思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「しなゆ」という「やまと言葉」(2)補正

2011年04月29日 | ことば

 写真は、有明山のすそ野に広がる田園風景です。これから田植えが始まります。

 最近は連続テレビ小説”おひさま ”に魅せられ、また好きなニーチェの番組があるなどしてその関連記事が多くなっていました。

 そんな折に3年ほど前に描いた、

「しなゆ」という「やまと言葉」[2008年09月20日]

という記事にコメントがありました。

<コメント>
 シナユは 《生気を失ってうちしおれる》(大野晋)だそうですから 持って来いだと思います。ただしその半面で考慮すべきことがあるように考えます。
 
 それは シヌ(死ぬ)が ナ行の変格活用であることです。
 イヌ(往ぬ)がナ行変格活用ですから 漢語のシ(死)にこのイヌを添えて そこから シ+イヌ⇒シヌと成ったという見方も考えられるかと思うのです。さて どうお考えになりますか?
<以上>

ほとんど記憶からとうざ買っていたことを蘇らせていただき、この偶然性には意味があるのではないのか、と深く考えさせられます。

 現代中国語でも「死」は「si」と四声音でiに「∨」が付く発音で「し」と発音し、日本語の「死」と全く同じです。

 「イヌ」は、古語で、

い・ぬ【往ぬ・去ぬ】〔自ナ変〕
1 行ってしまう。さる。また、もとの所へ帰る。
2 時が過ぎさる。経過する。
3 死ぬ。

という意味があります(ベネッセ古語辞典使用)。

 「シヌ」は、古語で、

し・ぬ【死ぬ】〔自ナ変〕
 生命を失う。息が絶える。

となっています(同様にベネッセ古語辞典)。

 今回は、ベネッセ古語辞典を使用しました。今回は理由があって、この「死」ということについてとても参考になる解説がついていたからです。


 
 相関図38 「死」の婉曲(えんきょく)表現語群
 上代から現代に致るまで「死ぬ」という動詞は存在していたが、直接この語に遭遇することはあまりない。つまり、だれもができれば避けたいと思っているのがこの「死」である。
 つまり、だれもができれば避けたいと思っているのがこの「死」である。とくに女流の文学作品革じとくに女流の文学作品においては、間接的な表現が好まれる傾向にあり、そこから「死ぬ」意の別表現も、きわめて多様に発達した。

 『源氏物語』には、主人公源氏が亡くなったとされる「雪隠(くもがくれ)」の巻があったといわれる。が、ストーリーのうえからは、ここで源氏は亡くなったものと読みとれる。

 「みまかる」は、この世から退出するという「身・罷る」である。その他、目の前から消え去ることを表す動詞は、「死」の言い替え語として頻繁に用いられた。

と書かれ、次の表が書かれていました(上写真拡大)。


 実に興味深い相関図で、大変勉強になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そもそも”「しなゆ」という「やまと言葉」”というブログの記事は、万葉学者の中西進先生のラジオ講義から得た知識です。

 中西先生の著書『古代日本人の心の宇宙』(NHKライブラリー)の補章一「水と言葉の宇宙」にも解説されていますが、



今朝は、1994年1月~3月にNHK放送大学で中西先生が講義された「古代日本人の宇宙観」で使用したテキストから、参考になると思いますので長文引用します。

 話は古事記の話から入ります。
 
<引用>
・・・・・日本の神話におもしろい話があります。『古事記』の中にクヒザモチの神という神さまが出てきますが、これを江戸時代の国学者本居宣長は「クミヒサゴモチの神」つまり水を汲むヒサゴ(瓢箪・ひょうたん)をもった神だと理解しました。
      
 この神さまは分水嶺(ぶんすいれい)にいます。分水嶺にいて水を汲むヒサゴをもつというのですから、どこからか水を汲んでは川に流す神さまにほかなりません。

どこからか、遠い彼方の水域からでしょう。そのために川は水が流れ、海は漫々たる水をたたえることになります。クヒザモチの神は超越的な巨人ですね。

 この速い彼方の水こそ、今まで述べてきたアメ・アマとよばれる水でしょう。これを宇宙水とよぶなら、古代人は世界のめぐりに宇宙水を考えていたのでした。あるいは、宇宙水がクヒザモチの神によってもたらされるからこそ、海はアメ・アマになったといってもよいでしょうか。
 
生命の分与(小題)

 そこで、宇宙水は川にだけ流されるものではありませんでした。洪水を起こすばかりでもありません。もっと大事なことに、どうやら宇宙水の分与をうけるのは、万物の生命だったようです。その多いか少ないかによって、生命はみずみずしくもなり、枯れはててもしまいます。

 古代日本人の最高のほめことばは「みず」(みづ)でした。この国土は豊葦原の千五百秋の瑞穂の国と賛美されました。ホとは秀でたものをいいます。何でもみずみずしく、秀でていれば最高の状態です。稲穂がみずみずしく実っても、その一つです。
 
         
 神域を囲むものは瑞垣(みずがき)です。

 末通女等(おとめら)が袖布留(そでふる)山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは(巻四)

 というのは『万葉集』の柿本人麻呂の名歌ですが、少女たちが袖をふるというのは魂を招く美しくも厳かな神事で、その華やかで若々しい仕草と対応するのが神域のみずみずしい、生命にあふれた垣根でした。
 
 瑞枝(みずえ)ということばもあります。これも神域の長寿の木が生命力の象徴のみずえようにさし伸べている枝です。
 
 そこで当然、人間についても同じように考えることになります。みずみずしい姿こそが最高の理想像で、これを「しなう」(しなふ)といいました。弾力がある姿です。弾力はみずみずしくなければ出てきません。

反対にみずみずしくなくなると、しないません。『万葉集』では「しなふ」姿が男女ともに賛美されました。しなやかな姿ですね。

 じっは「たわや女」ということばも、たわむようにしなやかな女性をいったことばでした。それがいつからか「手弱女(たおやめ)」といって手の力の弱い女性を意味するようになり、平安時代になると、いかにもなよなよと弱い女性をいう、むしろ悪いことばになりました。

 「なよ竹」ということばも、しなやかな美しい竹のことで、これも「なよ竹の とをよる子ら」(『万葉集』巻二、柿本人麻呂)と、しなやかな竹のように「とをよる子ら」つまり弾力のある、みずみずしい女性をほめることばとして用いられています。
 
 これほどに、みずみずしいことが生命力に溢れでいるというのは、宇宙水によって人間が生かされているという考えにもとづくものでした。
 
 そこで宇宙水が枯渇すると生命力もしなえることになります。ちょうど植物が、水分を切らしてしなえる、古いことばでは「しなゆ」というように、人間の生命もしなえて、やがて「しぬ」ことになります。
 
ですから「しなふ」というのはいい意味なのですが、「しなゆ」というのは悪いのですね。「しなゆ」は自然に「しぬ」状態になっていって、やがて「しぬ」のです。反対に「しなふ」とは継続的に「しぬ」ことです。死につづけるというと誤解をうけるかもしれませんが、くり返し死ぬということは、つまりいつまでも生きつづけることにほかなりません。

 ついでに植物はついには枯れます。古語で「かる」とは離れることで、何が離れるのかというと魂が肉体から遊離するのです。そこではじめて肉体の終わりがきます。古代人にとって「しぬ」ことは、死の一歩手前で、死を意味しませんでした。

<以上>

お蔭さまでコメントにより改めて勉強することができました。

 古代日本列島になる前、また列島形成後にいろいろなところから人々がこの日本に渡来してきました。互いのコミュニケーションの為に言葉はいろいろと変化していきます。

 不思議に中国語でも「死」は「シ」です。「shi」の発音とは異なり日本語と全く同じ発声の仕方をします。四声があるので若干異なりますが、発声の仕方は同じです。

<イヌ(往ぬ)がナ行変格活用ですから 漢語のシ(死)にこのイヌを添えて そこから シ+イヌ⇒シヌと成ったという見方も考えられるかと思うのです>

というコメントに対しての答えとなるかわかりませんが、「シ(死)」と「イヌ(往ぬ・去ぬ)」との合成語、「死」と「死」の強調なるように思います。

 よく「そんなことを言うと、死ぬ~」とドラマで叫ぶシーンがありそうです。「別れるなっていうと死んでしまう」という意味ですが、「死ぬ」を強調しています。予告であって完了ではない。

 古語辞典には、

ぬ〔助動詞ナ変形型〕「往(い)ぬ」の「い」が脱落か。
1 完了した動作・作用を確認する意を表す。・・・た。・・・てしまう・・・。・・・しまった。
2 並列の意味を表す。・・・たり・・・たり「例:泣くぬ笑いぬ」。

と書かれたいます(同上辞典)。

「死んでしまう」で「死」と「往(い)ぬ」から成った言葉ということもできるわけです。

ここで問題なのは、

辞書の<「往(い)ぬ」の「い」が脱落か。>

はっきりした定説がないことです。したがって誤りではないと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やまと言葉は大変、現象学的な志向性で考えると大変難しいところがありまた興味深いところがあります。

 冬ごもり 春さり来れば・・・・冬から春になることです。

「春さり来れば」は「春になると」という意味なのです。

 現時点から去ることではありません。

い・ぬ【往ぬ・去ぬ】〔自ナ変〕は、上記のように「行ってしまう。さる。また、もとの所へ帰る。」という意味もあります。

 固定された視点の向きで理解すると理解不能なところがあります。感覚的に動的にとらえる言葉、やまと言葉はそんなところがあると思っています。

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4 コメント

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ありがとうございました。 (bragelone)
2011-04-29 14:33:46
 中西進でしたか。
 じつはその講座をわたくしも見ていました。テクストもあると思います。

 たいへんありがとうございます。

 死+往ヌ についてもう少し よいかだめかおそわりたい気持ちがあるのと そして ナ行変格活用のことについても知りたいとは思いました。

 でも シナフが 死ぬの繰り返し(つまり フ=経でしょう)で シナユが そのとき一回きりの死ぬ(の前段階)という区分けも納得が行きます。
 後者は 自然生成の相を表わすル・ラルと同じ意のユ・ラユがついた シナル∽シナユではないかと思われます。

 ありがとうございました。
 いままだここまでの感想です。もし何かありましたら ふたびおおしえを乞うかとも思います。その節はよろしくお願い致したいと思います。それでは。
返信する
あくまでも素人です。 (管理人)
2011-04-30 09:33:59
>bragelone様
 これも何かの縁です。かつては日本の古代精神史を探究しておりました。

 日本の上世は清浄と穢悪(あいあく)の視点でとらえると清浄であることよりも藍悪(汚れ・汚悪・汚らわしいこと・汚辱)が大きな問題ととらえていたようです。

 だから上世日本人は清浄と穢悪との対立に神経質的までの関心を有する中で浄穢という点を重視したようです。

 その汚れとは何か、人の死であり、五畜の死であり、月経であり、人間を含めた各種障害等であるようです。最も問題になるのは「死」ですが、言霊ですから発声それ自体をも忌み嫌い、その言葉を使わない、したがって、

 「死ヌ」の「死」という概念は漢語「死」の移入によって起ったものであり、大和コトバにはそれまで、生死の死という確かな概念はなかったようである。

と書かれている方もいます(『あいうえおの考古学-邪馬台国身体論』(富永武盛著 新人物往来社)。

 浄穢というものは、差別という問題もはらんできます。こういう点に視点を置くと、西洋の祭式からとても深い問題が見えてきます。

 旧約に見られる神への生贄(供え物)として我が子をも手にかける。なぜか日本は埴輪になり、卑弥呼遺跡と推定される纏向からは道教の影響でモモの種がが大量に出土するのとは大きな違いが出てきます。

 日本に生贄がなかったかというと古事記にもあるとおり自らの身投げがあり、それは後の世にも続いています。

 これらは西洋における奴隷制と差別、日本における差別意識その根底にあるものこれも深い探求になりそうです。上記富永氏は

 「去ヌ」の語尾である原始動詞「ヌ」は「なくなる」という意でアッタカラ、「イ」が「なくなる」のが「去(イ)ヌ」の意ということになる。

と語っています。これからは私見ですが、

 忌み嫌う、「忌(イ)」=死

ですから、忌が去るで、その時点で死者からの「忌み」が他者に憑(よる:つく意)ことを言うのではないかと思います。

 シャーマンの憑依も「多大なるもの」が、「恐れ多いもの」が、その本体から去り憑る。

 そういう意味で「よる」を考えると、「さる」、行為としての「はらう」があり、「しお(塩)」の「お」は、古語では「を」で「汚・悪」につながり、「死」を「汚・悪」で「はらう」とも拡張解釈してしまいそうです。

 「清」を「清」で征し、「悪」を「悪」で征する。「清」は「悪」と背理の関係にある。

 蛇(じゃ)の道は蛇(へび)。

書いているうちに話が飛躍してしましました。

 素人なので難しい問題は解りませんのでよろしく願いします。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-04-30 16:09:05
 管理人さま

 たいへんお手数をおかけしたりしました。あらためてありがとうございます。

 次のように《死ぬ》の語源を問う質疑応答があったのでした。わたくしは 投稿をする前に考えていたらここのホームページに出会いました。

 【Q:死?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6693579.html

 質問はすでに閉められています。

 なおわたくしも 死のけがれの問題から被差別民の問題へとつづく主題について知ろうとしています。
 お口汚しになるかと思いますが その事情をお伝えする程度に次をご紹介しておきたいと思います。

 【Q::《およその身分は平民の七分の一に相当》】: http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6070243.html

 ブログのお写真もきれいですね。それでは。
返信する
感謝します (管理人)
2011-05-01 07:34:14
逆に感謝しています。
すごいサイトを教えていただきました。
私は九鬼周造の偶然性が好きで、また仏教の縁起論、ユングの共時性という概念が好きで、自分に起こる現象に真剣に取り組み姿勢があります。今回は本当に、何かを得たように感じています。
ありがとうございましたと同時に、今後もよろしく願います。
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