先日(1月8日)の「他者-人間はなんのために生きているか(2)・無限なる者(1)」では、岩田靖夫先生の著書からの引用文は、
だが、この全体化の態度は、実は、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は槍で突かれ、冷水を浴びせかけられ、自己満足の安らぎから引きずり出され、私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。
もちろん、自分の思い通りにならない他者をさまざまな形での暴力によって抹殺することはできる。そのように生きている人々は沢山いる。しかし、そのような殺人は全体化を完成したのではなく、むしろ、全体化が不可能であることを証しているのである。
で終わっています。
「全体化の態度」とは、絶対主義やナチスドイツ、今の中国共産党支配下の中国のような世界を示しています。
ノーベル平和賞を力によって抹殺しようとしても今の世の中見えている人には見えている時代です。端的に示していることは、岩田先生が述べているように「全体化が不可能であることを証」しているという事実です。
昨日のブログ” わたしの思考探究~ 「自分とは何か」(2)・他者との関係・レヴィナス・NHK教育番組紹介 ”ではフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906~1995)の
<他者>は私にふり向き、私を問い正し、無限なものであるというその本質によって、私に責務を負わせる(『全体性と無限』)。
という言葉が番組の中で紹介されたことを欠きましたがここでいう「無限」は、「全体化が不可能であることを証」につながります。
他者の理解は、力による全体化による統制で一律的な理解を他者に得られたという理解と決して離れたことではありません。
相手を知り尽くす、このことは不可能であることはだれでも知悉しているところではないでしょうか。体験がそれを証明します、裏切りのユダ、キリストのように早々知り得ていることは稀で、人は騙され傷つけられます。
その意味で「他者は無限なるもの」なのです。
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そう述べたところで、今朝は「無限なる者(2)」として、岩田先生のこの論文の後半部分を引用紹介したいと思います。
<引用>
ここに「無限(infini)」の経験が現れる。無限の経験とは、なにかが常に私の知っている以上のもの、私が判断し、享受し、利用しうる以上のもの、私の用いなれたカテゴリーに入らないもの、である、という経験である。
ところで、他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすり抜ける者、私の期待を裏切り得る者、私を否定しうる者である。
この意味で、他者は無限なのである。なるほど、私は、他者をくまなく観察し、調査し、吟味して、その容貌、経歴、出自、能力、社会関係などのすべてを手にいれることはできるだろう。そうして、私が他者を判断し私のカテゴリーのうちに収納しょうとするとき、他者はそれらのカテゴリーの背後に姿を消すのである。
これらの現象的諸性質、諸能力、諸関係は他者の抜け殻に過ぎないのであり、他者は常に抜け殻の背後に退いている。だが、そうは言っても、その引き退いた他者は、再び現象として姿を現すから、他者として語られうるのではないか。そうである、と同時に、そうではない。他者は現象として現れざるをえないが、現れると同時にすでに現象から立ち去っているのである。
これが「無限」という術語の指示する事態である。「無限」とは「けっして捉えられない」という意味である。限りのあるもの、有限なもの、形のあるものは、理性の把握の圏内に落ちるが、それを超えでいるから、無限なのである。
この事態をレヴィナスは「超越(transcendance)」とも「絶対(absolu))」とも呼んでいる。超越とは、端的に現象世界を超えている、という意味である。他者は、現象世界に存在すると同時に、現象的諸性質に還元されえないという意味で、現象世界を超えているのであり、いつもすでに立ち去っており、その意味で「不在(absence)」であり、超越なのである。絶対とは、「切り離されている(ab-solu)」という意味である。
私と他者との間には超えることのできない断絶があるのである。どうしてか。他者は、私の把握を常に超えているからである。もしも、なにものかが私によって把捉し尽くされたとしたならば、そのようなものは他者ではなく、私によって消化され、私という有機体に統合され、私の一部分になってしまった物に他ならない。この意味で、他者は他者である限り、私から切り離された者、すなわち、「絶対」でなければならないのである。
「こうして、他者は常に私の把捉を超える者として、限りなく遠い絶対者であるが、同時に、「私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者」として、私に限りなく近い者でもある。それは、どういうことか。それは、他者が死にさらされた者である、という意味である。
他者は顔として集中的に現れるが、その顔は、化粧や威厳の装いを透かして、弱さをむき出しているのである。顔は「私を孤独の中に置き去りにしないでくれ、死の中に見棄てないでくれ」、と叫んでいるのである。この叫びに出会うことが他者に出会うということなのである。その時、私は他者の苦しみに逃れようもなく関わりあう。
それが、隣人になるということであり、他者の近さの経験の成立ということだ。こうして、他者は限りなく遠いと同時に、限りなく近い、という自己矛盾的構造をもっている。このような他者に、われわれはどのようにして関わり合うことができるのか。あるいは、関わり合うべきなのか。・・・・・。
<引用終わり「無限なる者」のp23~p24・『公共哲学の古典と将来』東京大学出版>
上記引用文の中に、
>私と他者との間には超えることのできない断絶があるのである。どうしてか。他者は、私の把握を常に超えているからである。もしも、なにものかが私によって把捉し尽くされたとしたならば、そのようなものは他者ではなく、私によって消化され、私という有機体に統合され、私の一部分になってしまった物に他ならない。この意味で、他者は他者である限り、私から切り離された者、すなわち、「絶対」でなければならないのである。<
という文章があります。この文章はいろいろな人に、いろいろのことを思考させる言葉のような気がします。
思い違いもあれば、分かったような気がする人もあり、わけが分からん人がごちゃごちゃと、と思う人もいるかもしれません。
岩田先生の言わんとしているところは何か、理解を深めるには、著者の別の著書読むのも別方法で、「他者との関わり」という点に視点をおいて、先生の他書『いま哲学とはなにか』(岩波新書)の中に収められている「他者という謎」の中から「知を知拒否するもの」の一部と「地平の曲折」という節文紹介したいと思います。
<引用>
○ 知を知拒否するもの(後半から)
このことは、次のように考えてみれば、さらによく分かる。私が、ある他者と関わりを持つとする。その人が私にとって他者である限り、その人はいつでも私に「否」と言いうるのでなければならない。そうではなく、その人がいつも私の思い通りに動くとすれば、その人は他者ではなくて、私の道具であり、私の奴隷であり、私の一部分なのである。
仮に、私がその人の弱点も長所もすべてを知り尽くし、その人を巧みに操縦しえたとしても、その人が他者であるならば、その人はそういう操縦可能性(認識)の「かなた」にいるのでなければならない。
この意味で、私と他者との間には、絶対の断絶が存在する。断絶が存在するから、人間は他者なのであり、犯すべからざる尊厳をもつのである。
エピクテートス(55年頃-135年頃)の 『語録』(第一巻二九章五節以下)にこの点をよく示す対話がある。
あるとき、暴王が悪事に加担させようとして、家来を脅迫した。「余の言うことを聞かないと、お前の財産を没収するぞ」「どうぞ、どうぞ。財産は私ではありません」。それなら、「お前の腕を切り落とすぞ」「どうぞ。どうぞ。腕は私ではありません」。それなら、「お前の首を切るぞ」「切りたければ、お切りなさい。あなたは私の体を壊しただけで、私の心を支配することはできません」。人間の心には誰も手を触れることができない。思い通りにならない者を殺したということは、かれの「心の否」には殺人者は手をつけることができなかった、ということを逆に証明しているのである。
○ 地平の曲折
人間は認識できない者である。認識できたならば、もはや人間ではなく、たんなる物である。この意味で、人間は「無」であり、「存在のかなた」なのである。これが、人間が自由である、ということの意味である。絶対に認識されえないこと、それゆえに、他者のカの支配下に入らないこと、いつ、いかなるときにも「否」を言いうること、それが自由である、ということに他ならない。
さて、われわれはそのような他者とともにある。それが根源的事実である。「認識できない者」、したがって、「無なる者」「存在のかなたの者」「否を言いうる者」「自由なる者」「絶対に超えることのできない断絶のかなたにある者」、そのような者とともにわれわれは生きているのである。そのような者は、絶対にわれわれの手の届かないところにいる。
他者は、この意味で、われわれと同等の地平にいるのではなくて、常にわれわれより高い地平にいるのである。
われわれは常に他者から「否」を言われる可能性の下にある。その他者に向かって、われわれは自分の己を押し付ける(同化する)権利も能力も本来もっていない。暴力によって他者を同化したとしても(たとえば、植民地支配によって、他者を奴隷化したとしても)、先に引いたエピクテートスの対話が示しているように、それは、実は、暴力を揮った者の敗北であったのだ。
支配者の暴力は、被支配者の沈黙の怨恨において、いつでも転覆させられる可能性として、始めから敗北なのである。
こうして、他者はいつでも私より高い。他者は深淵のかなたで、自由なる者として、私に対面している。この状況を、レヴィナスは自己と他者の直面する空間の「曲折(courbure)」と言っている。
<引用終了『いま哲学とはなにか』岩波新書P120~P122>
文中のエピクテートスは、エピクテトスと表記される場合があります(中央公論社『世界の名著』)。
この人は、古代ギリシアのストア派の哲学者で、母親は奴隷階級で本人も奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロのもとに売られたという人物です。奴隷制の超克という面で示唆的な人物でもあります。
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無限なる者として他者との関係を見てきました。慈悲の関係にある他者について仏教ではどうなのか、「仏教の説く自他の関係」に視点を向けてみます。
その視点を原始仏教典においてみます。手持ちのいろんな著書を調べてみて『ダンマパダ49』を次のように解説する本を見つけました。
<引用>
蜜蜂は花から蜜をあつめとびさるが、色も香りも損なうことがない。生じゃが村に(托鉢に)行くときも同様におこなえ。(ダンマパダ・49)
蜂が蜜を集めている。しりを高くあげ、頭を花芯に突っ込むかと思うと、上を向く。細かに動きまわりながら蜜をいっぱい呑み込むと、花を一ゆらしして飛び去って行く。花は元のままに咲き続けている0蜜蜂はただ来て、蜜をとり、ただ去っていく。ありがとうともいわなければ、花も文句をいわない。
誰でもが見慣れている光景だが、さりげない自然のはたらきの中に大きな摂理を見、人生の教えとして受け取る釈尊の眼は尋常ではない。物事の真実の姿に「気づく」のは、人の生来の能力なのだろうか。
私は「ただ」という言葉が好きである。右の詩にこの言葉はないが、おのずとここに表わされているのは、蜜蜂と花が「ただ」蜜を集め、集めさせているという風光である。 無論、花は花粉を蜂に運んでもらうし、蜂は蜜をもらう。互いに助け合っていることが自然の大きなであろう。その<ハタラキ>の上に両者は「ただ」恩恵をかわしあい、後に何も残らない。
もし蜂が蜜をとることで花の形や色、香りを損なうのなら、両者の関係は崩れる。自然の不思議なはたらきだが、それは人間の世界にも同じにはたらいているはずであるし、そう務めよ、と釈尊は教えている。
古代インドの修行者は一切の生産手段を持たないから、食物は乞食(托鉢・こつじき) によらざるをえない。自分を卑しめ、頭を下げて恵んでもらうのではない。食事を供養してくれる信者はそれによって功徳を積めるし、修行者もおかげで飢えずにすむ。相互互恵の機能はあるものの、それだけに、乞食者はわずかなりとも貪りの心を起こしてはならない。
「ただ」食事を供養し、「ただ」もらって去る。互いに相手の立場を尊重しつつ、分に応じた人間関係をこそ、釈尊は蜜蜂と花にたとえて教えているのである。
修行者だけの話ではない。社会の問題も煎じ詰めれば、自然の大きな摂理の中にある。
おのずからの互恵の関係の中に社会の諸制度も成り立っている。それが崩れるのは人間の自我欲望のせいである。
<引用終わり『ブッダの詩(ことば)-知恵と慈悲のかたち』奈良康明著 NHK出版生活人新書p77~P78>
奈良康明先生は「仏教の説く自他の関係」を説明されるに「ダンマパダ・49」を引用されています。
ここにある「ただ」は、あるがままの「ただ」なのですが無味乾燥的な「ただ」ではなく無限なる他者・自己をそのままに受け取ることのように思います。受け取るとは認めることであり観念に執着しないことだと思います。互いを尊厳することだと思います。
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