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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

夢の如し・冬はもういらない

2011年03月16日 | 仏教


(冬はもういらない)

夢の如し

人のいのちはまことに短い.
首歳に及ぶものは少なく、
首歳をすぎて生くる者もまた、
やがて老いのために死ぬ。

人はおのれの執(しゅう)する物のために愁(うれ)える。
けだし、所有に常なきがゆえに。
そは存し、変じ、また滅する。
かく知りて人は執着を去らねばならぬ。

「これは私のもの」と思える物も、
そは死のために失われる。      
賢き者はその理(ことわり)を知りつくして、
おのれの執着を去るのである。

たとえば、夢にて会いしものを、
人は、覚めてまた見ることはできぬ。
かくのごとく、愛する人々をも、
命終してのちは見ることができぬ。

この世にありし頃は、某々(それがし)とて、
その名も聞き、その顔も見たるに、
亡(な)き後は、ただその名のみが、
彼を語るよすがとして残る。
       
執着するものを貪(むさぼ)り求むる者は、
悲愁(ひしゅう)、邪慳(じゃけん)の心を捨てることはできぬ。
されば、安穏の境地を知る聖者は、
すべて所有を捨てて行ずる。

聖者は一切処に依ることなく著することなく
愛する者もなく、憎む者もなく、
たとえば、はすの葉に水のしずくの著(つ)かざるがごとく、
悲泣することもなく、邪慳の心をいだくこともない。

[南伝 小部経典 経集 四、六 老経]
(増谷文雄著 仏教の根本聖典 大蔵出版)

私はこのように読む。私はこのように聞いた。

このように仏は語る。教えを自分のものにするには、語り得る自分にならなければどうしようもないこと。

 根本仏教典をどのように訳そうとも、それは他人(ひとの)語り。正確さの訳に正しさを求める。その正しさは、いったい何がそうさせるのか。

 他人の正しさを証明しようとしても所詮夢が如しではなかろうか。対峙するのは己である。

 願わくば、万人の幸せを。

ここに私はない。この言葉に主体なる一人称なる「私は」現れない。「私はこう願う」とも言わない。

 私ということで「私」を離れるからである。日本語の一人称にはそんな歴史がある。

<亡き後は、ただその名のみが、彼を語るよすがとして残る。>

これを感得するとき、私はどう語り得るのか、他人に語り得ることができるのか。

見えないけれど見えるんだよ。合掌のむこうに御仏の姿が見える方が、言葉の真実よりも尊い。

 自燈明の、寄る辺は中洲である、と知ったところで、心に教えは染み込まない。小さなほのかな、今にも消えそうなともしびが見えてきたときに初めて、この世に仏を見るのだと思う。

 仏の教えを大上段に構えて、己の仏にできないものは、私(我)を語っていることを悟るべきだと思う。その私はとてもよい人なのだが、私を遠く離れている。

持ち物に執着しない
 君よ、私は持ち物に執着しない。
 ゆえに、もしブランド品の服をなくしたとしても、「何日も探し回っているのに見つからない。困った困った」とイライラすることは決してない。
 ゆえに、私はしあわせ。
    (相応部経典)

<引用『ブッダの言葉 』小池龍之介著 ディスカバリー>

 この訳に何を見ようとするのか?

 我が子はブランド品である。私は何日も探し回る。涙は枯れ、身も心も身体も全て朽ちる程に。夢であってほしいと思う。

<亡き後は、ただその名のみが、彼を語るよすがとして残る。>

私の名も、子の名も、私たちを語るよすがとして残る。

私の実の父も母も今は戒名になっている。合掌すれば仏もこちらを見てくれている。

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自分の心の主人たれ・普遍的真理

2011年03月09日 | 仏教

 <昨日の昼間、松本市街地から扉温泉方向を望む>

 昨日に続き、東京都世田谷区にある月読寺の小池龍之介住職が書かれた、『超訳ブッダの言葉』(ディスカヴァー)を紹介しながら話をしたいと思います。

 法句経は、ダンマパダとも呼ばれ南方上座部仏教いわゆる今では言われなくなった小乗仏教の国で親しまれている原始仏典で、日本では友松圓諦氏により戦前から親しまれていたものです。


<『超訳ブッダの言葉』から>

 自分の心の主人たれ

 君は、気味の心の奴隷であることなく、
 君の心の主人であるように。
 君こそが君の最後のよりどころ。
 自分以外の何にもすがらず、自分の心を調教する。
 まるで自分の仔馬を丁寧に調教するかのように。
 「法句経380」

 多くの人が知っておられる「自燈明」は

 おのれこそ おのれのよるべ
 おのれを措(お)きて だれによるべぞ
 よくととのえし おのれにこそ
 まことえがたき よるべをぞ獲(え)ん

法句経160です。(講談社 真理の詞華集『法句経』友松圓諦著から)

ちなみに友松圓諦先生の法句経380は、

 おのれこそ おのれの救主(あるじ)
 おのれこそ おのれの帰依(よるべ)
 されば まこと 商侶(あきゅうど)の
 良(よ)き馬を ととのうるがごとく
 おのれを制(ととの)えよ

です。
 よるべ=帰依 と友松圓諦先生は訳されています。「帰依」という言葉、自ら思うと小池住職の訳のようにもなります。漢訳原典には使われていませんが、この二語を自らの力で考えてみるのもいい良いかもしれません。

 太平洋戦争終結後、昭和26年のサンフランシスコ講和条約調印の際にセイロン(現スリランカ)政府代表のジャヤワルデネ(後に大統領にもなっています)が、声明を読む際に法句経を引用した有名な話があります。

 この世において、怨(うら)み返すことによって
 怨みが鎮まるなどということは決してない。
 怨みをもたないことによって鎮まるのである。
 これは永遠の真理である。
 「法句経5」

 この話は、NHK出版の『ダンマパダ 心とはどういうものか』(松田愼也著)に書かれています。戦前訳は、

 まこと、怨みごころは
 いかなるすべをもつとも
 怨みを懐(いだ)くその日まで
 ひとの世にはやみがたし
 うらみなさによりてのみ
 うらみはついに消えゆるべし
 こは易(かわ)らざる真理(まこと)なり
      「上記友松圓諦著『法句経』から」

小池龍之介住職は、

 攻撃には「肩すかし」をもって返す 
 他人から攻撃されたとき、気味もまた攻撃をもって返すなら、気味の中の恨みも相手の中の恨みも静まることなく増幅しあい、無限に連鎖してゆくことになる。 攻撃を受けても「まあ、いっか。恨まないよ」という肩透かしをなげかえすなら、互いに恨みは静まりやすまる。 これは、永遠の普遍的真理。
「法句経5・上記小池龍之介著『ブッダの言葉』から」

戦前と戦後というよりも現代訳それぞれにとても心に残る偈です。

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「今、この瞬間」に心を専念させる

2011年03月08日 | 仏教

 都会にも雪

 春去り来れば、各地で梅の開花、桜の開花と、春が来ているには違いはないのですが、重い雪が降りました。

 最後の最後の雪であってほしいと思う今日この頃です。

 若い人に人気がある東京都世田谷区にある寺、「月読寺」の小池龍之介住職(1978生)が『超訳 ブッダの言葉』という原始仏典の中から選んであの『ニーチェの言葉』の出版元ディスカバリーからだされたとのことで、早速購入してみました。

 原始仏典には好きな言葉がいくつかあり、どのように超訳されるのか興味があったからです。

 「今、この瞬間」に心を専念させる

 過去を思い出して悲しむことなく、未来を空想してぼんやりもせず、
ただ、「今、この瞬間」へと心が専念していれば、
 君の顔色は活き活きとして、ぱーっとはれやかになる。

 もしも君が、心をうっかりさせて、
「去年の夏は楽しかったのになあ」とか、
「来週はあの人に会えるかなあ」とか、
 やがて未来という非現実(アンリアル)に心を溺れさせるなら、
 やがて心も身体(からだ)もグッタリしてくる。
 まるで刈り取られたあとにしなび始める草みたいに。
                    相応部経典
<『ブッダの言葉』(ディスカバリー)170から>

中部経典(MN)の一夜賢者の偈・吉祥なる一夜の偈とは異なり、相応部経典(SN)からの言葉です。

 原始仏典には似た言葉が数多くあり、この言葉もその中の一つかと思います。若い人が若い人のためにという感じの超訳です。

 どうも私は、しなび始めた草になりつつあるようですが、気を取り戻して「今、この瞬間」に心を専念させようと思います。

 若い人には本当に期待したいと思います。

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現行・能信・信念・杞人の憂い

2011年03月07日 | 仏教

 外国人からの献金、5万円にも満たない学であったように思いますが、前原誠司外相が辞任しました。政治資金規正法が禁止している外国人から政治献金を受けていた問題の責任を取り、「国政を停滞させるわけにはいかない」と素早い身の処し方でした。

 当初遊戯協会の関係者で、北にもかかわる話かと思っていましたところ、在日韓国人の居酒屋の人のいいオバサンのようでした。国会で決議された法律による規制、政治家が工作による資金援助にもなりかねず、対外国政策に手ぬるさが生じないためのものであり、外相という立場は決定的なもので仕方がありません。

 世の中は非常に速いペースで進んでいるそんな感覚に襲われます。片田舎に住み情報網を断てばそんなこともないのかもしれませんが、そうはいかない現実があります。

 曽我量深は、『法蔵菩薩』という論稿の中で、現実という言葉を成唯識論の現行(げんぎょう)と換えています。

<引用>

 現実と言うより現行と言うほうがほんとうだと私は思います。現実と言うと、実体的になるんですね。だから実体化しないために、「現」の字をつけて現実と言うておるわかだとおもうのであります。だから、そういったまぎらわしい言葉を使うよりも、現行と言うほうがよろしい。

 ・・略・・・・・「現行」とは現在の行である。行というのは、「造作(ぞうさく)の義」と言いますが、造作というのは、造(ゆく)り作(な)す。造作とか進趣とかいうような意味をもっているのである。それですから、私は、今の私どもがこう私たちの世界にある、そういうものをば「現実」などと言わないで、それを「現行」と、こういうように言うのであります。・・・・・略・・

<以上現代日本思想体系7筑摩書房p262>

 清沢満之はその絶筆書『わが信念』の中で「今は、真理の標準や善悪が人智で定まるはずがない、と決着しております。」と述べています。そこには、(※上記現代日本思想体系p128~p131参照)

 如来は私に対する無限の慈悲である。

 如来は私に対する無限の知恵である。

 如来は私に対する無限の能力である。

信念(能信)が完結(所信)していたからこのように言えるのです。

「私の能信は信念でありて、私の所信は如来である」

この清沢の言葉を知ると混沌とした世の中、比類の輩は・・・・。

 世の中、荒れているにしては静かである。この静けさは何か。騒がすだけ騒がすのだが、人心は静かである。まだ笑いは見えるが寂しさが漂う。

 時代には怖さがある。言い知れぬ怖さがある。それを我々は知らない。その不気味さを見る目は失っていないと思うのですが、杞人の憂いはどこにも聞こえない。

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「自然法爾」と「性(さが)」について思うこと・鳩山由紀夫、菅直人両氏の言動

2011年02月16日 | 仏教

鳩山由紀夫前首相が、本心かそれとも得意の口を滑れしたかのか、

 >沖縄のメディアなどに対して、アメリカ軍普天間基地(沖縄・宜野湾市)を県内に移設する理由に海兵隊の抑止力を挙げたことは「方便と言えば方便だった」と答えた。<

とのことで、15日の衆議院予算委員会で、自民党・加藤勝信議員は今の政府の認識も同じかと追及したとのこと。

 米軍の抑止力は当たり前のことで、沖縄に犠牲的な無理をお願いしているものかと思っていたところだけに耳を疑う話です。そうでもないらしい。

 その真偽のほどは、どうも鳩山元総理の一人芝居で、菅直人総理の北方領土問題に対する、責任ある立場のものとは思えない軽率発言と同じようなものかも知れません。

 この人々は一人芝居が得意のでしょう。場を考えず立場を考えず、そんな人々が国のトップに立った、他国から見れば喜劇と悲劇が同居した、哀れな国に見えているのかもしれません。

 知識も教養も持ち合わせたお二人がどうして場に合った発言とし判断するのでしょう。当然の抗議や外交上の問題を惹起することは自明に素人目にも見えることをなしてしまうのか不思議に思います。

 言葉はある種イメージ。体験からそのイメージが作られ発言に駆り出されている。

 他人(ひと)の目とは異なるところはどこから来るのか、そうなるべくしてそうなって行く、そうなったのはそうなる運命にあったのか、人はそうして思い悩む。

 人間の性(さが)を思考する・吉備津の釜

で上田秋成の『雨月物語』から男と女の性(さが)物語に書きました。わけのわからない内容で、意図するところがわからないのが、私の文章の欠点でもあり特徴でもあります。

 この「性」という言葉、

さが【性・相】〔名〕
 1 性質。生まれつきの性格。本性。
 2 運命。生まれつきの運。
 3 ならい。ならわし。

という意味があります(大修館書店・『古語林』)。

改めてこの言葉を調べてみると、性ということばの「成るべくして成る。成るようにして成った」感の強いことばであることがあります。

 「善悪の性」という言葉があるかどうかわかりませんが、こういう言葉を信じたいように上記の二人の人物の言動と行動を見て思います。

 二人の男女間の性も多くの人の知るところですが、今朝はそれとは異なる性です(素は同根かも知れませんが)。

 思うにお二人には善い発言、悪い発言の区別はしっかり解っていると思います。なのになぜ軽率な発言も確信をもってしてしまうのでしょう。気配りの感性が足りないのではないかと思います、思いやりにも重なる問題です。総じて善悪の世界ではない、あるときには悪いこともそうでない場合もあり、善きこともそうでない場合もある。

 そういう世界が見えないように思います。「性(さが)」に翻弄される傾向にあるお二人、はたから見れば異常でも本人たちはその異常さに気がつかない、経験から得られたものは・・・・・継続している異常な発言から学びはないようです。

 思想家吉本隆明氏の著書に『真贋』(講談社)があります。その第一章が「善悪の二元論の限界」について書かれています。

 吉本さんというと毛嫌いする人も多くいます。わたしもその中の一人ですが、だからと言ってその著書を読まない者ではありません。吉本さんの思考の世界は非常に惹きつけられるものがあるからです。

 今朝はこの真贋から「善悪」について書かれた二か所からその文章を紹介したいと思います。

 

ここで言わんとするところは、思考の対象ではなく、思考するというその事実についてです。


<引用1>

 幸福や不幸の体験というものは、ある一方からのみ見ていると見誤ることがよくあります。太宰治は、不幸な体験があったからこそ、感性を磨き、すばらしい作品を残すことができたのです。もし、みんなが両親の愛を一身に受けるような恵まれた明るい家庭で育つとしたら、はたして太宰治のような人間の普遍性を鋭くつくような作家になろうと思う人は出てくるでしょうか。
 
 現在の日本についても、同じように考えることができます。たしかに、いまの日本は割合に明るい。でも、明るいから日本はよくなっていると、単純に結びつけることは危険だと思うのです。明るいからよくて、暗いからだめだという善悪二元論で考えると、物事の本質を見誤る恐れがあります。

 無意識のうちに答えが決まっている価値判断は、無意識のうちに人の心を強制します。明るいからいい、暗いからだめだという単純な価値判断を持っていると、そう思えない自分、そうではない自分を追いつめる結果になってしまうからです。人間は閉じられた環境や空間の中では、教養も知性もある人でさえ、理性的な判断ができにくくなるという特性のようなものがあります。それは僕にもよくわかります。ある局面になるとものすごく愚かなことができるというのが人間なのです。善悪二つのモノサシしか持っていないと、人間は非常に生きづらさを感じるものなのです。

 いまの日本は、明るいけれども、どこか寂しく刹那的な雰囲気が感じられます。そうしたときに社会が悪くなった、よくなったと考えるよりも、ではその原因は何なのかを考えたほうがものの本質にたどりつきやすいような気がします。

 明るいからいいという当たり前の判断を根本から疑ってみる。そうすることでもっと世の中の出来事や自分自身というものを相対的に見ることができるようになっていくのではないでしょうか。

<以上p19~20>


<引用2>

 善・悪どちらを優先して考えるか

 善・悪どちらを優先して考えるか。これを考えるには信仰のあるなしが大きな問題になってきます。親鸞は当然信仰を持っている人ですから、そこが僕にとってわかりづらいところではあります。

 善人が天国に行けるなら悪人はなおさら行ける。そういう考え方はまったくそのとおりに考えていたのではないでしょうか。理屈はどうかと言えば、要するに、善人は救済を必要としていない。だけど、人間、救いを必要としているとすれば、それはどこかに悪を持っているからだという考えがもとになっていると思います。

 こうした考えを受けて、「悪人が天国に行けるというのなら、意識して悪いことをしたらいいじゃないか」と言って悪いことをするお弟子さんもいました。それを造悪論と言います。それに対して親鸞は、「じゃあ、いい薬があるからといってわざと病気になったり怪我をしたりするか。それはしないだろう。だから、つくった悪はだめだ。心ならずも悪いことをしてしまったとか、ひとりでにこうなってしまった、という悪の人は必ず救われるんだ」という考え方で応じます。

 意識してわざとつくった悪は、いい薬があるからといってわざと病気になるのと同じことだというわけです。人間はそんなことはしないし、それは成り立ちません。病気の人がいい薬を飲めば効くでしょうが、病気でもない人は薬は要らないのです。

 では、病気も含めて悪に類することがどうして存在するのか。「人間にはさまざまな欲望がある。この現実社会は欲望の故郷みたいなもので、執着があってなかなか去りがたいものであるし、欲望自体がなつかしいということがある。だから早く浄土へ行こうという考えが起こらないんだ」というのが親鸞の考え方だと思います。

 また、なぜ人は悪をなすか、ということについても「歎異抄」の中で、親鸞は言及しています。

「あるとき、親鸞が唯円に『おまえは俺の言うことなら何でも聞くか』と言った。唯円は『お師匠さんの言うことは何でも聞きます』と答えると、親鸞は『じゃあ、人を千人殺してみろ』と言った。唯円は正直に『いや、人を千人殺せと言われても、一人の人間さえ殺すだけの気持ちになれないし、それだけの度量もないから、それはできません』と答えた。

 親鸞は『いま俺の言うことは何でも聞くと言ったのに、もう背いたじゃないか。そういうふうに業縁(ごうえん)がなければ一人の人間さえ殺せないものだ。だけど、業縁があるときには、一人も殺せないと思っても千人殺すこともあり得るんだよ』と言った」

 僕は機縁と訳していますが、仏教の言葉では業縁と言っています。つまり、一人のときにはたった一人も殺せないのに、たとえば戦争になると百人、千人殺すことはあり得る。それはその人自身が悪くなくても、機縁によって千人も殺すということはある。だから、悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ、ということです。これはすごくいい言い方だと僕は思いました。

<以上p55~p58>

 吉本さんはオウム事件ではその言及から非難された人です。そこにはこの思想があるからで、ご本人もこの著書で述べています。

 だからと言って信仰なき者と自認する吉本さんは、それなりの親鸞との性のつながりが他の著作からも明らかです。

 じねんほうには多くの方がお書きになっていますが、吉本さんの吉本さんらしい端的な書き方です。自然法爾には「言いえないものを言おうとする」「語りえないと考えられることを、どうにか教えよう」という本人の性があるように思います。

 親鸞さんと吉本さんの性同士の共鳴なのでしょう。信仰のない者の性の出会いによる信仰があるように思います。

 今朝は、鳩山元総理、菅総理の言動から「性」に至りましたが。お二人の性、別方向の性を真剣に求める必要があるように思います。

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「尋」と「伺」を検証する

2011年02月05日 | 仏教

<仏教心理学では、(心の中の)はたらきは「尋」と「伺」という心所二つの仕業ということになります。>

 という仏教解説に出会いました。仏教哲学、仏教心理学という科学的な論理的な解釈による仏教紹介の解説書のようです。

 仏教を心理主義の立場に立つと、仏教の働きは「たずねる」の「尋」と「うかがう」の「伺」は心の所業(しょぎょう)の二つの仕業(しわざ)ということのようです。

 西洋哲学の近代における、とある現象学の教祖が心の働きについて心理学主義と論理学主義のはざまで苦悩し、その志向性という問題を正して行こうとした過渡期の論理を思い出させます(『フッサール起源への哲学』斎藤慶典著・講談社p40~p50参照)。

 伺うという言葉は、「聞く」や「尋ねる」の謙譲語のように教えられ理解して別なものではないと思っていました。そこで早速(さっそく)得意の辞書調べを行ってみました。

 当然今に生きる古語ですので、今回は大修館書店・古語林を調べてみました。

うかが・ふ【伺ふ】[他ハ四]〔聞く〕〔尋ぬ〕の謙遜語
① お聞きする。お尋ねする。
② お訪ねする。おうかがいする。

となっていました。古語にはこのほかに

うかが・ふ【窺ふ】[他ハ四]〔上代には「うかかふ」〕
① こっそり見る。のぞき込む。
② ひそかに機会をねらう。すきをねらう。
③ 探して調べる。尋ね求める。
④ ひと通り心得ておく。

という言葉があります。心というものは経験的・個別的・偶然的なもので、そこにあるとは論理的に指摘することができないことは心理学主義にたたなくとも感覚的に理解できるように思います。

 「うかがう(ふ)」というやまと言葉が、漢字の輸入とともに、心の働きの内在性の機能として対象からの受け身の姿勢か、それとも働きかけの積極的機能として能動的に対象として見定める姿勢かという分けて表現するときに漢字を使い分けているように思います。

しかしながらもとを正せば、動的な思考の世界では同じ言葉として成立していたのではないかと思います。数学的な論理学主義で読み解こうとすると壁にぶち当たる世界のようです。哲学というものは論理学的なものですが、私が勝手にそう思っているだけですが、言葉の世界に特にやまと言葉に入り込むとその違いがよく解るような気がします。

 有名な竹取物語に「籠に乗りて吊られ上がりて、うかがい給へるに」というツバメの巣をこっそりのぞく場面がありますが、この「うかがう」が「窺う」になります。

 日本語で「うかがい知ることができた」たというときには、これだけでは上記の「伺い」「窺い」のどちらなのか判りません。「総理大臣の真意をうかがうことができた」これでもどちらなのか判りません。総理大臣から聞いたのか、それとも所業からそう理解したのか、どちらなのかわからないということです。

 これを漢字で表記すると、歴然と明白になってきます。漢字というものは実に合理的です。端的明解すぐに結論が出てしまいます「あやふや」「ほどほど」の世界でないことが分かります。

 まじめに取り組もうかと思っていたところ、道を外れたくなりました。今の世の中はどうもこの「窮地」の「窮」の字に似た「窺」の字が主流に見えてしまいます。言っていることがよく理解できない、日本人特有の玉虫色状態で「窺い知る」しかない状態、そんな気がします。結局墓穴に入って身を弓にして隠れるしかないようです。穴の中で規律や自律を説いても、のぞき込まなければ成らないようではいけないように思います。

 ちなみに「のぞき込む」は漢字で表記すると「覗き込む」で、この「覗」は「伺」と似ているところに縁起を見てしまいます。

 馬鹿なことを言っていないで結論ですが、文頭の

<仏教心理学では、(心の中の)のはたらきは「尋」と「伺」という心所二つの仕業ということになります。>

 心の中にはこの二つの働きがあるという説明です。上記のやまと言葉を知らないと大きな落とし穴(言葉のマジック)に入ってしまいます。

 日本語とは中国語、漢字の合理的な言語や言語体系と異なる、動的なある面心理学主義で理解しなければ解けない世界です。恐ろしいほど、場と言葉の前後が重要になり、しっかりとしたコミュニケーションをとるには、相当な時間を要します。しかし日本人は直観、感覚でクリアーしてしまいます。「あやふや」「ほどほど」がまかり通ってしまうのです。

 日本列島にたくさんの人々があらゆる方向から入り込み、接点をもつとき、敵か味方か判断するときに、一番気になるのが形相(※哲学的な言葉ではありません)で、いわゆる顔色です。

 そこに西洋的な論理思考が入り込むと、まじめに受け止めてしまう。異なった時にはドン底に落ち込みます。そこで間合いが大事になるわけです。「あやふや」「ほどほど」でどっち付かずの一呼吸おいていればよいのかもしれません。

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世界を肯定する哲学・保坂和志・愛語

2011年02月03日 | 仏教

 「夢の中では何歳になっても与えられた状況を真に受ける」

これはどういうことかというと、

 現実の中ではそこそこに、高を括(くく)ようになった大人が、夢の中では与えられた状況に翻弄されて、真剣に対処する。

ということで、作家の保坂和志さんの書かれた『世界を肯定する哲学』(ちくま新書)に語られている(P152)。

 以前にも書いたことがありますが、夢と現実の関係に惹きつけられた現在のわたしはここに基点があります。保坂さんは哲学者ではなく作家ですが、ここに書かれていることは間違いなく表題のとおり哲学のように私は思います。それにしても10年ほど前に書かれた本にしては話題にされないのが不思議な本です。

 今朝は、この本から引用し、今後も他にも印象深い内容があるので取り上げたいと思います。

<引用>※読みやすいので短めのセンテンスに分けて表示します。

 この世界は、思考の結果によって「ある」のではない。この世界が「ある」のは、世界にあるものが見えて、世界で鳴っている音が聞こえているからだ。
 
 世界とは部分の総和ではない。存在が存在者の総和ではないのとまったく同じ意味で、世界とは部分の総和ではない。
 
 「見える」ことと「聞こえる」こととは、最も原初的な意味では対象を特定しない(つまり、対象がない)。「見える」ときに見ているものは、個別の対象ではなくて、世界それ自体だ。

<以上>

この文章の後には、刺激的な文章が続くのですが、私のブログが「思考の部屋」で思考することを主眼にしていますので、この部分を引用しました。

 さすが小説家の方です。そう思っても表現できないことを簡単に短文に書きまとめているところに感動します。難しい言葉の羅列ではありません。平易な文章でありながら深みを感じます。

 この文章の前には、今朝一番紹介したい言葉が書かれています。その言葉を紹介したいと思います。

<引用>

 親子の関係ももちろん”差異の体系 ”の外にある。親が子どもをかわいいと思うのは、「自分に似たところがあるからかわいい」わけではなく、まして「他の子どもよりも姿形がいい(頭がいい…etc)からかわいい」のではなくて、「自分の子どもだからかわいい」。それ以外に理由はないし、それ以外の理由を求める必要もない。

逆に子どもの立場からすれば、自分が親にかわいがられる理由が「親子だから」という単純極まるものだけが安心できる理由で、「顔がかわいいから」だの「頭がいいから」だのといったもっともらしい理由が出てきたとき、子どもの安心は奪われる。そういう評価にまつわる理由が出てきたとき、子どもは親の”社会的な価値の網目 ”の一画を占める存在にすぎないものになってしまう。

 あえて「現代社会の病理」ということを言うなら、子どもは早すぎる時期に幼児教育などの価値の網目に投げ入れられて、親はその”網目性 ”を隠蔽(いんぺい)するために、電車などの公共の場で子供を叱らないという愛を演じる、という逆転が病理の原因となっている。

愛は” 差異の体系 ”の外にあるものなのだから(つまり”差異の体系 ”の外にあるものしか”愛 ”とは呼ばないのだから)、親子の関係の根底で駆動していないかぎり”愛 ”ということを子どもは明確に認識している。

 そのような一見”高度 ”な認識が子どもに可能になる理由も、愛が言語に先行するものだからで、言語的な認識力や理解力がなくても愛を認識することはちっとも難しいことではない。

 話が飛躍してしまった。言語の発生においても、言語の習得においても、人間は肉体なしに、言語を発生させることはできなかったし、言語を習得することもできなかった。
 言語と人間は同時に生まれたのではなくて、人間の肉体が言語に先行して存在した。何より肝心なのはここだ。この本を通じて私がこだわっている、存在することの驚異や不可解さ、「死」を記述することの可能性、「生」と「死」にまつわる通念の否定と書き換え、していることへの注意の喚起によって、可能になるのではないかと思う。

<以上p216~p217>

 思考も言葉で行っているように言われるとそのように思ってしまいますが、果たしてそうだろうか、という疑問が常に付きまとっています。思考よりも短い、直観や閃きを考えると、そこには決して言葉はなく常に肉体を伴う感覚としての感情なりが湧きあがっているように思います。

< 言語をただ、”差異の体系 ”と考えるのではなくて、言語から、その息づかいしている肉体や存在するリアリティを発見し直す必要があるのだ。 p217文頭>

とも書かれているのですが、実にその通りに思います。

 「自分の子どもだからかわいい」

他人ではない我が子。それは自分の一部であるという感覚を伴っているように思います。肉体との関係で自他不二、自他一如、自他平等の中で織りなされている肉中の感覚のように思えるのです。

 支配力における強引な考え方で子供の教育、子供の自律心に大きな弊害があると言われそうですが、自分が実際子どもを思うときには、憎らしい時もありますがそう思えて仕方がありません。

 仏教の中で慈悲においては「利他行」という言葉が出てきます。昨年仏教学者の故中村元先生の『慈悲』(講談社学術文庫)が出版されています。この中で中村先生は、

<引用>

・・・・・・・
 だから利他行はとしての社会的実践につとめる場合にも、近代西洋におけるように、個人としての他人を絶対他者と意識してそれにはたらきかけるという意識をもっていたのではなくて、むしろ自己と他人とが一体不二になるという意識をもってなされたのである。

<以上p103>

 意識とといっても深層心理学的には無意識に近いように思いますが、このように語っています。道元禅師の『正法眼蔵菩提薩?(※土に垂れるという字)四摂法』に「同事」の自佗一如(自他一如)という言葉がありますが、この同事を説かれる前には「愛語」という言葉があります。感激では収まらない納得感があります。

 愛語というとこれまでに、ブログで語ってはいますがなかなか理解できていないところにありました。

仏教における愛(3)[2009年07月04日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/50afd607e6211292964cabb5f6836db1

愛語と和のこころ[2009年07月11日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d107f78f3e280ec45363484b06f9aa5a

西尾実の「道元の愛語」[2010年02月13日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b7d59a5e1cab835b072e609e7dd95b35

 気恥ずかしくなるほど、おごりの内容に理解などないことが分かります。同じ言葉に出会いいろいろと安直に理解したと思っている愚己に、いつ目覚めるのだと思うきょうこの頃です。

 写真は昨朝の常念岳、と美ヶ原から陽が昇る寸前の写真です。


形にみる非現実性の世界・仏像・赤子の指

2011年01月30日 | 仏教

 NHKの「美の壺」という番組で最近「仏像」が取り上げられていました。素人ですので仏像についてうんちくするつもりはありませんが、想像・創造と形、そして言葉という最近の個人的な思考視点から見ているととても心に残ることがありましたので、その点を話しながらさらに思考を展開したいと思います。

 仏像には約束事がたくさんあります。例えば、長い耳。



 これは大勢の人々の声を聞くため、というところから来ています。また頭のてっぺんが盛り上がっているのは、智慧が豊かであることを示すもの。

 指にある水かきのような膜。



 これは命ある者を一人残らず救うためで仏が、人を超えた存在を示すものとして形づくられていると解説されていました。

 そのほかにもたくさんあり、番組ではその他についても解説されていました。

 番組で最初に細かく解説されたのが「手」です。ここで京都を拠点に仏像づくりを行っている仏師の江里康慧(えり・こうけい)さん登場し、仏像の手について次のように話していました。

【江里康慧】 

 仏像の手を彫るときに特に意識していること手です。


 
 赤子の手を意識してつくり出します。奈良平安の昔から見られるものだそうです。

 実際赤子を見たときに自然と心が開かれて、こちらが無心になれる、というものを赤子はもっている。

そのことが仏像の形に反映されたのではないかというように思います。

<以上>

と語っておられました。

第一の壺・・・「赤子の手に宿る無垢の心」



京都の神護寺の国宝薬師如来像


(神護寺釈迦如来像の指)

新薬師寺の国保薬師如来像


(新薬師寺如来像の指)



【江里康慧】
 生まれた時は純粋・無垢だが成人するにしたがって煩悩や執着が身に染まってゆく、昔の人もおそらく、赤子の純粋さ、無垢さに仏の無の世界、空の世界を重ねてみたのではないか。



実際に対比してみると形の中に、創造の中に深淵な世界が広がります。



 「赤子の指」赤ちゃんの指です。赤ちゃんを見ると自然に心が開かれる。こういう思考を共有できる人には、この形を見るだけで大乗仏教の思想を共有できます。

 多くの言葉を語ろうとも「赤子の指」のその意味で見つめるならばなんとありがたいことでしょう。

 仏像は鑑賞対象ではないのは確かです。また偶像崇拝と思う人もいます。そのようなある懐疑的な否定論に立つ人、無宗教の人は仏像の指の形は「あるがままで、それ以上の意味はない」と思うのではないでしょうか。

 大人の指は湾曲していません。物をつかむのに便利なよう内側に湾曲しているのです。

 純粋の無、哲学的な純粋性をみるようです。赤ちゃん指先の湾曲に「無」「純粋」を見る、勝手に思うのですが恐ろしいほどに深淵です。

 物を個物の物として見るか、物を「もの」と見るかでは、そこから語られる事柄という「こと」の理解に大きな差があると思います。

 非現実性な夢ですが、こと柄のものとしての形なき形に想います。

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自己発見の道・金子大栄

2011年01月24日 | 仏教

 昨日は、鎌倉女子大学教授の竹内整一先生の日本語の「あわい」という認識について、金子大栄先生の「花びらは散る 花は散らない」という言葉が示す思想と感受性において感得できる認識であるという話をアップしました。

 金子大栄先生1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)といえば浄土真宗大谷派の僧侶であり大谷大学名誉教授でもある仏教思想家です。

 そのような先生が語る「花びらは散る 花は散らない」という言葉は、信徒の方ならばすぐに理解できましょうが、門外漢のものからすれば非常に難しいものです。

 この言葉に続くのは「形は滅びても人は死なぬ」ですから人間の一生、人間とは何ぞやのという問いかけに対する一筋の道をいわんとしているのではないかと推測するしかありません。

 個人的には全ての宗教の切り口は全て同じ、人間ですから180度も違う「善しとする生き方」があるわけではないと考えています。そういう意味で他力も自力もあるだろうがないとと考えています。「ある」は瞬間的な発声の中で、「なし」は総じて言えばという意味で、解ってはいませんが、解ったようないい方でそう思います。

 昨日は、金子先生のこの「花びらは散っても、花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」を知り、手持ちの著書に『親鸞の世界』(徳間書房)がありましたので再読してみました。

 その中で「往生と成仏<人々の願い>」という章の中に「自己発見の道」という短な文章がありました。最近のわたしの他者論にも参考になる話でしたので、今朝はその文章を紹介したいと思います。

<引用>

 自己発見の道

 仏とは「悟り」の法であるということをいいました。ではその悟りとはなんでしょうか。 悟りとは「覚」ということです。覚とはなんであるか。覚とは、ブッダということです。 かならずしも自覚とはいってないけれども、自覚者といっていいでしょう。

 自覚とは、ある人の説明によると、「アイ・シー・ミー」ということである。わたくしはわたくしを見る。アイとなるものは神仏であり、ミーとなるものは人間であると考えるのが宗教である。アイを自分と考え、ミーを人びとと考えるのが道徳である。
 
こういう場合において、アイのほうに自分を見出すか、ミーのほうに自分を見出すかというと、だいたいアイのほうに自分を見出そうというのが聖者の道らしい。われ即仏です。ブッダとはわたくしです。われの本来の面目、本来の面目はすなわちブッダである。

現実に見られているものは、ミーとしてのものであるかもしれないが、そういうものを見通しているところのアイこそ自分である。「大我」というような言葉でいいあらわそうとする人もあるが、そういう思想は仏法でもないことはない。

 それに対して、凡夫のほうは、ミーこそ自分である。アイは仏であって、われを超越したものであり、われらはつねに見られているものである。そこに念仏というものがある。念仏というのは自己発見の道であるという。そして、自分を見出させてくれたものが仏である。見るものとして自分を見るか、見られるものとして自分を見るか、どちらのはうが全面的であろうか。

いつも例に出すことですが、月はくまなく照らすというときに、われは月を見ているのであるか、月がわたくしどもを見ているのであるか。わたくしが月を見ているということも間違いのないことであるけれども、しかし、それよりも、もっとはっきりしていることは、わたくしは見られている、月の光に照らされて見られているということである。その見られているということほど全面的なものはないのでしょう。
 
 いかに自分は自分を見つめているといっても、自分で見ているような自分は、日記でさえごまかすくらいですから、ほんとうに全面的に見ることはできないのではなかろうか。見られているというところに、自分というものがあるのです。
 
 照覧の眼をもって始終見ているものを仏というが、ただ仏といわないで阿弥陀といっているのです。阿弥陀の光に照らされて、よく自分というものが見られる。あの世の光というものがあって、浄土という場があって、その浄土の光に照らされて、人間の生活というものは明らかになり、この世というものがはっきりとしてくるのではないでしょうか。
 
<引用終わり同書p56~p57>

 「アイ・シー・ミー」とは「I・see・Me]のことだと思いますが、日本語の一人称の中にその道を説いています。

 拝む自分は、また拝まれている自分でもある。仏の手を合わせている姿にいつもそう思うのですが、上記の金子先生の話は、他力門で、阿弥陀様の世界の話ですが、私としては全く垣根のない話です。

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他者-人間はなんのために生きているか(2)・無限なる者(2)・自他の関係

2011年01月11日 | 仏教

先日(1月8日)の「他者-人間はなんのために生きているか(2)・無限なる者(1)」では、岩田靖夫先生の著書からの引用文は、

 だが、この全体化の態度は、実は、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は槍で突かれ、冷水を浴びせかけられ、自己満足の安らぎから引きずり出され、私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。

もちろん、自分の思い通りにならない他者をさまざまな形での暴力によって抹殺することはできる。そのように生きている人々は沢山いる。しかし、そのような殺人は全体化を完成したのではなく、むしろ、全体化が不可能であることを証しているのである。

で終わっています。

 「全体化の態度」とは、絶対主義やナチスドイツ、今の中国共産党支配下の中国のような世界を示しています。

 ノーベル平和賞を力によって抹殺しようとしても今の世の中見えている人には見えている時代です。端的に示していることは、岩田先生が述べているように「全体化が不可能であることを証」しているという事実です。

 昨日のブログ” わたしの思考探究~ 「自分とは何か」(2)・他者との関係・レヴィナス・NHK教育番組紹介 ”ではフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906~1995)の

<他者>は私にふり向き、私を問い正し、無限なものであるというその本質によって、私に責務を負わせる(『全体性と無限』)。

という言葉が番組の中で紹介されたことを欠きましたがここでいう「無限」は、「全体化が不可能であることを証」につながります。

 他者の理解は、力による全体化による統制で一律的な理解を他者に得られたという理解と決して離れたことではありません。

 相手を知り尽くす、このことは不可能であることはだれでも知悉しているところではないでしょうか。体験がそれを証明します、裏切りのユダ、キリストのように早々知り得ていることは稀で、人は騙され傷つけられます。

 その意味で「他者は無限なるもの」なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そう述べたところで、今朝は「無限なる者(2)」として、岩田先生のこの論文の後半部分を引用紹介したいと思います。

<引用>

 ここに「無限(infini)」の経験が現れる。無限の経験とは、なにかが常に私の知っている以上のもの、私が判断し、享受し、利用しうる以上のもの、私の用いなれたカテゴリーに入らないもの、である、という経験である。

ところで、他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすり抜ける者、私の期待を裏切り得る者、私を否定しうる者である。

この意味で、他者は無限なのである。なるほど、私は、他者をくまなく観察し、調査し、吟味して、その容貌、経歴、出自、能力、社会関係などのすべてを手にいれることはできるだろう。そうして、私が他者を判断し私のカテゴリーのうちに収納しょうとするとき、他者はそれらのカテゴリーの背後に姿を消すのである。

これらの現象的諸性質、諸能力、諸関係は他者の抜け殻に過ぎないのであり、他者は常に抜け殻の背後に退いている。だが、そうは言っても、その引き退いた他者は、再び現象として姿を現すから、他者として語られうるのではないか。そうである、と同時に、そうではない。他者は現象として現れざるをえないが、現れると同時にすでに現象から立ち去っているのである。

これが「無限」という術語の指示する事態である。「無限」とは「けっして捉えられない」という意味である。限りのあるもの、有限なもの、形のあるものは、理性の把握の圏内に落ちるが、それを超えでいるから、無限なのである。

この事態をレヴィナスは「超越(transcendance)」とも「絶対(absolu))」とも呼んでいる。超越とは、端的に現象世界を超えている、という意味である。他者は、現象世界に存在すると同時に、現象的諸性質に還元されえないという意味で、現象世界を超えているのであり、いつもすでに立ち去っており、その意味で「不在(absence)」であり、超越なのである。絶対とは、「切り離されている(ab-solu)」という意味である。

私と他者との間には超えることのできない断絶があるのである。どうしてか。他者は、私の把握を常に超えているからである。もしも、なにものかが私によって把捉し尽くされたとしたならば、そのようなものは他者ではなく、私によって消化され、私という有機体に統合され、私の一部分になってしまった物に他ならない。この意味で、他者は他者である限り、私から切り離された者、すなわち、「絶対」でなければならないのである。

 「こうして、他者は常に私の把捉を超える者として、限りなく遠い絶対者であるが、同時に、「私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者」として、私に限りなく近い者でもある。それは、どういうことか。それは、他者が死にさらされた者である、という意味である。

他者は顔として集中的に現れるが、その顔は、化粧や威厳の装いを透かして、弱さをむき出しているのである。顔は「私を孤独の中に置き去りにしないでくれ、死の中に見棄てないでくれ」、と叫んでいるのである。この叫びに出会うことが他者に出会うということなのである。その時、私は他者の苦しみに逃れようもなく関わりあう。

それが、隣人になるということであり、他者の近さの経験の成立ということだ。こうして、他者は限りなく遠いと同時に、限りなく近い、という自己矛盾的構造をもっている。このような他者に、われわれはどのようにして関わり合うことができるのか。あるいは、関わり合うべきなのか。・・・・・。

<引用終わり「無限なる者」のp23~p24・『公共哲学の古典と将来』東京大学出版>

上記引用文の中に、

>私と他者との間には超えることのできない断絶があるのである。どうしてか。他者は、私の把握を常に超えているからである。もしも、なにものかが私によって把捉し尽くされたとしたならば、そのようなものは他者ではなく、私によって消化され、私という有機体に統合され、私の一部分になってしまった物に他ならない。この意味で、他者は他者である限り、私から切り離された者、すなわち、「絶対」でなければならないのである。<

という文章があります。この文章はいろいろな人に、いろいろのことを思考させる言葉のような気がします。

 思い違いもあれば、分かったような気がする人もあり、わけが分からん人がごちゃごちゃと、と思う人もいるかもしれません。

 岩田先生の言わんとしているところは何か、理解を深めるには、著者の別の著書読むのも別方法で、「他者との関わり」という点に視点をおいて、先生の他書『いま哲学とはなにか』(岩波新書)の中に収められている「他者という謎」の中から「知を知拒否するもの」の一部と「地平の曲折」という節文紹介したいと思います。
 
<引用>

○ 知を知拒否するもの(後半から)

 このことは、次のように考えてみれば、さらによく分かる。私が、ある他者と関わりを持つとする。その人が私にとって他者である限り、その人はいつでも私に「否」と言いうるのでなければならない。そうではなく、その人がいつも私の思い通りに動くとすれば、その人は他者ではなくて、私の道具であり、私の奴隷であり、私の一部分なのである。

仮に、私がその人の弱点も長所もすべてを知り尽くし、その人を巧みに操縦しえたとしても、その人が他者であるならば、その人はそういう操縦可能性(認識)の「かなた」にいるのでなければならない。

この意味で、私と他者との間には、絶対の断絶が存在する。断絶が存在するから、人間は他者なのであり、犯すべからざる尊厳をもつのである。

 エピクテートス(55年頃-135年頃)の 『語録』(第一巻二九章五節以下)にこの点をよく示す対話がある。

 あるとき、暴王が悪事に加担させようとして、家来を脅迫した。「余の言うことを聞かないと、お前の財産を没収するぞ」「どうぞ、どうぞ。財産は私ではありません」。それなら、「お前の腕を切り落とすぞ」「どうぞ。どうぞ。腕は私ではありません」。それなら、「お前の首を切るぞ」「切りたければ、お切りなさい。あなたは私の体を壊しただけで、私の心を支配することはできません」。人間の心には誰も手を触れることができない。思い通りにならない者を殺したということは、かれの「心の否」には殺人者は手をつけることができなかった、ということを逆に証明しているのである。


○ 地平の曲折

 人間は認識できない者である。認識できたならば、もはや人間ではなく、たんなる物である。この意味で、人間は「無」であり、「存在のかなた」なのである。これが、人間が自由である、ということの意味である。絶対に認識されえないこと、それゆえに、他者のカの支配下に入らないこと、いつ、いかなるときにも「否」を言いうること、それが自由である、ということに他ならない。

 さて、われわれはそのような他者とともにある。それが根源的事実である。「認識できない者」、したがって、「無なる者」「存在のかなたの者」「否を言いうる者」「自由なる者」「絶対に超えることのできない断絶のかなたにある者」、そのような者とともにわれわれは生きているのである。そのような者は、絶対にわれわれの手の届かないところにいる。

他者は、この意味で、われわれと同等の地平にいるのではなくて、常にわれわれより高い地平にいるのである。

 われわれは常に他者から「否」を言われる可能性の下にある。その他者に向かって、われわれは自分の己を押し付ける(同化する)権利も能力も本来もっていない。暴力によって他者を同化したとしても(たとえば、植民地支配によって、他者を奴隷化したとしても)、先に引いたエピクテートスの対話が示しているように、それは、実は、暴力を揮った者の敗北であったのだ。

支配者の暴力は、被支配者の沈黙の怨恨において、いつでも転覆させられる可能性として、始めから敗北なのである。

 こうして、他者はいつでも私より高い。他者は深淵のかなたで、自由なる者として、私に対面している。この状況を、レヴィナスは自己と他者の直面する空間の「曲折(courbure)」と言っている。 

<引用終了『いま哲学とはなにか』岩波新書P120~P122>

文中のエピクテートスは、エピクテトスと表記される場合があります(中央公論社『世界の名著』)。

この人は、古代ギリシアのストア派の哲学者で、母親は奴隷階級で本人も奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロのもとに売られたという人物です。奴隷制の超克という面で示唆的な人物でもあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 無限なる者として他者との関係を見てきました。慈悲の関係にある他者について仏教ではどうなのか、「仏教の説く自他の関係」に視点を向けてみます。

 その視点を原始仏教典においてみます。手持ちのいろんな著書を調べてみて『ダンマパダ49』を次のように解説する本を見つけました。

<引用>

 蜜蜂は花から蜜をあつめとびさるが、色も香りも損なうことがない。生じゃが村に(托鉢に)行くときも同様におこなえ。(ダンマパダ・49)

 蜂が蜜を集めている。しりを高くあげ、頭を花芯に突っ込むかと思うと、上を向く。細かに動きまわりながら蜜をいっぱい呑み込むと、花を一ゆらしして飛び去って行く。花は元のままに咲き続けている0蜜蜂はただ来て、蜜をとり、ただ去っていく。ありがとうともいわなければ、花も文句をいわない。

 誰でもが見慣れている光景だが、さりげない自然のはたらきの中に大きな摂理を見、人生の教えとして受け取る釈尊の眼は尋常ではない。物事の真実の姿に「気づく」のは、人の生来の能力なのだろうか。

 私は「ただ」という言葉が好きである。右の詩にこの言葉はないが、おのずとここに表わされているのは、蜜蜂と花が「ただ」蜜を集め、集めさせているという風光である。 無論、花は花粉を蜂に運んでもらうし、蜂は蜜をもらう。互いに助け合っていることが自然の大きなであろう。その<ハタラキ>の上に両者は「ただ」恩恵をかわしあい、後に何も残らない。

 もし蜂が蜜をとることで花の形や色、香りを損なうのなら、両者の関係は崩れる。自然の不思議なはたらきだが、それは人間の世界にも同じにはたらいているはずであるし、そう務めよ、と釈尊は教えている。
                                 
 古代インドの修行者は一切の生産手段を持たないから、食物は乞食(托鉢・こつじき) によらざるをえない。自分を卑しめ、頭を下げて恵んでもらうのではない。食事を供養してくれる信者はそれによって功徳を積めるし、修行者もおかげで飢えずにすむ。相互互恵の機能はあるものの、それだけに、乞食者はわずかなりとも貪りの心を起こしてはならない。

「ただ」食事を供養し、「ただ」もらって去る。互いに相手の立場を尊重しつつ、分に応じた人間関係をこそ、釈尊は蜜蜂と花にたとえて教えているのである。
 修行者だけの話ではない。社会の問題も煎じ詰めれば、自然の大きな摂理の中にある。
おのずからの互恵の関係の中に社会の諸制度も成り立っている。それが崩れるのは人間の自我欲望のせいである。

<引用終わり『ブッダの詩(ことば)-知恵と慈悲のかたち』奈良康明著 NHK出版生活人新書p77~P78>

 奈良康明先生は「仏教の説く自他の関係」を説明されるに「ダンマパダ・49」を引用されています。

 ここにある「ただ」は、あるがままの「ただ」なのですが無味乾燥的な「ただ」ではなく無限なる他者・自己をそのままに受け取ることのように思います。受け取るとは認めることであり観念に執着しないことだと思います。互いを尊厳することだと思います。

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