられた大王わさび園までくると霧が立ちこめ、このような幻想的な風景になり、携帯で撮りました。

 霧のある風景。この季節はこのような風景を安曇野では見ることができます。

 さて最近時々話題に取り上げる「意識」の話です。

 「タブラ・ラサーサ(まっ更な板)。ジョン・ロックは生まれたばかりの意識の状態をこう呼んだそうです(『哲学以前の哲学』(松浪信三郎著 岩波新書)。

 赤ん坊は誰が教えるわけでもなく「おぎゃあ」と産声を上げます。この呱々の声を上げた瞬間に、その子には意識が出現していると言います(上記書p8「8意識」)。

 この泣き声は、母の胎内を出て、地上の空気に触れたときの、驚きと違和感から生じる叫びと受けとれる。この驚きと違和感は、直接的であってまた反省的ではないが、すでに意識である。赤ん坊は母乳を十分に吸い、あたたかい衣服にくるまっているかぎり、満足感にひたったままおとなしく眠っているが、空腹感や不快感が生じると、泣き声を上げる。満足感も、空腹感も、不快感も、直接的であるが、すでに意識である(上記書)。

 こういう語りを目にすると諸橋精光さんの絵本『般若心経』を思い出します。

(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)

般若心経の解説本は星の数ほど多いと表現してよいほど巷に出回っています。

 私も数多くいろいろと読ませてもらいましたが、この絵本は置き場所が直ぐに分かる位置においています。

<大いなる母>

「シシャーリープトラくん、
想像してみてごらん。
もし生まれたばかりの
言葉も話せない赤ちゃんは
さみしいとき、
お腹がすいたとき、
おむつがぬれたとき
どうするだろう」

「そりゃ、泣いてお母さんを
呼ぶと思います」

「そう、泣いて呼ぶんだよね。
そうすると、お母さんはきっと
すぐにかけつけてくれる。

・・・・・・・・・・・


(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)

という話もあり、象徴的な絵が描かれています。


(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)



(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)

羯諦、羯諦・・・・

おぎゃあ、おぎゃあ・・・

このように聞こえるのもありがたいことです。

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悪が熟する・善が熟する・自ずから然りの世界

2011年07月04日 | 仏教

(写真:安曇のではどこへ行っても芝桜が盛りです。笑うという言葉で花をみると活き活きとして見えます。)

 最近は眼前に広がる世界を認識する場合に、「これは何か」という問いによる言語化しなければならない部分と言語化する以前にそれはある、という認識があることを強く意識し、視点という問題、志向性の問題を深く考えるようになりました。

 やまと言葉(古語)の「笑む」「微笑む」という言葉の概念の中には実際にニコニコ笑う、ニヤニヤ笑う概念と「花が咲く」「実が熟す」という概念があること知り、現在では失われている古代人の精神構造に深く、強く感動しています。

 どう見ても花は語ってはいないし、花は笑っていません。しかしそのように表現してしまう。

 実際花を見つめるときに、咲いた花が「微笑んでいる」と・・・表現が難しいのですが・・・言葉化して視線を向けると、花が活き活きして見えるのです。これは単純な話で、現前のものは変わってはいない、変化はしてはいないのですが、活き活きが見える。

 これは個人的な、まったくのこの個人的な考えですので了承願います。

 上記の流れもあって、「花が咲く」「微笑む」や「熟す」という言葉が文字として眼前に立ち現れるとどうも引き寄せられる(主体から積極性)、魅了される(相手の誘惑感で感じるのはあくまでも主体)昨今なのであります。

 昨日はあるサイトの文章に「法句経・ダンマパダ」という原始仏教典の一節を見てその中に「熟」という言葉が書かれているのを発見しました。「悪心が熟する」旨の意味を表現しているもので、以前ならば素通りしてしまうのですが、引き寄せられ、魅了されたわけです。

 そこで、法句経(以下はダンマパダを意味する)を何種類か読み直してみました。

【法句経119】
 悪果未だ熟せざる間は悪人も尚ほ幸に遇ふ、悪果熟する時に至れば(悪人は)悪に遇ふ。

【法句経120】 
 善果未だ熟せざる間は善人も尚ほ悪に遇ふ、善果の熟する時に至れば(善人は)善に遇ふ。

これは法句経(荻原雲来訳注 岩波文庫)で初版は昭和10年です。この当時はこの法句経が流行した時代で、その当時のベストセラーは『法句経』(友松圓諦著)でした。

 友松先生の法句経をみるとこの偈を次のように訳しています(講談社版を使用)。

【法句経119】
 悪の果実(このみ)いまだ
 熟(う)れざる間(あいだ)は
 あしきをなせる人も
 幸福(さいわい)を見ることあるべし 
 されど
 悪の果実
 熟するにいたらば
 その人ついに
 不幸(わざわい)に逢わん

【法句経120】
 善の果実(このみ)いまだ
 うれざる間は
 あしきをなせる人も
 善事(よきこと)を見ることあるべし 
 されど
 善の果実
 熟するに至らば
 善人は幸福を見ん

と訳されていました。しからば中村元先生の『真理の言葉 感興のことば』(岩波文庫)を見ると次のように書かれていました。※注:真理の言葉=ダンマパダ 感興のことば=ウダーナヴァルガ)

【法句経119】
 まだ悪の報(むく)いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

【法句経120】
 まだ善の報(むく)いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

となっていました。どうもいろいろ調べていると原文に近いのは中村先生の訳で、友松先生は「果実の熟」を使っていますが原文には「果実」はないようです。

 次に引用したいのはNHK出版の「シリーズ仏典のエッセンス」の『ダンマパダ』)松田愼也著)です。松田愼也先生は上智大学の宗教学・仏教学の専門家で春秋社の『中部経典』などを手掛けておられる方です。

 この本は法句経の解説書です。偈だけの話ではなく思想解説がなされています。法句経の第5章の偈から引用します。

<引用『ダンマパダ』)松田愼也著 NHK出版)から>

・・・・・『ダンマバグ』第五章「愚者」(※中村元先生の場合は「愚かな人」)には次のような句があります。

 ある行為をしたのちに、そのことで悩み苦しみ、顔に涙して泣きながら、その報いを受けるならば、そのようになされた行為は善くない。(六七「愚者」)

 ある行為をしたのちに、そのことで悩み苦しむことなく、喜んで心地よく、その報いを受けるならば、そのようになされた行為は善い。(六八)

 行為の善し悪しは結果から計られるというわけですが、現実世界は本当にそうなっているでしょうか。善人が報いられるどころか悲惨な目にあったり、悪人がのうのうと栄華を誇っていることもあるではありませんか。業思想は、弱者の空しい復讐願望に過ぎないのではないでしょうか。しかし、そうではない、と 『ダンマバグ』は続けます。

 愚者は、悪行の報いが熱しない間は、それを蜜のように思いなす。しかし悪行の報いが熟したときには、苦しみを受けるに至る。(六九「愚者」)

 悪しくなされた行為は、牛乳と同じように、すぐには固まらない。灰に覆われた火と同じょうに、じわじわ燃えながら、愚者につきまとう。(七一)

あるいは、次のようにも言われます。

 まだ悪の報いが熟しない閏は、悪人といえども幸運に出会う。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はもろもろの凶事に出会う。(二九「悪」)

 まだ善の報いが熟しない間は、善人といえども凶事に出会う。しかし善の報いが熟したときには善人は幸福に出会う。(一二〇)

結果が現れるのには時間がかかるのです。それまでの間は、あたかも業など存在しないように見えるのだ、というのです。牛乳を暖かいところに放置しておくと、やがて腐敗して固形分と上澄みに分かれます。これをうまく管理すれば、ヨーグルトやチーズができます。

インドでは、古来、乳製品を多く食べてきました。それを巧みに比喩として用いているのです。火を灰に埋めると長時間保つことができます。火種を残すのです。私たちは必要に応じてそれを掘り出し、炎を燃え立たすことができます。そのように、業は埋火(うずみび)として存在し続けるのです。

 でも、これでもまだ不十分です。人の一生だけを考えれば、到底、善悪の業とその報いである苦楽とは、計算上の辻褄があっているとは思われません。

「天道、是か非か」とは中国の史書『史記』の作者・司馬遷の残した有名な言葉です。高潔の士である伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟は極貧のうちに餓死し、極悪人の大盗賊である盗跖(とうせき)柘は天寿を全うしたことについて発した疑問です。

古代中国に業思想はありませんが、「天」が人の善悪を把握し、賞罰を与える、と信じられていました。本当にそうなのだろうか。果たして「天」に正義はあるのか、というのです。・・・・・

<以上同書p35~p37から>

この続きには、この

<果たして「天」に正義は>

に対するインドの輪廻思想が語られていますが、今朝の思考の視点はこの「熟」という言葉ですのでここまでの引用としました。

 「熟」の根本的な意味は「菌が繁殖」をするような感覚の概念のようです。

菌という主体が、培養皿であたかも意志のあるように自分の都合の善き方向に繁殖するように・・・・。

 その根本には、主体があります。「菌」という主体が。

 そこでやまと言葉に「熟する」という言葉があるか、というと古語辞典にはありません。古語の逆引きの辞典『古語類語辞典』(三省堂)を引くと次のように書かれています。

じゅく・す[熟] 
 あからみあふ[赤合]
 うる[熟]
 つゆ[潰・熟]
 わらふ[笑]

じゅくせい・する[熟成]
 なる[慣・馴]

となっていて、わらふ[笑] については過去に「微笑む」の時に紹介しています。注目点は最後にある。

 なる[慣・馴]

で悪が熟するのではなく、悪に慣れる。以前にも言った「狎れる・熟れる・慣れる・馴れる」につながり。

 日本語では「悪」に主体性をもたせない。悪に染まっていく私がある、という感覚なのだと思うのです。

 「なる」の根底にも通じることで、[慣・馴]ではあるが「成」でもあり、主体性のない「自ずから然り」の世界が見えるような気がします。

 そのような世界観が、仏教の伝来とともに折り重なり独自の、大乗的なもの、民俗的なものにうまく迎合されているのではないか、というのが今朝の結論です。

 さらに哲学的に追求するならば、西洋の現象学における志向性の機能の捉え方です。「自ずから然り」という視点が捉えにくい(合理的に説明ができない)という問題につながるように思えるのです。

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智慧・無智・ありのまま・ため息

2011年07月03日 | 仏教

(写真:2011.6.12Eテレ「こころの時代 山折哲雄~共に生きり覚悟~」から)

 昨夜2日午後11時43分のいつもの松本市の南を震源地とする震度1(M1.6)の地震後、松本大谷は今のところ地震は発生していませんが、房総半島南方沖近辺では震度1(M3.4)の地震が3日午前3時54分に発生しています。地図で見ると野崎半島の真南約40km先の太平洋上です。

 友人から「いつになったら地球は静かになるのだろう」というとても深い声を聞いた。長大息(ちょうたいそく)という天を仰いで、ため息のするさまを表した言葉がありますが、誠に天を仰ぎたくなる心境です。

 「鎮まることはないんだよ」という言葉を吐きたくなりますが、そもそも現代人はその知識から、絶対にありえないことを知っているのではないでしょうか。

 震度1などは体には感じない地震です。地震国プレートが入り込みそのプレートもいくつかが複雑に絡み合い、全国的に活動中の断層、制止中の断層があり、また活動中の火山がある日本。これは日本だけではなく世界にはいくつもそのような場所があり、有機体的に常に動いているわけで、知識からすれば無機物も崩壊していきますから、この世に変わらないものはない、ともいえるわけです。

 知識としてこのような、ことを知っていれば「いつになったら地球は静かになるのだろう」という長大息はあり得ないのですが、しかし人間は知っていてもそう叫びたいのがありのままの姿としてあります。

 そう叫ばない人間は、想像しただけで血の通いがない人間のように思われます。無常感から来る吐露、独白は、悲観ではありません。

 「無常を語る文化が根付いているから日本人は無常をよく知っているかというと、そうではありません。やはり観察能力が乏しくて、無常の一部だけを好きなようにハイライトしているのです。」という言葉を繰り返す人がいますが、戦後の復興や阪神大震災、今現在の東北の復興の民間の復興の意欲を見ていると決してそうではないことがわかります。

 如実知見という言葉があります。「ありのままに見ること」という意味で、仏教ではその初期段階から、

 自然現象の実情をあるがままに見ること。

 人間の真理をあるがままに見ること。

という立場が看取されると言います(原始仏教の思想Ⅱ 中村元選集大16巻 春秋社p29)。

 無常感とはこれに直結するものだと思います。

 時々「知っている」ということはどういうことなのか考えるときがあります。

 特に夜間静かな夜道を車で走っていると、走行車線の遠方に黄色から赤に変わる信号を目にします。

 その時私は「あれは信号機で、道路交通に関する法律で設置され、黄色は赤になるので注意しなさい。そうように世の中のルールとしてみんなが守っていますので、それにしたがって行動してください」などとは、心の片隅語ってはいません。

 しかし私はそのように行動します。なぜか・・・・。

 ご飯を食べるときに茶碗と箸を使います。一々「これはご飯を食べるときの器でこれが箸、そして日本人はこういう時にはナイフとフォークは使いません。」とは決して心の中で語ってはいません。

 ところが、まったく信号機を見たときのない、外国の人が来たとします。信号機や茶碗や箸を見て何と思うでしょう。「器」という概念は今では普遍的な要素があり、細かな説明は必要ではなく、「ありのまま」その茶碗は「そのように使うかもしれない」という思いを持つことができます。

 そこで、信号機や茶わんや箸を「無知」な人間と非難するであろうか・・・・。

 最近仏教の用語の「智慧」という言葉が説明され「無常」ということも含めて語られている文章を読みました。

<『バカの理由 役立つ初期仏教法12』(スリランカ初期仏教長老アルボムッレ・スマサーラ サンガ新書から>

智慧を定義する

 それでは「智慧とはなにか」という定義をご説明します。智慧とは物事をありのままに知ることです。まず、六根にデータが入りますね。眼耳鼻舌身意に情報が触れます。その情報を瞬時に主観で合成して概念になる前に、そのデータを明確に観察すると、データというものは常に流れて消えていくものだと発見できるのです。

 データの流れにあわせて感覚も、六識も、変わっていくことを発見する。それで普遍的な真理はなにかと求めると、「ものがある、ものが存在する」という決まりは間違いだと見えるのです。せめていえるのは「すべては無常だ」ということです。無常たるものは、苦か、楽かと判断すると、苦になります。すべて変わるので、変わらない実体があり得ないということで、無我というのです。六根にデータが触れると、すべての現象に対して無常か、苦か、無我のいずれかを発見することが智慧なのです。
                                 
 また、生きるとはなにかという疑問に対して、ブッダは四聖諦(ししょうたい)を発見したのです。「生きることは苦の連続である」という「苦聖諦」があります。そして苦を発見しない人が「生きつづけたい」と思うので、その衝動は渇愛というエネルギーに変わるのです。これは苦の原因です。「苦集聖諦(くじゅうしょうたい)」といいます。しかし渇愛という衝動をなくすことができれば、苦も消えるのです。この事実は「苦滅聖諦(くめつしゅうたい)」といいます。さらに渇愛という衛動をなくす方法もあります。その道は「苦滅道聖諦(くめつどうしゅうたい)」といいます。

 この四つは生きることにかかわる普遍的な真理なのです。一般人には発見できない事実なので、聖諦と名づけています。もし人が「生きることは認識しつづけること以外なにもない」と発見し、それから「認識しつづけることは苦の連続である」と発見していけば、それは智慧があらわれたということなのです。

 この説明を定義として短い文章にしましょう。「智慧とは、四聖諦を発見すること」です。もうひとつの定義は、「智慧とは、現象の無常、苦、無我を発見すること」です。これで智慧の定義を終わります。

 では次に、無智の定義をつくりましょう。「物事を認識しても、四聖諦を発見しないこと、現象の無常、苦、無我を発見しないことを無智という」です。

 納得がいかない定義かもしれませんが仕方がありません。私たちの認識ではものがある、ものが存在する、という結論に立つことは避けられないのです。「しかしその結論は事実ではありません」といっても、私たちには理解できません。ですから「目の前に花があるではないか。それが私には見えるではないか。花があるという概念は正しいのではないか」と、普通はこのような反論が心に生まれるのです。私たちの日常の認識の働きが無智なのです。そう簡単に納得できるものだとは思いません。

<以上同書p94~p97から>

とても印象深い原始仏教の解説で引用させていただきました(700円+税で購入しました)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 脳内活動も含めて身体というものはすごいもので、一刹那にある時、あるがままに私の目の前にある現象は、悠久の歴史の蓄積が一気に立ち現れて認識させてくれます。

 知らないものは知らないとして、単なる形(信号機・茶わん・箸:言葉・言語にすると知っているということになりますが便宜上)の認識で終わります。

 私が身体で覚えていること、意識しないでなって立ち現れる感覚でもなく、雰囲気でもなくそのままであること。

 花が語ることはなく花は笑うことはないのは当たり前ですが、擬人化するのでもなく、思いを寄せるでもないが、花が咲いているのと君・妹が微笑むのも同じに分かる。

 山折哲雄先生が被災地の瓦礫の山のかなたに見える、輝く太陽、照らされ輝きないでいる風景を見たときの感想を述べられていましたが、静かなのです。

<「いつになったら地球は静かになるのだろう」>

分かっているのですが、天を仰ぎため息をつきたくなる時もあります。

 

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讃酒歌・野狐禅の世界

2011年06月30日 | 仏教

 今年の誕生日は、運転免許証の更新と重なり、新型の免許証になりました。国籍本籍地の既済蘭のないICチップが組み込まれ、暗証番号が2個付いています。

 世の中これほど自分がどこの誰であるかということを端的に証明してくれるものはないわけで、これに金融カードの様な機能も付随すればこれほど便利なものはないと思うわけですが、想定外の問題も必ずあるわけでそう成るうわさも聞かれません。

 現実はそうたやすくないわけです。今朝はそういう現実の中でどう生きるがよろしいか、現実というものに焦点を当てた話をしようと思います。

 最近多く語る万葉集の世界、昨日のEテレ「日めくり万葉集」では、これまた話題にしています倫理学者の竹内整一先生が撰者で、大伴旅人の「酒を讃(ほ)むる歌十三首」からの歌が紹介されました。でした。

 先に紹介された歌が、巻3-349

生ける人
つひにも死ぬる
ものにあらば
今在る間は
楽しくをあらんな


 生きている人は
 いずれ最後には死ぬ
 ものであるから
 今この世にある間は
 楽しく生きよう

次に紹介されたのが、酒を賛むる歌であるのですがこれも「酒」が入らない、

 この世にし
 楽しくあらば
 来む世には
 虫に鳥にも
 我はなりなむ

この歌の訳ですが、竹内先生は、

【竹内先生談】
 自分がいまたのしいのであれば、来世、虫になろうが鳥になろうが構いはしない、と詠っています。彼はこの歌に、当時流行り始めた浄土教への挑戦の意味を込めています。

と語っていました。日めくり万葉集のテキストは、大変親切なテキストで番組内で語られるナレーターの言葉もそのままほぼ100%と記載されていてメモを取る必要がありません。

 残念なのはとても素敵な風景を含んだ画像はどうしても録画で再度見るしかないわけで、印象的なカラー写真の風景等を入れるとなると690円のお手頃価格では収まらない現実の厳しさがあります。

 さてテキストからの引用ですが、当時、伝来した浄土教は、この世は無常ではかないもの、来世で極楽浄土に生きることを人々に説いていました。しかし対照的に、この世で楽しく生きるべきだと大伴旅人は詠っているわけで、このような考え方は連綿と受け継がれていると竹内先生は語っています。

【竹内先生談】
 中世ですと、『徒然草』の「徒然」は単な暇(ひま)ではありません未来へと計画を立て、先へ先へ進むのではなく、今をそれ自体として楽しめというのが『徒然草』の大事なメッセージですが、背景にあるのは厳しい無常感です。
      
 近世の『葉隠(はがくれ)』という武士道の書物でも、来世ではなく、今ここでどうきちんと人や殿様との関係を築いて生きるか、ということが大事なのです。死んでからどこかいい世界に行く、という発想ではない。旅人の言っていることは、『徒然草』や『葉隠』にも繋がっています。

と述べ、万葉のこの時代に旅人のように考える人がいたということの意味は大きいということです。私見ですが芭蕉や西行さんのはるか前に既にそういうことを言う人がいた、ある面普遍的なところを感じます。

さらに竹内先生は次のようにも語っています。

【竹内先生談】
 生きているものが、みな死んでしまうものであるからこそ、今を楽しめるのだよ、楽しむべきなのだと衆人は言いたいのでしょう。

 当たり前のことのようですが、万葉の時代にこのように言っていたのは大事なことです。 我々に対しても、生けるものは必ず死ぬ、だからこそ今を楽しみなさい、と言っている気がします。

 この言葉が番組の最後に語られました。幻想的な夢物語や瞑想世界に遊んでもいられない、「食事はまだか」「宿題は済んだか」「歯は磨いたか」・・・悟りというものがあるとするならば、悟りがあろうがなかろうが、幼子までが現実世界を離れて生きることはできないわけです。

 最近「野狐禅(やこぜん)」について語られたブログを読んで、考えさせられました。

 「野狐禅」とは禅宗の禅問答集の『無門関』の第二則に書かれている話です。

 どんな話かというと、『無門関を読む』(秋月龍著 講談社学術文庫)の現代語訳で次のような内容です。

<引用『無門関を読む』(秋月龍著 講談社学術文庫)から>
  
41 百丈(ひやくじょう)の野狐(やこ)
 
(第二則 百丈野狐)
 百丈和尚が説法されるたびに、ひとりの老人がいて雲水とともに聴法していた。説法が終わって雲水たちが法堂から禅堂に退くと、老人もまたいなくなった。ところが、ある日思いがけなく老人が退場しなかった。そこで禅師は、

「目の前に立っている者は、いったい何人だ」

 と尋ねた。老人は答えた、


(『禅問答の知恵』自由現代社p170から)

「はい、私は人間ではございません。過去の迦葉(かしょう)仏の時代に、百丈山に住職として住んでいました。[そのとき]修行者が、

『大修行の人でも、やはり因果に落ちますか』

と尋ねたので、私は、

『因果に落ちない』

と答えました。[その答えが誤っていたために、]

て[畜生道に輪廻して]います。今どうか老師、私に代わって一転語をはいて、私は五百ペん野狐身に生まれ野狐の身から解脱させてください」
  】一
 そこで老人は[ただちに修行者の立場に立って]、

「大修行の人でも、やはり因果に落ちますか」

 と尋ねた。和尚は答えた、

「因果を昧(くらま)さない」

 老人は言下に大悟して、礼拝して言った、
 
「私はもう野狐の身を解脱しました。[そのぬけがらは、]山の後ろに住めておきます。失礼ながら老師に申し上げます。どうか亡くなった僧侶の事例によって葬っていただきたい」

 和尚は維那(いのう)に命じて白槌(びゃくつい)して雲水たちに告げさせた、

「斎座(禅院の昼食)の後で、亡僧の葬式をする」

 雲水たちは、「一山の大衆(雲水)はみんな健康で、涅槃堂にも病人はいない。どうしてそんなことを言われるのであろうか」

 と言い合った。

 斎座の後で、和尚は雲水たちを率いて山の後ろの大岩の下に行って、杖で一匹の死んだ野狐を挑(は)ね出して火葬にふされた。

 和尚(百丈)はその晩、上堂して、前の因縁を話された。すると、高弟の黄檗(おうばく)がただちに問うた、

「古人(野狐の老人)は誤って一転語を答えて、五百生の野狐身に堕ちた。一つ一つ[問われるたびに]誤らずに答えたら、いったい何になるべきであったろうか」

 和尚は言った、

「近くへ来い。あのお方(前百丈-野狐の老人)のために言おう」
 
 そこで黄檗は近づき進んで、師の百丈に平手打ちをくらわせた。百丈は手を拍(う)って笑って言った、

「達磨の鬚(ひげ)は赤いと思っていたら、なんだ[ここにも]もうひとり赤い鬚の達磨
がいよったわ」

<以上同書p221~p223から>

という話です。あの朝比奈宗源先生は、『無門関提唱』(山喜房佛書林)の中で、

<引用『無門関提唱』(山喜房佛書林)から>

 この則は、禅の見性の上に於ける因果を明らめしむる公案である。大修行底の人、すなわち禅の修行の出来上った人も因果律の支配を受けるかどうか、もし受けるとしたらお釈迦さんでも品行いかんによっては地獄へも行かれねばなるまい。もし又絶対に因果律の支配を受けないとしたら、どんな行いをしてもかまわないか、この重要な禅の倫理性に関する対決の要諦である。

<以上同書p12から>

と語り、野狐禅の話を引用した秋月先生は、その著で、

<引用上記書>

・・・・・この公案、「不落因果」は誤りで、「不昧因果」が正しいのだ、などと解するとしたら、とんでもないことです。無門和尚は言います-----

 「不落因果」で、どうして野狐に堕ちたのか? 「不昧因果」で、どうして野狐から脱したのか? もしここに、ものごとを見ぬく一つの眼が開けたら、前百丈の野狐の身であった五百生が、そのまま実は風流三昧の生涯であったことが分かるだろう、と。

 月を愛で花をながめて暮せかし 仏になすなあたらこの身を

 不落にて野狐になりたる咎(とが)の上に 不昧で脱す二度のあやまち

 狐が狐に安住して他をうらやまぬときを「仏」というのです。人が人に満足せずして他に求めてやまぬときを「狐」と言うのです。ここを「ただ因果のみあって人なし」とも言うのです。

 どこも因果いつも因果となりすませ 外をさぐるな大修行底

<以上上記書p225から>

素人の私にはきつい話で、『笑う禅僧 悩め、苦しめ、そして答えよ!』(安永祖堂著 講談社現代新書)参考にしようかと思ったらキリスト者と公案の話もありますが、さらにきつい話。

 こう叩かれてみれば、痛いのは今で、目が覚めるわけです。

 草木が語ろうが、花が微笑もうが、これは人の志向的な機能の産物で科学的な世の中、その目で見て、触って、嗅いで、時には味わってみれば、その草木の世界があるわけではありません。

 四六時中太陽にさらされ、大地に固定され、渇いたときに雨はなく、欲しくもない時に流される。

 狐だったらどうだろう。腐った肉も食べなければならないだろうし。人様の前でもパンツをはかず逃げ回らなければならないし。犬であったら所構わず片足を上げて、股間をさらし商用をつい小用もしたくなる。

 そんな世界を500回も繰り返した。当然記憶する能力からすれば開けの明星も宵の明星も同一の金星と分かったはず・・・・・。

 大伴家持は違いの分かる男だと思うのです。片手に杯を持ちながら語るのです。

 前にも引用しましたが、家持は当然花が微笑むのを知っているのです。

<どこも因果いつも因果となりすませ 外をさぐるな大修行底>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記に「志向的な機能の産物」と書きました。「志向性(intentionality・Intentionalita)」の世界です。これだと和辻哲郎先生が言うように、ハイデガーの不足分を感じまた竹内先生の言う「花びらは散る 花は散らない」話になるように思います。

 生ける人 つひにも死ぬるものにあらば 今在る間は 楽しくをあらんな

 この世にし 楽しくあらば来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ

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天然の無常観・ニヒリズム的無常観

2011年06月18日 | 仏教

 今朝の写真は「ヤマボウシ」です。松本平、安曇野平は「ヤマボウシ」が今が盛りです。街路樹として庭先の樹として見ることができます。

JCASTニュース2011/5/7社会に、

震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(12) 「神様消滅」という藤原新也氏の写真で考える
http://www.j-cast.com/2011/05/07094822.html

という記事が掲載されていました。

(「東日本大震災 100人の証言」AERA緊急増刊2011年4月10日)の写真家藤原新也氏の文章に対する所感記事です。

 竹内整一先生は、我が郷土長野県の出身で、これまでもブログで先生の著書等の話を題材にアップしたことがあります。

 上記JCASTニュースには、紹介欄があり次のように書かれています。
 
 竹内整一(たけうち・せいいち)鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。
 1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 やまと言葉の哲学にも似た論調に、共感を受けるところが多く毎回興味深く記事を詠ませていただいています。

 <「神様消滅」という藤原新也氏の写真で考える>

 この竹内先生の記事によると、AERA緊急増刊で、東日本大震災の被災地に立った藤原新也氏は、

 「全土消滅 昭和消滅 神様消滅 独立独歩」

 「私は水責め火責めの地獄の中で完膚なきまでに残酷な方法で殺され、破壊し尽くされた三陸の延々たる屍土の上に立ち、人間の歴史の中で築かれた神の存在をいま疑う。」

 「そして"神幻想"を失った私たちはいま孤独だ。しかしまた孤独ほど強いものもない。哀しみや苦しみや痛みを乗り越え、神幻想から自立し、自らの二本足で立とうとする者ほど強いものはない。」

 「日本と日本人はいま、そのような旅立ちをせんとしている。」

という文章を書かれていたそうです。記事の引用文章になってしまいますが、竹内先生は上記の藤原新也氏の言葉から、「「神様消滅」という藤原新也氏の写真で考える」の中で続いて次のように語っています。

<しなやかに生きる精神伝統を、今あらためて思い起こす>

   古来、日本人は、地震や台風など災厄は、みな祟り神の所為であると考え、それを怖れ祭り、願い祈ることによって、荒々しい働きをやわらげ、われわれを恵み幸(さきわ)う働きへ転じるようにと祭祀、祭り事を営んできた。
 
   藤原氏も、「私たちが"生かされ続けてきた"長い恵みの歴史の中で"そこに神がいる"という想念は当たり前のこととして人間生活の中に定着した。」と言う。
 
   にもかかわらず、「このたび、神は人を殺した。」と、最初の文章につなげ、もはや「神幻想から自立」すべきだと訴えているのである。また、石原発言について、「それはイワシの頭を信じる愚か者が叫んだように"罰が当たった"のではなく、神はただのハリボテであり、もともとそこに神という存在そのものがなかっただけの話なのだ。」と切り捨てようとしている。
 
   あらためて考えてみているが、そうは思えない。
 
   また、よく言われるように、近現代の日本人が無宗教であるとも思わない。
 
   Religionの翻訳語に「宗教」が当てられて以来、信仰のあり方が限定的に語られるようになったのは事実である。毎年八千万を超える人々が初詣に参るし、お盆にはふるさとに帰省し墓前に手を合わせている。さまざまな祭りや年中行事も、変わることなく続けられてきている。そうした営みにはさまざまな要素を含みながら、しかしその根底には、日本人の宗教心ともいうべきものが確かに見てとれる。それは寺田のいう「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶」からそう離れているものではない。「不可抗の威力」があると感受することそのものが、すでに大事な「信仰」ではないだろうか。そうした「威力」のあることを確かに受けとめることにおいてこそ、勁(つよ)く、そしてしなやかに生きうるとする精神伝統を、今あらためて思い起こしたい。
 
   そもそも、「神幻想から自立し、自らの二本の足で立とうとする」藤原氏のこの文章には、「怒り」や「切なさ」が、"神"に向け発せられているように見えること自体に、単なる「否定」ではないものが感じられる。

<以上>

>それは寺田のいう「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶」からそう離れているものではない。
「不可抗の威力」があると感受することそのものが、すでに大事な「信仰」ではないだろうか。そうした「威力」のあることを確かに受けとめることにおいてこそ、勁(つよ)く、そしてしなやかに生きうるとする精神伝統を、今あらためて思い起こしたい。<

 文中の「寺田」とは寺田寅彦先生で、著『日本人の自然観』の主張からです。
 
 青空文庫 寺田寅彦著『日本人の自然観』
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2510_13846.html

には、次のように書かれています。

<引用>

日本人の精神生活
 
 単調で荒涼な砂漠さばくの国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
 
  仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明(かものちょうめい)の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁ひんぱんでしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑(ごぞうろっぷ)にしみ渡っているからである。
  
  日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。

雨のない砂漠さばくの国では天文学は発達しやすいが多雨の国ではそれが妨げられたということも考えられる。前にも述べたように自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威のゆるやかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。

全く予測し難い地震台風に鞭打むちうたれつづけている日本人はそれら現象の原因を探究するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。
  
<青空文庫 寺田寅彦著『日本人の自然観』から>

 これまでの宗教学者山折哲雄先生の主張にもこの寺田寅彦先生の言葉が引用されています。

 今回の東日本大震災で、日本の伝統的無常観寺田先生の言うところの、

 >天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。<

に強く影響というよりも、その指摘に納得される方々が多いように思います。

 寺田寅彦先生は、

>思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。<

とも指摘しています。ここに次のような文章があるとします。

》哲学的な大乗仏教は、「無常はどうにもならない状態だから、本来すべては空だ。何もないのだ」と考えて、ブッダの説いた教え、解脱まで「空」にして否定します。ブッダの教えを骨抜きに・・・・・《

このような文章に出会った人は、寺田先生の分析を全否定し、魂の行方、日本文化さえ否定せざるを得なくなります。

 なぜ日本人の魂を否定しなければならないのか、それが善き生き方とは思えないのです。

 大震災後の穏やかな自然を目にしたとき、飛び交うカモメを見るときに、自然界が示す荒れも、静も、常に我々には、折り重なり、離れてはいない現象として立ち現れている・・・そう思うのです。

 これは、空(そら)の上の天(あま)を見ることができる智慧ではないでしょうか。

 天離(あまさか)る地にあるものにとって、魂の拠りどころ、魂の行方(ゆくえ)の先を眺望するアプリオリな智慧でもあると思うのです。

竹内先生は藤原新也氏の言葉に、最後に

>「怒り」や「切なさ」が、"神"に向け発せられているように見えること自体に、単なる「否定」ではないものが感じられる。<

と語っています。「怒り」や「切なさ」を感じない人はいません。

>"神"に向け発せられているように見えること自体に<

>単なる「否定」ではないものが感じられる。<

これはどういう意味なのか、非常に難しいと語りです。しかし、なんとなく竹内先生の言葉には、とても深さと重みを感じます。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 「諸行無常、一切皆空」から「無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ」と若者に植え付ける作品を書いている流行作家がいます。

 その作家は、最近も受賞式で、日本批判(政府批判、それまでの政権批判です場においては日本批判だと思います)をされていたようです。

 「無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ」は作品中の主人公のつぶやきですが、

 確実に現代の青年たちのつぶやきでもあるように思います。・・・・・

 それはまぎれもなく、ひとつの無常観、ニヒリズム状態です。

と、竹内先生は最近の著書『無常の日本思想 花弁は散る 花は散らない』(角川選書p11)と書いています。

 すなわち、現代の無常観=ニヒリズム(私:ニヒリズム的無常観と呼びたい)と分析しています。

 伝統的な日本文化、仏教の批判は、ニヒリズム的無常観を醸成しているように思います。

 すなわち天然の無常観とは程遠くなってきているということです。

>単なる「否定」ではないものが感じられる。<

の意味するものはないか・・・深さと重みを感じ考えさせられます。

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参考

あわい・やまと言葉・老いを生きる[2011年01月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/df0001385e21dd7cb283c0ddad61bb12

自己発見の道・金子大栄[2011年01月24日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/4d0cfff45b24f9443cbc2dc6891955f9


悪行三昧の戒め・なれ

2011年06月16日 | 仏教

 以前ブログで「なれる」という言葉についたことがあります。「狎れる」「馴れる」「慣れる」「熟れる」などと漢字で表記する言葉です。

 「何がしかに、なれ親しむ」言葉です。

 「なれ」からくる失敗。なれ親しんで行う行為は、時には失敗を招くことが多いと誰もが自らの経験で知っているのではないでしょうか。

 しかし一方、「なれる」ことによって仕事はスムーズに進み、自らの夢を実現する道にもなるわけで、「なれない」内は失敗の連続でもあるわけです。

 「なれる」ことも「なれない」こともどちらも失敗につながることに気がつきます。

 「儲かればいいではないか」と欲に駆られて理不尽な行為を続けると大きな過ちを起す。

 福島第一原発事故の教訓の中にみられるある種の欲。それによる原子力発電の安全性に対する「想定外の設定の隠蔽」を指摘する人もいるようです。

 また丁寧に扱うべき食肉を丁寧に扱うことをしない癖によって死者まで出す結果にもなりました。

 私たちには関係ないと、傍観者のごとくに振る舞う癖は、とんでもない人たちを選び出し混乱の政治を見る結果になり、火の粉はまさに傍観者に降り注いでいます。

 そこに見え隠れしているのは何か?

 正に「なれ」ではないかと思います。

「なれ」という言葉で次のような文章を作ってみました。

 ・ 官僚は、権力に狎れないこと。

 ・ 一般公務員は、仕事に慣れないこと。

 ・ 政治家は、欲に熟れないこと。

 ・ そして一般国民は、飼い馴らされないこと。

政治かも権力を欲するのではないか、官僚と同位ではないかと考える人もいますが、私にはどう見ても「欲」の囚われに見えて仕方ありません。

 「囚われ」という言葉が出てきました。「欲」は囚われ、「なれ」も囚われそして「癖」に囚われる。

 「科学は人間の業である」と梅棹忠夫先生は言われましたが、すべては人間の業から始まる。それはまた、なれ親しむので癖になる。仏教的には薫習(くんじゅう)といって体に染み込んで取り除くことができない。

 その業の習慣に気がつき是正する努力をしなければいけない。なぜそうしなければいけないのか、「なれ」は失敗となり自らを崖下に投棄するからです。

 「怠るな」とはそんなところにある。

 「諸悪莫作(しょあくまくさ)」

悪いことをしないように努力する習慣づける。日々精進する。

いたって簡単なことなのですが、人間の業とは深いもので大変なものです。

「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」

 人に善いことをしていると自負し己の暗黒の闇の中に囚われていれば、何時しか自らを、また他人を害することになります。

 今の世の中の流れの中で、私たちにそのことが突きつけられている。そんな気がしてならないのですが・・・どう見ても悪行三昧が・・・見えてなりません。

今朝も賢治の次の言葉を掲げたいと思います。



世界がぜんたい
幸福にならないうちは、
個人の幸福はありえない。
 
新たな時代は世界が一つの意識
になり生物(いきもの)になる方向にある。
 
正しく強く生きるとは銀河系
を自らの中に意識してこれに
応じて行くことである。
 
われわれは世界の誠の幸福
を索(たず)ねよう。
 
求道(ぐどう)すでに道である。
 
『農民芸術概論綱要』から

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「しなやかに歌って」から聞こえてくるもの・柔軟心

2011年05月01日 | 仏教

 今は引退してしまった山口百恵さんの歌に、宇崎竜童作曲・阿木燿子作詞の「しなやかに歌って」(1979)という曲があります。

 「しなやかに歌って、淋しい時は  しなやかに歌って、この歌を」という歌詞から始まり、この同じフレーズが6回歌詞の中に入っています。

 二日前に、

「しなゆ」という「やまと言葉」(2)補正

というブログをアップした時に、万葉学者の中西進先生の1994年にNHK放送大学でで講義された「古代日本人の宇宙観」の使用したテキストから、

<引用>
末通女等(おとめら)が袖布留(そでふる)山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは
(万葉巻四)
 
 というのは『万葉集』の柿本人麻呂の名歌ですが、少女たちが袖をふるというのは魂を招く美しくも厳かな神事で、その華やかで若々しい仕草と対応するのが神域のみずみずしい、生命にあふれた垣根でした。
 
 瑞枝(みずえ)ということばもあります。これも神域の長寿の木が生命力の象徴のみずえようにさし伸べている枝です。
 
 そこで当然、人間についても同じように考えることになります。みずみずしい姿こそが最高の理想像で、これを「しなう」(しなふ)といいました。弾力がある姿です。弾力はみずみずしくなければ出てきません。
 
反対にみずみずしくなくなると、しないません。『万葉集』では「しなふ」姿が男女ともに賛美されました。しなやかな姿ですね。

<以上>
という文章が含まれた部分を引用しました。

 この文章を引用しながら、先の山口百恵(以下百恵さん)さんの「しなやかに歌って」が浮かびました。

 「しなやかに歌って」とは、イメージ的には「こだわりなく」「何かに囚われることもない」・・・・

 そんなイメージが湧きます。作詞された阿木燿子は、自分の前から去った男性について、未練を断ち切る言葉として「しなやかに歌って」と一人称の自戒を促している。恐ろしいまでに完成の鋭さと表現力を感じました。

 ここに表現されている「しなやか」は、現代語です。

日本語大辞典(講談社)には、

しな-やか(形容動詞)
1 たわみしなうさま
2 やわらかくなよやかなさま
3 やさしいさま

大辞泉(小学館)
しな-やか(形容動詞)
1 弾力があってよくしなうさま。
2 動きやようすがなめらかで柔らかなさま。
3 姿態などがなよなよして上品なさま。たおやかなさま。


と解説されています。

 さてこの百恵さんの歌の「しなやかに」は、この中のどの「さま」になるのか、非常に考えさせられます。

 別れの寂しさ、別れの辛さに耐え切れずとんでもないことを考えてしまう。そんな女性に一人称でささやく「しなやかに歌って」は、

 軟弱になりなさい。弱く、悲しみに沈みなさい。

と囁いているのではないように思います。

 心に柔軟性を持ちなさい。悲しい時は悲しいが、そっと時が過ぎるのを待ちましょう。
 執着は程々に、心に余裕を・・・・。

 総じて自らの出会いと別れの偶然性・必然性をよく噛みしめて、ニーチェ的な「悦び」を持てと言っているように思うのです。

 私の個人的な勝手な解釈です。こういう時のも聞く「アンテナ」をもっていることが重要なのかも知れません。

 「アンテナ」の話は、曹洞宗大教師の青山俊董先生の受け売りですが、その際沢木興道先生の「耳鳴りがするまで聞け。初めて聞くつもりで聞け」旨の話がありました。沢木先生に直接言われた言葉ですから、沢木先生の著書にあるわけではないのですが、一連のこの話は「無情説法」ということにもつながる話だと思います。

 この「無情説法」については、ブログを書いて反省とともに勉強したことがあります。

 さて沢木興道先生はこの「無情説法」についてどう語られていたかですが、『沢木興道全集 道元禅師偈頌講話 第五巻』に掲載されています。その文頭部分を紹介します。

<引用>
無情説法

 無情説法

無情説法不思議。
(無情の説法不思議)
三世如来信受之。
(三世の如来之を信受す)
更有阿誰還得会。
(更に阿誰有ってか還って会することを得ん)
一杖技杖等閑知。
(一枝の柱杖等閑に知る)

『無情の説法』これは通常から考えると、有情・無情、生あるものを有情といい、草や木や山や川を無情という。無常が説法する。これは古いところでは、『華厳経』の中にも「殺説衆生説(せつぜつしゅじょうせつ)といい、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の大身、山雲海月みな説法する、山も雲も月もみな説法するとあり、あるいは『阿弥陀経』の中にも「水鳥樹林」水・鳥・林の声を聴いて、悉皆念仏念法念僧とこうある。

祖師の中では大証国師に無情の説法ということがある。それから洞山大師において、無情の説法ということがある。いま道元禅師は『永平広録』の巻の六に
「無情の説法」という題でお説きになる。

 中国の宋の時代に、蘇東披が常総禅師に無情の説法という説法を聴いて、つぎの詩をつくった。
 
  谿声は是れ広長音。
  山色豈に清浄身ならざらんや。
  夜来八万四千の偈。
  他日如何(いか)んが人に挙似(こじ)せん。
  
 蘇東坂において谿声山色----谿の声やあるいはまた山の色が、谿の声は仏の説法であり、山の色は仏の姿であると、こういうた。道元禅師にも、
 
  峰の色 谿の響きもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と
                         
 という歌がある。人間は毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされる。音楽に画してすぐオロオロして流転する。説法を聴く。それを最極上等とセリ上げてゆくと、無情の説法というところまでゆく。だから、

  音もなく香もなく常に天地は書かざる経を繰返(くりかえ)しつつ

 という歌があるが、宇宙一ぱいが『一切経』であり、宇宙一ぱいが仏である、ということになる。
 
 東洋はかりでなく、西洋でも、人間はどうもあてにならぬという。人間のいうことにはかけひきがあったり、また人間は感情に動かされたり、時の権門に動かされたりする。哲学者や宗教家や思想家の最後のねらいは、この無情の説法をきくというところにあるのではなかろうか。むしろ人間というものが、一番深い迷いをしているものではなかろうか。
 
 ・・・・<以下略>

 大事なことは耳鳴りがするほど聞け!
 
 しかも、毎回初めて聞く思いで聞け!

強烈に厳しさのある言葉です。青山先生が若い時に教えられら言葉です。

青山先生は、特に解説されませんでしたが

 まっさらな気持ちで、自己のもつ既成概念も捨て・・・

という意味合いを感じました。しかし、凡夫のわが身、その境地にはほど遠く、自己の価値観で聞くことになってしまう。せめその境地に近づきたいものです。

「聞く思い」ということをよく考えると、「未だその境地には到らないが」の意味を含んでいます。

 「毀誉褒貶」その意味は、「ほめることと、けなすこと」です、そんな気持ちで聞き批評する。そんな聞き方をするのが常です。

 そんな時に「しなやかに」を思う。

 「柔らかなさま」とは「柔軟なさま」

 「しなやかに歌って」が「しなやかに聞いて」に聞こえる。

そのようなことを考えているとあるブログに「禅的柔軟」という言葉に出会う。

 道元さんが書かれた『寶慶記(ほうぎょうき)』に書かれている「柔軟心」からです。

 『寶慶記』の解説書として私は西嶋和夫老師の『寶慶記講話上・中・下』(金沢文庫)を使用していますので次の言葉を引用したいと思います。


36和尚或示曰・・・・

 和尚示すには、仏仏祖祖の身心脱落を弁肯するは、乃ち柔軟心なり。這箇を喚んで仏祖の心印と作すなり。

<解説部引用>
 「心ノ柔軟ニナル」ということが仏道修行の目的だと、こういうことになりますと、普通、仏道というものを誤解しておる場合には、意外な印象を受けるわけであります。仏道というのはばかに堅っ苦しいもので、普通の人がとてもやれないような難しいことをやって、特別の境地に到達するんだ、というふうな考え方をしておる人々にとっては、仏道 修行の目的が心を柔らかにすることだというのがなかなか納得いかないという面があるわけであります。

 ただ、道元禅師が中国からお帰りになったときにも、「中国から何をおみやげにお持ち帰りになりましたか」というふうに人から聞かれた際に、「柔軟心」といわれた。柔らかな気持ち、弾力的な気持ちを持って自分は日本に帰ってきたと。

だから、仏道修行のねらいというものは、心を柔らかにするということにあるわけであります。
 ここでも、「世世ニ諸ノ功徳ヲ修シテ、心ノ柔軟ナルヲ得レバ也」、釈専がなぜ人間の住んでおる婆婆世界に生きて仏道修行をされたかというならば、仏道修行の目的が心を柔らかにすることにあったからであると、こういうふうに天童如浄禅師が教えられた。

 「道元拝シテ白サク、作麼生カ是レ心ノ柔軟ナルヲ得ン」、そこで道元禅師が礼拝をしてから申し上げていうには、「作麼生カ是レ心ノ柔軟ナルヲ得ン」、いったいどのようにしたら心の柔らかさというものが得られるでありましょうかと、こういう質問をした。

 そうすると、「和尚示スラク」、天童如浄禅師が教えていわれるには、「仏仏祖祖ノ身心脱落ヲ弁肯スル、乃チ柔軟心也」、「仏仏祖祖」というのは、釈尊以来、代々の祖師方、仏道修行をして真実を得られた方々、祖師と呼ばれる方々という意味でありまして、それらの方々が目標とされた「身心脱落」を、どういうものかということを実際にわきまえること、これがすなわち柔軟心であると、こういうふうにいわれたわけであります。
 
 この「身心脱落」という言葉の意味でありますが、天竜如浄禅師はこの『寶慶記』の中でも、「参禅は身心脱落だ」と、こういうふうにいわれておるわけであります。坐禅をしておることが、体の束縛、心の束縛から脱け出した状態だ、だから坐禅をすることによって、体の束縛から離れ、心の束縛から離れた状態でジーッと坐っておることがすなわち柔軟心だと、こういうふうに天童如浄禅師がいわれておるわけであります。

 「身心脱落ヲ弁肯スル」というのは何を意味するかというならば、坐禅をするということを意味しておるわけであります。柔軟心とは何かという質問に対して、坐禅をしておる状態が柔軟心を得た状態だと、こういうふうにいわれたわけであります。

<以上同書下p22~23>

この言葉は。「36和尚或示曰・・・・」で始まる文章の最後の言葉です。

 坐禅をしない人は、その柔軟心が持てないのか。とも読み取れるのですが、そもそもこの「36和尚或示曰・・・」は、「羅漢支仏之坐禅」について書かれたものです。

 仏道の修業の方法には、「声聞乗」という修業の仕方があって、お釈迦様の説法を聞くことで、理論を通じて、言葉を通じて仏道を仏道を勉強していく仕方を「声聞乗」なのだそうです。その「声聞乗」の最終段階が、「羅漢」とか「阿羅漢」と呼ばれる境地で、「支仏」というのは「辟支仏」という言葉があって、普通「縁覚乗」というのだそうです。

 この「辟支仏」「縁覚乗」ということは、仏道修行に関連して、環境の良し悪しを非常に重要視して、山里深くに分け入って、ひとのほとんどいないような自然の環境の中で仏道修行することが最も優れたやり方であるというふうな考え方の修行法を縁覚乗の仏道というのだそうです。

 「大悲を聞く耳も持っていない」者、専門家でもない素人が道元さんや西嶋老師のことば等を勝手に使用しと批判されそうですが、あくまでも自己の思考の世界の遍歴ブログです。

 私は日常的に自分や他人の「慈悲心」を聞く(見るも含める)機会が、他の方よりも多いかと思います。そんな縁から自ずから考えさせられることが多々あるわけで、その遍歴を書いています。

 横道にそれてしまいましたが、「羅漢ト支仏ノ坐禅ハ」何かがお釈迦様と異なる、それは何かということがこの「36和尚或示曰・・・」の言わんとしていることで、「柔軟心」もそこにあります。

 お釈迦様の坐禅は、自分自身が悟って苦しみから苦しみから逃れるということが目的ではなかった。では、何を目的にされたかというと、一切衆生を救うために坐禅をされた。

「一切衆生を救うため」とは「大悲」であり「大悲ヲ聞ク」そのことについて書かれています。

「羅漢ト支仏ノ坐禅ハ」何かがお釈迦様と「異なる」「欠けている」ものは「大悲ヲ聞ク」ということなのだそうです。

 素人の私自身が、今聞こえるのは私自身の理解です。

 夜が明けてくると、外では鳥の鳴き声がします。窓から外を見ると夜明けの光の中で風に小枝が揺れています。

 しなやかな鳥の歌声であり、しなやかな小枝の揺れでもあります。古語の「しなゆ」げんだいごの「しなやか」、水分がなくなるとその柔軟性が失われます。

 瓢(ヒサゴ)の水は天からそそがれます。昨日は晴れたり時には強い雨が降り、また全国的に風も強かったようです。

 度を超す「しなやかさ」も、硬さ以上に問題があります。

 ここまできてようやく沢木興道先生の

 大事なことは耳鳴りがするほど聞け!
 
 しかも、毎回初めて聞く思いで聞け!

の「聞け」、青山先生の「出会いは宝」が「聞こえる」ように思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なを「聞く」ということについて、なぜブログ

きく文化(3)・法華経・耳根最も利なり[2010年10月23日]

を書くになった意味が自分自身で解りました。

 また私が学んでいるブログに、

 いわゆる仏々祖々の身心脱落とは、柔軟心なのである。柔軟だから、壁に当たったときにはそれをなんとかやり過ごそうとする。或いは、そもそも壁に当たらない。そういう生き方を目指すべきなのである。苦悩への対処の「選択肢」の数を増やす、それが「身心脱落」である。そして、柔軟心を得るには、それこそ「堅固な修行」を必要とする。しかも、時間もかかる。もし、今満ち足りていて、そしてこの記事をご覧になったという人、遅くないから明日から、いや、今日から仏教を学んでみて欲しい。

と書かれていた意味もよく解りました。

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たった一度のいまの命をどう生きるか。

2011年04月28日 | 仏教

 曹洞宗大教師の青山俊董先生の「出会いは人生の宝」と題した講演会を受講した話を以前書きました。

 私の母校ではないのですが、青山先生が4月16日(土)に塩尻志学館高校創立100年記念の講演をされるという話を聞き久しく伺っていないこともあり、お会いしたくなり聴講に出かけました。

 78歳におなりになるということですが、その話方の力強さには年齢を感じさせないものがありました。

 講演会の中でも語られておられましたが、沢木興道先生の「大事な話は耳鳴りがするほど熱心に聞け。聞くときには初めて聞く気持ちで聞け!」という教えを実践しているものにとっては、話された内容についてはこれまで語られていることと重複されるとのことでしたが、新たな感銘を受けることができました。

 1時間30分にも及ぶ話を要約して紹介をするような力量はありませんので、私が時々ブログに描く「アンテナを立てる」「出会いの教え」について講演の冒頭部分を録音から起こしましたので紹介したいと思います。

【青山俊董】
 お互い様の人生を振り返ってみた時に、この方に出会えたから、この教えに出会えたから、今の私がある。と遙かに振り返る。

 そこに多くの人や教えがある・・・・。と、浮かんでくる方も多いかと思います。

 私も多くの人に導かれて今日の私があると思っています。正に「出会いは人生の宝」と申せましょう。

 しかし出会いが成立するためには、アンテナが立っていなければ出会いは成立いたしません。

 私の名古屋の尼僧の修行道場でのことですけれども、そこで去年の四月に、近くの会社の新入社員研修というのがありまして、エリートらしき青年20人が一日研修にやってまいりました。

 午前午後二度のお話と二度の坐禅とお食事を、作法に従って召し上がってもらうという一日の研修でございました。

 仏法の話というものは、特別なものではありません。

 たった一度のいまの命をどう生きるか。

と、それを本気に問うものです。専門の仏教のことば一つも使わなくともお話はできる。

 初めての青年たちに私なりに分かりやすいお話を、二度したつもりでございます。一日の研修を終えて、夕方茶話会に感想を述べてくれました。

 20人の内の19人までが足が痛かったのほかは、何んにも聞こえていなかった。

 まあ感心するほどまでに聞こえていない。

 その様子を見ていた、尼僧と雲水たちが「みんな幸せすぎてアンテナが立っていないんですねー」と言った言葉が心に残っています。

 19人のうちの一人だけが、重病を患ったという青年が、その病気の苦しみと重ねて「今日のお話は、心にしみました。」と言ってくれまして、少し救われた思いと同時に一つの学びがございました。

 苦しみ、悲しみ、心に叶わぬことがアンテナとなる。

 そしてお話に、人に出会えるんだ。

 そういうことに気づかされました。

 日蓮上人が「病によって道心は起り候」とおっしゃっている。

 「病によって道心は起り候」

 求める心は、 アンテナは、

 苦しみ、悲しみ、病気なのどによってアンテナが立つんだぞ。

と。

 それによって人に、教に出会えるんだよ。

ということですね。

 そのことで思い出すことがございます。あちこちでお話し申し上げているので何度でもお聞き及びの方もあろうかと思いますけれども、私が生涯慕っておりました沢木興道という禅僧がおります。この方がこうおっしゃた。

 大事なことは耳鳴りがするほど聞け!

と。

 くり返しくり返しくり返し耳鳴りがするほど聞け。一遍聞いたらいいということではない。

 大事なことは耳鳴りがするほど聞け!

 しかも、毎回初めて聞く思いで聞け!

これは難しいことですね。一生懸命聞いても私どものきき方というものは、大方ぬけてしまいます。大方滅んでしまいます。

 帰って来て今日のお話は、「はっ、いいお話でした。」その辺まではいいのですが、その次はもう出ませんね。

 その程度の聞き方しかできなくとも、二度目に聞くと「あっ、前も聞いた」という思いが出ると、新鮮度がなくなってしまう、という聞き方しか私どもはできません。

 大事なことは耳鳴りがするほど聞け!

 しかも、毎回初めて聞く思いで聞け!

という沢木興道の言葉を思い出します。

<以上>

 残り1時間以上もある話の冒頭がここから始まるのです。何度となく聞いた話もあるのですが、改めてまた先生の口から聞くと涙が出んばかりのありがたさを感じました。

 さて今朝は、この冒頭の中にあった沢木興道先生の「毎回初めて聞く思いで聞け!」という言葉に焦点をおいて自分なりに思うことを書きたいと思います。

 教えをいただくときの聞き方、「何んにも聞こえていなかった。」ということのないように、さらに得た気持ちの再構築なり、再編成、再編集ともいえる作業についてです。

 安心と信頼というブログ記事をアップしましたがその中で、自分の印象を考え直し、次の考えを持つ。

 打ち消しという否定から、更なる肯定の作業に入る。

旨の話をしました。自分思っている知識なり体験は、自分のみが持っているもの、同じ場においての体験であろうとすべてが、自分の持ち得ているものにより構築されているものだと思います。

 人間とは明滅的に、刹那の存在だと教えられ、いつも変わることができるのだよ、と教えられてきました。

 細胞が毎日生まれ変わっている事実は、私自身が毎日変化し続けているということでもあります。

 毎日打ち続けている心臓は、60サイクル、50サイクルで明滅し点灯している白熱電球と同じです。「0(ゼロ)」を通過し「プラス・マイナス」の世界を行き来しています。

 宮沢賢治の白熱電灯の明滅もそのようなところにあると聞いたことがあります。

 「ゼロ」とは、死に相当する。そんな気持ちを持てば、その命の脈打ちが見えるというものです。

 死からの生まれ変わりの連続それが人間。

 だから人には生まれ変わりのチャンスがある。

 こういう話を大昔に聞き、新たにこのことを思い出しました。

 同一の存在でありながら、矛盾する私。絶対矛盾的自己同一という西田幾多郎先生の言葉を私はそのように解釈しています。

 「毎回初めて聞く思いで聞け!」

という言葉の中には「ゼロ」になれという意味合いもあり、「是」と「非・否」も含まれてといった意味もあると考えています。

「何んにも聞こえていなかった。」

という青山先生の言葉。これがとても深くのしかかります。

 青山先生の講演会内容は、何回も聞き直し時々アップしたいと思います。

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NHK教育「こころの時代」”ブッダの最期のことば ”始まる・田上太秀

2011年04月17日 | 仏教

 NHK教育が日曜日の早朝5時から放送している「こころの時代~宗教・人生~」、今日(2011.4.17)から駒澤大学名誉教授の田上太秀(たがみ・たいしゅう)先生による「ブッダの最期のことば」(12回)が始まりました。

 先生は平成12年(2000)にNHKラジオ第二放送で、この時は「ブッダ・最後のことば-涅槃経を語る-」(12回)を講義されています。11年前はさほど仏教に興味を持っていませんでしたので、今ほどまじめに取り組んでいませんでした。


(平成12年(2000)NHKラジオテキスト)

 平成9年(1998)には今回と同じ「こころの時代」で「仏典のことば」(12回)の講義をされています。

 この番組については、以前にも紹介しましたが速記をされている方のサイト「こころの時代へようこそ」があります。

 ビデオが手元にない人にとっては宝のようなサイトです。

 涅槃経には、古い涅槃経と新しい涅槃経があります。古い涅槃経はインドの古代語パーリ語で「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」と呼ばれるそうです。

 田上先生は、大乗の涅槃経も対比しながら、一般人にも分かりやすく解説されていました。

 

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私を苦しめるものは

2011年03月21日 | 仏教

 TBSの日曜の朝に放送される番組に「サンデーモーニング」という番組がある。司会者は関口宏という、俳優業から司会者に転じた人物がその番組の司会を行っている。
 
 東北関東大震災後2週間ほど続いた各局の被災状況の終日放送も、今は震災前の番組内容に変わりつつある。

 昨日のサンデーモーニングを観た感想なのだが、一つとても気になる司会者の姿勢があった。原子力発電所に関する専門家への質問の仕方である。

 われわれが一番心配になるのは、最悪の状態とはどのような状態になるのですか?

 われわれが気になるのは、最悪の状態になるとどうなってしまうんですか?

という、関口氏の専門家への質問の仕方である。
 私自身も気になるので、当然他の人もそうなのかも知れません。ですから関口氏は「われわれが一番気になること・・・・」という視聴者を代弁しての質問と自負してのことだと思う。

 マスコミとはそういうもので、視聴者の求める視線で報道することにその使命を感じているのかもしれない。

 誤りであるとか、という問題ではなく、問題とされる事柄に対して問、当然答えは出される。問はこの場合「不安」に対するものである。

 出された答えに対しての視聴者の思い、思いとは従って、不安に対する解消を目的としており、少しでもその解消に向かう答えを聞きたいのが本音ではないだろうか。

 ここで司会者として、あえて「われわれ・・・」「みなさんが・・・」を使わずに、

 チェルノブイリ原発事故のような事故がありましたが、この場合の最悪の状態とはどのような状況でしょうか?

 福島第一原発での最悪の事態とはどのようなものでしょうか?

と質問したらどうだろうか。

 チェルノブイリのような核爆発自己ではなく水素爆発、直接の核爆発にはほとんどなる可能性はない。

 これ以上の放射線が出ないように、冷やし続けることが一番で、安定するまで2・3年はかかるかも知れません。

 植物についた放射能は、洗えば取れる程度のものです。

 専門家の先生は、インパクトの強い「われわれの疑念」の問いに答えていました。「最悪事態」の質問にこらえていました。

 それに対して、関口氏は

 自衛隊や消防庁がやっている放水を、2年もやり続けるのですか?

この問いを疑問に思わない人もいると思いますが、わたしが勝手に思うことですが、非常に愚かしく思ってしまいました。

 本当に関口氏が、脳裏に2年間も冷やし続ける自衛隊や消防庁の隊員を想像しているとするならば、私のある場と非常に異なる場にある人にある人の質問としか思えません。

 このような冷却方法で確実に冷却することができたとして・・・・・。

こういう想定が脳裏に浮かんで来ないのか、疑問に思ってしまう。政治や芸能・スポーツに対する報道ではない。

 「あなたの疑問に答えましょう」「あなたの疑問は最悪という不安なのです」

 「そうなんです。私の不安は、最悪の状態なのです」

まるで催眠実のような世界である。

 「あなたの腕は段々と重くなる」を「私たちの腕は段々と重くなる」

 視聴者は関口氏の最悪の事態を共有しなければならないように、思ってしまう。

 関口氏の言動には、怖さがあると私は勝手に思う。

 人びとが望むことは救いである。

ここで月読寺の住職小池龍之介氏の『超訳 ブッダの言葉』(ディスカバリー)から次の言葉を紹介したい。

<引用>

君を苦しめるものは

 君を苦しめる感情すなわち、かなわぬものを求める欲望と、いつまでも反復する怒りは、他人がつくったものではなく、君自身の心身から生まれる。

 好き嫌いというわがまま恐怖によってビクッとすることも、気味の心身によってつくられる。

 たくさんのよけいな考えごとも妄想も、君自身から生まれ、君の心をつかまえていじめる。

 そう、まるで少年たちが、イタズラにカラスをつかまえ投げすてて、いじめるのにも似ている。
〔経集271〕

<以上>

 題は「君を苦しめるもの」という二人称の語りになっている。小池住職は若者に語りかける形式というよりも、お釈迦様の語りである。

訳するということは非常に難しいと思います。もしもこの言葉が一人称で語られているならば、どうでしょう。

 題名は「私を苦しめるものは」となります。

 善悪の問題ではありません。一人称、二人称を気にしないでモノ言う指導者や語り手が多い。安心を与える語り方、というものがきっとあると思います。

 現代人はどうも自分お置き場所がなかなかつかみづらいのか、浮いた状態で、常に流されやすいのではないか。

 簡単に瞑想と言うが、瞑想する主体は自分自身であり、自己あるのみであると思う。

 あなたはこうなるのではなく、わたしはこうなるのである。

導きとはそういうもののような気がします。この話は善し悪しの批判先がある話ではありません。単なる私の思いです。

「自己あるのみであると思う。」とかくと「そうではあるまい」と思う人がいるに違いないのですが、「あるということはないということの裏返し、現象は常に重なっているのです」という話を聴いたことがありますが、そういう意味の「ある」です。

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