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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

世界は“空”である(2)・空即是色

2013年01月19日 | 仏教

[思考] ブログ村キーワード

 二日ほど前の「世界は“空”である」の続きになります。Eテレの100分de名著『般若心経』第2回目は「般若心経」の中の「空」についてで、講師の佐々木閑先生曰く「空」は般若心経の核心の思想であるという言葉から始まりました。

 前回書いたとおりにこの「空」の思想は仏教の縁起の理法にも関係する思想です。このブログはテレビの内容にも触れますが批評ではなく、個人的な深みのある理解に向けてのメモです。

 さて時々言及する「空即是色」ですが、インドの「ゼロ」思想に根拠をおく思考転回においては、

「ある」
「ない」
「あると同時にない」
「あるでもない、ないでもない」

は存在しません。物々交換から貨幣交換をたどる交易において発展する経済取引におけるバランスシート(貸借対照表)においては、「ゼロ」概念が不可欠です。損益に対する重要ポイントだからです。メソポタミア文明、インダス文明が花開いた地方では早くからこの思想が発展しました。労働に対する対価もその範疇にあります。働かざる者には労働賃金である対価穀物、対価金銭は存在しません(ゼロ)。

 奴隷的身分が徹底されるならば「ゼロ」は徹底した概念です。そういう自己存在において徹底された裸の実存であり「我」は持ち得ないわけです。

 「あるでもない、ないでもない」と感覚がつかめないのは慈悲という献身的な自己犠牲(この表現は誤解を招きますがあえて使います)が発生しないことを意味します。

 意味のないゼロの中に意味をもたすことができないからです。

 あるスリランカの僧侶が「般若心経」の今回2回目の番組で取り上げられた「空即是色」について次のように語った有名な話があります。

<僧侶曰く> 

『般若心経』では「色即是空」と言っています。それはお釈迦 様もおっしゃっていた真理であって、「物質的現象には実体が無い」というのは客観的事実です。でも「空即是色」は完全に間違いです。「実体がないものは物理的現象だ」とは言えません。

 般若心経の中では、何かしら文学的に成り立つかもしれませんが、真理ではありません。
経典を書いた人が真理を分かっていなかったみたいです。

という話で玄奘三蔵法師さまは「真理が分っていない」と批判されたわけです。その論理的根拠は「即是」にあるようです。(※番組では鳩摩羅什訳ではなく三蔵法師訳としているのでここでは三蔵法師とします)

 そもそも可能的事実のみが「語り得るもの」であって「意志、価値、倫理、死、魂、神、神秘、永遠、人生、精神など」は「~は云々である」と言及できないもので、本来はウィトゲンシュタインがいうように「語り得ぬもの」で、それをあえて語り漢字4文字のすばらしさがあります。

 何もないのではない。あるけれども「言葉では表せない」「人に伝えることができない」ようなものだが「存在」はしているという微妙な感覚を、大衆のために(大乗思想)語るためそのような表現をするのであって、「即是」という「云々である」が使われているわけです。どうしても「ゼロ」思想に執着すると、この微妙なニュアンスが直覚としてつかめないようです。

 人によっては鈴木大拙先生の「即非」がよいのではという学者先生もおられますが、「般若心経」の今日ある歴史的事実がそれを拒んでいるのは明白です。「ゼロ」思想に固執している者は自分の厳格な学問の方法を固く信じているので、知らず識らずのうちに、その方法の中に這入って、その方法の虜になってしまうということです。

 すなわち現象の具体性というものに目をつぶってしまうということです。現象の具体性とは何か、それは『般若心経』の番組が放送される以前に数多くの超訳や私訳も含めた『般若心経』が出版され日本人の心をとらえているということです。

 さて「空(くう)」は、般若心経の核心の思想であるという話にもどります。

 前回「五蘊皆空」について書きましたが、引き続いて言及していきます。番組で丁寧に説明されていました。そして今回は「色即是空」で、色(しき)とは「この世を作っている物質すべて」のことを言い、それは「空」だと言います。

 「空」とは実体を持っていないもので、私たちは実体のあるものを「物質」と名づけます。しかし「物質」という言葉は物の概念を表わすものですから「空」だということになります。

 いったい「空」とは何か?

【番組ナレーション】
 この世界は常に移ろい続けています。太陽は朝、東から昇り夕方には西に沈みます。すると月が東から出て、その月はまた日々、形を変えてゆきます。

 満開の桜もわずか十日もすれば風に散ってしまいます。この「移ろい行く世界」には「何かの法則があるのではないか?」古代インドの仏教徒たちはそれを「空」と名づけたのです。

とてもきれいな説明だと思います。三蔵法師さまは現地語で書かれたものを「空」という漢字に訳しました。古代インドの仏教徒たちの理解をさらに三蔵法師さまが意訳したということです。超訳というのでもなく私訳でもなく、当時の中国人の知識で理解できるようにということです。

 だからそこには三蔵法師さまの経験が語られているということです。数学的なということは科学的なともいえるのですが「ゼロ」という具体性のあるバランスシートにおけるプラス・マイナスの境の「ゼロ」ではなく、老子(道徳経)の知識でもどうにかこうにか意味理解ができる形に、ということです。

道徳経の第11章の「空のはたらき」については既にブログに書きましたのでここではこれ以上言及しませんが、他者との関係性における「nothing」ではなく「移ろい行く世界」であり「空(うつ)ろな連関性の世界」を示す経験の感覚表現です。「感覚」ですから本来は語り得ない現象にある働きのことを言うのです。

 前回はあらゆる現象のそれぞれの奥にある一つの法則を眺め、その法則性に全てを集約していくのが科学であるとことを書きました。科学は経験というものを尊重します。経験科学の場合の経験というものは、科学者の経験であって自然現象のある部分を取出し、観察や実験の方法でとり上げ、これを計量というただ一つの点に集約させるという意味です。それは私たちが日常生活で行っている経験の領域を合理的に説明しようとするものです。

 しかし上記で言及した可能的事実はどうでしょう。精神や心とはこうだと定められないことは誰もが知るところです。人間精神な働きの微妙さ計量計算には到底ゆだねられないものです。

 科学は観察や実験などの結果を計量計算し宇宙の法則性などを明らかにしたった一つの法則を見つけようとします。

 「空」はすべての現象を統括する一つの法則で我々は「感じる」ことができると説明されました。

 これは人間の経験にもとづくもので、支配しているたった一つの法則で、仏教では「空」としたわけです。くり返しになりますが、「これは何だ?」と問われてもわからない、本来は「語り得ぬもの」で説明できないで直覚として「感じる」ことができるだけというわけです。

「色即是空」というのは一つの大きな宇宙観。

とい解説がありました。この場合の「色」には肉体や精神、自然現象から精神現象も含まれます。したがってここでは身心二元論の身心並行論の肉体と精神のパラレルな関係はありません。

 タレントの伊集院光が司会を担当しているのですがいつもこの人の鋭い直覚には驚かされます。

 両親が出会い自分が生まれた(それが自分であった)という不思議(もやもや)=現象

旨を話し、「それが空ですか」と質問していました。島津百理子アナも「身の回りの説明できないことも」と質問し、佐々木先生は、
 
 「若い人が段々と歳をとってゆく」とか「美しさが損なわれてゆく」とか、そういう移り行く世界も源(もと)は「空」の中から現れてくるそれぞれの現象だと理解することができる。

と解説されて「空は悟りそのもの」ということでした。
 次に解説されたのが「色即是空」の次の言葉の「空即是色」です。文頭で書いたスリランカの僧侶が誤りだとし、三蔵法師を真理をわかっていない人物とみなす発言をした言葉です。

 番組では小劇場風な会話でこの「空即是色」が語られていました。

【男性A】(コーヒーカップの中のミルクとコーヒーの織り成す渦から)すべては移ろい行くからこそ美しい。コーヒーに溶けていくミルクは次々と形を変え、褐色の液体の中に白い繊細な模様を描いていきます。その変化するさまが美しいから、つい私はカップの中をじっと覗き込む癖があるのです。

【男性B】(カメラで喫茶店の窓から下界の景色を撮っている)俺も一度サラリーマン時代に般若心経を読んだことあるよ。おかげで会社辞めてカメラを始めた。

【男性A】 この世はすべて空だって言われたら吹っ切れるよね。

【男性B】 この窓から見える景色も常に変わっているから美しいんだよね。その中で心を奪われる瞬間に何度出会えるか。移ろい行く世界・・・その刹那に心を奪われてシャッターを切る・・・それが「写真」。だから面白くて写真始めた。これって「空即是色」だよな? 


 この話について佐々木先生は、

【佐々木閑】 写真の話は、連続して流れる時間の流れを何とかして我々は一瞬それを切りとって、捕まえてみたいという人の思いの表れ。一生懸命連続したものを切り取って表現したいというものの一つは「芸術」になり、絵画はその中の狭いもので全体の何かあるものを切り取って他人に示したい、自分で見てみたい芸術になります。

 そういう世界を司っている法則を切り取って世に出してみたいだしたい、というのが物理学やになります。考えてみますと人が何かを作る、創造するという働きの裏には必ず何かわからない大きな、後ろにある「空」なるものを切り取って自分の手の中に収めたいという思いがいつもある。

 そう思うと人間が作り上げてきた様々な文化というような活動の根底には「色即是空」「空即是色」という構図があると思います。
以上

ここで伊集院さんがありまた鋭いことを言います。

【伊集院光】
 例えば引力というものを人間が知らない時も、引力を知らないで人間は立っているではないですか。リンゴは落ちるではないですか。・・・である日ニートンが「これ引力だ」と発見して空の一部を切り取るじゃぁないですか。まだ絶大なる空はあるのですが。

 そうすると万有引力というものは、ちょっと前までは空であったわけで、万有引力があるから立っていられるということは「空即是色」ということですか?

以上の質問に佐々木先生は「そうです。」と答えさらに伊集院さんと佐々木先生の間で次のような会話が交わされます。

【伊集院光】
 そうやって考えると何か一つ一つのことにワクワクするのが解ります。不思議に感じた「今自分は立っている」「物が落っこちる」これは何だろう? という・・・これは「空」があるぞというワクワク感・・・・。

【佐々木閑】
 わたしたちが世界に関して何か新しいものを見つけたときのその驚き、喜びというのは結局は、「空」の世界にちょっと触れた時の喜び、衝撃だろうと思うのです。それが我々の発見の喜びあるいは物を作る喜びのエネルギー、原動力になっていると思います。

 毎日を生きて行く自分の一瞬一瞬に意味を見出す。いつも意味を考えるという立場では「空」というものはポジチィブなエネルギーを我々に与えてくれます。

上記の中で語られる「空即是色」に納得できた人が多いと思います。現象・色(空)の一瞬を刻み取り、納得するものを感じ取る。その作用としてポジチィブなエネルギーが与えられる。空の思想にはそういう説明も成り立つわけです。

 科学の目は今現在を合理的に数量計算によって観察し、時には実験で真理をつかもうとしますが精神活動はさらに超えたところにある、ということになるようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回はベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』から次の言葉を紹介したいと思います。

<『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫)の「静的宗教の一般的機能」から>
 
・・・・・人間とは、自分の行動に確信が持てないで、躊躇したり模索したりする唯一の動物、成功の希望と失敗の危惧を抱きながら行動を企てる唯一の動物である。

また自分が病気に罹りやすいことを感じており、また自分が死なねばならぬことをも知っている唯一の動物である。

 人間以外の自然は、全く安心しきって花を咲かせている。植物だって動物だって、危難に見舞われることは同じことなのに、あたかも永遠を憩いの場所としているかのように、それらは過ぎゆく瞬間に安らっている。

 田園を散歩するとき、われわれはこのかわらぬ信頼の幾分かを吸い、心和らいで家路につく。

 だがこう言ったのではまだ充分でない。社会生活を営む生きとし生けるもののうちで、社会の歩みから逸脱し、共同の利益が危いというときにも利己的な関心事にかまけていられるのも、人間だけである。

 人間を除けばどこを見ても、個体の利益は、同格でなり従属してなり、全体の利益と必ずよく調整されている。人間にあってのこの二重の不完全さ(不安と利己心)は、知性を購(あがな)う代価なのである。

 人間は、その思考力を働かせば、どうなるかともしれぬ行く末を思いやらずにはいられず、それが恐怖や希望を呼び覚ます。また人間は、自然によって社会的存在として造られている以上、この自然から受ける要求に思いをいたさざるをえないが、同時にまた、他人のことなど構わずに、ひたすら自分のことだけを気にかけたほうが得になる場合が多いことを、胸中ひそかに思わずにはいられまい。

 両者いずれの場合にも、正常な、自然な秩序が破られてしまう。けれども、知性を欲したのは自然である。動物進化の二つの主要線の一方の端に知性をおき、これを他方の到達点たる最も完全な本能の対にしたのは自然である。してみれは、知性によってこの秩序が乱されるが早いか、間髪を入れず、自動的に秩序が復原されるようにあらかじめ自然が手配しておかなかった、などということはありえまい。

事実、知性に属していながら、さりとて純粋知性とも言えぬ仮構機能の目的は、まさにそれである。その役割は、われわれがこれまで論じてきた宗教、つまりわれわれが静的と呼んだ宗教を仕上げることであり、自然宗教というこの言葉に別の意味がついていさえしなければ、これを自然宗教と呼ぶこともできよう。

そこで、この宗教を正確な言葉で定義するためには、これまで述べてきたことをまとめて言うだけでよい。それを知性を働かせる場合、個人に対してはその元気を殺ぎ、社会に対しては解体的に作用する懸念のある要素に対して、自然がとる防御反応なのである。・・・・・略
<上記書p240~250>

 ベルクソンという人は科学を否定する人ではなく逆に失語症の研究でも知られるように科学的な思考をする哲学者です。ここで語られる「自然」は身心二元論を超えたものに思います。

 自然宗教の中で大乗仏教はさらにいうなら「般若心経」は超えている、とも私には思えるのです。日本人には「般若心経」が好きな人が多い、その意味理解が苦手でも直覚でそう感じるのです。

※今回も思いのままに書き込み、読み直しをしていませんのでいつもの私の文章になっていますがあくまでも個人メモですのでご了承ください。

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世界は“空”である

2013年01月17日 | 仏教

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 昨夜の100分de名著『般若心経』は「世界は“空”である」でした。番組紹介ではありませんが、「般若心経」好きの私としては編成替えができる喜びを感じます。

 人間は五蘊という「色」「受」「想」「行」「識」からできている。「色」は外界にある物質全般で肉体もその一つ。「受」は外界から刺激を感じ取る感受の働き。「想」はいろいろな考えをあれやこれやと組み上げたり壊したりする構想の働き。「行」は何かを行おうと考える意思の働き、「識」はあらゆる心的作用のベースとなる、認識の働きと説明されています。

 肉体と精神という身心並行論を上記の五蘊を対比させたときに、肉体は上記の説明からも明らかに「色」となります。

 五蘊の中の残りの「受」「想」「行」「識」はどうなのか。

感受の働き
構想の働き
意思の働き
認識の働き

でこの働きを番組では「心の働き」だと説明されていました。精神とは国語的には思考や感情の働きをつかさどる心のことですから仏教でいう五蘊とは精神と肉体ということを語っていることになります。

 したがって「五蘊皆空」とは精神とか心の働きというものは「空」なのだよ、ということになります。

番組では、

移ろいゆく世界には何か法則があるのではないか?
古代のインドの仏教とは「空」と名づけたのです。

というナレーションとともに、講師の花園大学佐々木閑先生は番組で次のように説明されていました。

< 生命現象、自然現象など人間を取り巻く世界には現象があり「昔の人たちは、この一つ一つを別の現象として見ていた」それがやがてすべての現象の奥にある一つの法則で眺めてみたいという考えが生まれ、法則性に全てを集約していく動きが出てきてそれの究極が科学(自然科学)です。例えば相対性理論があったり量子力学があったりと皆そうです。

 ではその働きが進んでいったときには、本当に宇宙を支配しているたった一つの法則に行きつくのかと、ではいったい「空」は何なのか・・・・それは解りません。しかしすべての現象を統括している一つの大きな法則(空)があると私たちは感じることができる。>

 精神世界を全て科学的に説明しようとしても不可能ですが大きな法則(空)にしてしまうところが仏教は科学的ともいわれる所以なのだろうと思います。

 法則性とはすなわち必然性であり因果の世界、すなわち縁起の世界にもなるわけです。

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酒井雄哉大阿闍梨の「東西南北」

2012年10月25日 | 仏教

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 一段と秋が深まり奥山の紅葉がそろそろ山ろくの入口まで下りてきました。一昨日の夕方上高地に雪、通行止めとのニュースがあり朝の気温もかなり下がってきました。
 この様子だと北アルプス常念岳は雪になると思い、通勤の際に見てみると積雪となっていました。

 東から昇る太陽の光に雪が輝くところがとてもきれいなのですが、残念、山頂付近に雲があり輝きは見ることができませんでしたが、白いことだけはわかりました。

 最近は「人生には意味がある」という命題に何かと興味がむくようになり、書店へ行ってもこの手の本を手にすることが多くなりました。天台宗の行者の酒井雄哉阿闍梨さんの著書が目にとまりました。一か月前にEテレの「こころの時代」に出ておられたことを以前ブログに書いたように思いますが、表紙の顔写真にも惹きつけられて手にして読み始めると、余りのもその読みやすさに驚きいっきに読みたくなり購入しました。消費税込みで丁度1000円になります。

 子どもさんにも読めるように話しことばで、頭を抱えるようなことは書いてなく、いわゆるストンと身には入る話が書かれています。

 今朝はその中から太陽が東から昇るという話から、第二章の「生まれてきたのは、なにか役割があるから」の冒頭の話しから「東西南北」の話を書こうと思います。

酒井大阿闍梨には三人のお師匠さんがおられたそうで、そのお一人から教えを受けた話です。「こころの時代」でも同じ話をされていたように記憶していますが、「アハー体験」と言いますか、「なるほど体験」、「なるほど知識」です。

 最初のお師匠さんからの宿題、紙の真ん中に「日」と文字が書かれていて、周りに東西南北の四文字が書かれた紙片、それが渡され「明日までに考えてくるように」と言われたそうです。

 今でもよくわからないといいながらも「『人間は、何をしにこの世にきたのか?』ということを問いかけているんじゃないかと思うんだ。」と、次のように説明されていました。

 南=な

 西=にし

 北=きた

と読め、「お日様は東の空から昇るよね。だから、お日様が昇る東の空から、『なにしにきたのか?』ということを毎日問いかけられているじゃないかな?」 というわけです。

 どうもお師匠さんからは、正解を示されていないようですが、正解がないことも深い話ですが、この大阿闍梨の解もなかなか「なるほど体験」話です。

 「なんとためにこの世に生まれていたのか考える」

 個人的な解釈ですが、難しい言葉で言えば「存在」と「当為」という哲学的問です。「在るべきことと為すべきこと」「生まれてきた存在、そこにはおのずと為すべきことがある」そんな問いです。

 お日様が昇るということは、お日様は、いつも、毎日わたしにそういう問いかけをされているということです。これ以上余計な話は書かないことにします。

 一気に読める本で、何回も反復すれば、すべてが身に付き誰かに話したくなる、そんな気がします。ということで今朝はこの話を選びました。

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「ある時」を考える

2012年10月20日 | 仏教

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 今年の9.11アメリカ同時多発テロ記念日を前に、「9.11を前にV・E・フランクルの思想が語るもの」と題したブログを書きました。

 その際に植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)に書かれていた「怨親平等(おんしんびょうどう)」にかかわるヴィクトール・フランクルの思想評価について書きました。フランクルについての言及であることから取り上げたのですが、この植木氏の著作『仏教、本当の教え』の中でどうしてもわからないところがあり、最近そのことに気がつきました。

 この本の第三章「漢訳仏典を通しての日本の仏教受容」にかかれた「恣意的な読み替え - 道元と親鸞」に書かれた内容についてです。

<植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)から>

 恣意的な読み替え - 道元と親鸞
 あるいは、漢訳仏典の恣意的な解釈もしばしば行なわれた。それは、ストーリー全体から論じたものではなく、一字一字を区切ったり、一句を拾い出したりしての解釈である。その代表的なものが、道元の「有時(うじ)」の読み方である。これは、本来は「有る時」と読むところであり、英語で言えば、once upon a taime か one day である。道元は『正法眼蔵』有時の巻でその言葉に対して、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と意義付けした。確かに「有」というのは、バヴァ(bhava)の訳として、「存在」という意味で用いられることがある。ただ、もとの文章中の「有時」の箇所を「有はみな時なり」と読んでしまうと、その文章の前後関係はまったくつながらない。ところが道元は、その二文字だけを取り出して、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と解して、「有」と「時」が密接不可分であるとする時間論を展開した。その時間論は面白い。・・・・以下略

<以上同書p140>

 道元さんの『正法眼蔵』の「有時」について語るつもりはないのですが、この言っている意味がわからないのです。

>本来は「有る時」と読むところであり・・・

と書かれていて、その後の英語の記述からも「むかしむかし」=「あるとき」と読むべきところを恣意的に改変しているという箇所です。この「有」という漢字をやまと言葉の「ある(有る)」と読むところをそうしていないといっているように読めるのです。

 やまと言葉の「ある」とはどういう意味か、一般的な大修館書店の古語辞典には、

ある【有る】[自ラ変](連体)ラ行変格活用動詞「あり(有り)」の連体形。
 【有るが中に】たくさんある中でとりわけ。
 【有るか無きか】
  1 存在するか否かの意。
  2 存在がはっきりしない意。
   ア あるのかないのかはっきりわからないほどかすかだ。
   イ 生きているか死んでいるかわからないほど弱っている。
   ウ あるかないかわからないほどみすぼらしい。
   エ はかない、無常だ。

と書かれていて、いわゆる「昔々ある所に」の「場所も地名も定かでない所」の「所」を植木氏は、「時」に代えた表現にすべきで「存在」とするのはおかしいというわけです。

 「有時」を最初に目にしたときに「有(あ)る」「有(も)つ」の「有」で、やまと言葉よりも中国語の「有(you)※oの上部にVの付く発音表記」であると思っていました。従って「存在」「位置する」「持っている」などの意味概念が頭に浮かんでいました。

 西田哲学では「有(あ)る」「有(も)つ」が多用されすべては「存在」と「持つ」の意味に使われています。

 なぜ「むかしむかし」にしてしまうのか不思議です。そして続く文章中に、

<植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)から>

 同じく道元は、『涅槃経』師子吼菩薩品の「悉有仏性」という言葉も読み替えている。もともとは「(一切衆生に)悉く仏性が有る」という意味だったが、道元は、『正法眼蔵』仏性の巻で「悉有は仏性なり」、すなわち「あらゆる存在は仏性である」と読んだ。生き物の「衆生」に限られていたのが、生き物以外のものにまで拡大された。主張している内容はいいことだけれども、それを言いたければ、何もこの言葉から論じなくてもいいのではないかという思いがつきまとう。

<以上同書p141>

ここでは「有」は存在であると解釈しています。結論的に植木氏は何を言いたいのかというと「道元の時間論は永遠性を見ているが、歴史性がない。それに対して、日蓮の時間論には歴史性があります。」という仏教学者の中村元先生が言及したという語りを強調したいわけです。

 ところがこの結論を紹介する経過の中で京都学派の哲学者の三木清先生の言葉を好意的評価で紹介しています。

 現在は力であり、未来は理想である。記録された過去は形骸に過ぎないものであろうが、我々の意識の中にある現実の過去は、現在の努力によって刻々に変化しつつある過去である。一瞬の現在に無限の過去を生かし、無限の未来の光を注ぐことによって、一瞬の現在はやがて永遠となるべきものである。(1917年「友情 ー 向陵生活回顧の一節」)

 個人的にこの言葉には納得しました。端的に禅的な時の存在が語られ京都学派らしさが出ていると思います。

 ここで思い出すのがフランクルの次の言葉です。

「もはや何ものもそれらに手出しすることはできません。ひとたび起ったこと、ひとたび過去になったことは、もはやこの世から消し去ることはできないのです。ひとたび過去になったこと、それは一回的かつ《永遠》過去になったのです」(V・E・フランクル著山田邦男監訳『意味への意志』春秋社p70から)

まさに仏教的な「永遠の今」の言及です。「歴史性」とは何か、西田哲学には歴史的行為という言葉がありましたが、歴史性がなければ意味なき行為の連続の存在しかありません。

 「有」という「存在」と「時」という「時間」すなわちハイデガーの『存在と時間』に「有時」という言葉が比較されることに植木氏は「無理な読み方」としていますが(p141)、その方が疑問です。

 ここまで来ると原始仏典の「一夜賢者の偈」を思い出すのが普通で、植木氏も上記の三木先生の一節の次に次のように書いています。

<植木雅俊著『仏教、本当の教え』(中公新書)から>

 原始仏典の『マッジマ・ニカーヤ』においても、釈尊は現在の重要性を次のように語って、

 過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。また未来は未だ到達していない。そして現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなく、それを知った人は、その境地を増大せしめよ。ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。(中村元訳)

 このように、仏教が志向したのは、<水遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを日蓮は主張しているのであろう。
 以上のことを踏まえると、成仏とは、この「我が身」を離れることではなく、今自分がいる「ここ」を離れるものでもない。要するに、「今」、「ここ」 にいる「我が身」に無作の仏を開き、具現するということである。
 以上が日蓮の時間論の一端であるが、これも読み替えによる実り豊かな結果である。

<以上同書p150>

 これについて否定するつもりは毛頭ないのですが、この後に上記の「道元の時間論は永遠性を見ているが、歴史性がない。それに対して、日蓮の時間論には歴史性があります」という話が続くのですが疑問を持ってしまうのです。

 ここでは具体的に言及しませんが植木氏は親鸞さんについても時間論ではありませんが恣意的な読み替えを批評します。

 仏教思想の根底に流れるものはみな同じだと思うのです。中でも時間論という現在、過去、未来の取り扱い認識は、すべて一緒だと思うのです。

 今朝どうしてこの話を書こうかと思ったのかということですが、ちくま学芸文庫から『阿含経典』(増谷文雄編訳)の第三巻が最近出版され、ここに上記の「南伝 中部経典 131 一夜賢者経」が書かれていて上記の恣意的読み替えの話を思い出したのです。

上記の植木氏の文章の中に、

>「今」、「ここ」 にいる「我が身」に無作の仏を開き、具現する。

言葉があります。これはどう見ても「自然(じねん)」の思想的背景の現れだと思うのです。

「みずから」然り。

「おのずから」然り。

すなわち「自ら然り」「自然」という存在の顕現です。法の現れです。そこには過去という体験の財産があるわけで、その一つ一つが現れの集積で今の様(ざま)になる。

 そこには耐え抜いたこともあれば避けたこともある。生れること自体が「生ること」、時々このことを言いますがやまと言葉には「ある」に「生(あ)る」という言い方があります。

 「生(あ)る」は、「神や天皇など神聖なものが出現する」ことを意味します。それが現在まで引き継がれている「生(う)まれる」なのです。

 時も瞬間瞬間に立ち現れます。すなわち生れ続けるわけです。それが「有る」という存在になるわけで、やまと言葉の「ある(有)」をこのような視点から思考すると「有るや無しや」が一元一体的であることがわかります。「あるところに」といわれると脳裏には自然と「リアルな証明」や「厳格な証明」で立証されるものではありませんが存在が浮かびます。

 一つ忘れていましたが、上記のことから経験ということも当然のように生まれることに重なることがわかります。

 「ある」というものが、何であるのか。「有る」「在る」「生る」「由る」と日本語の不思議でもあります。

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“グラン・ジュテ~私が跳んだ日「僧侶・歌手 やなせなな」”・魂を吐露するのは歌の女神

2012年09月30日 | 仏教

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 生を息吹するのは芸術、
 精神は詩人に求めよう、
 しかし魂を吐露するのは歌の女神。
         (シラー「音楽」)

ここで詠われている女神とはいかなる存在なのか、昨夜あるテレビ番組を観ていたところそこには相当という、相応(あいふさわ)しい等価の関係にある生きる女性がおりました。

 古代ギリシャ人は音楽をどのように見ていたのか、元東京芸術大学学長の山本正男先生は『美学への道』の中で次のように語っています。

<「音楽と人間の形成」から>

・・・・・「饗宴」の精神美の論では善と合一させられ、しかも身体美よりも精神実ははるかに優るとされたこと、さらにそこでは美への愛という概念に関し、全知者は満ちたりているゆえ求めず、また無知者は欠けたるを知らぬゆえに求めず、ただおのれの欠けたるを知り、満ちたりることを求める者のみが愛しうるのであり、それは全知者と無知者との中間に位する者と考えられ、そしてひとは美を自らが善にして幸福となる目的から求めるのであるとされたことを注目して、次の事実だけを指摘しうればと思う。すなわちふつうには芸術をおとしめた人とみなされるプラトンさえ、すくなくとも音楽についてその魂を吐露する働き、魂を語りつくすカを、師ソクラテスと同様に、魂の気づかいつまり人間の自己発見・自己形成の面から認めていたということでる。・・・・・

<以上p17>

 今とは事情が異なり、当時の社会風潮は芸術は社会を退廃させるものとして芸術家は追放されたのですが、音楽にかかわるものはその難を逃れました。

「およそ芸術は人間本来の模倣性と模倣されたものへの喜悦とのために、この世界の蓋然性または必然性に従い有りうべきもの、普遍的なものを、それぞれ色彩・形体・音声など異なった媒材で、あるいは律動・言葉・調和などの単独または複合の手段によって模倣表現し、効果として感情のカタルシスをもたらすのであると。・・・・」(同書p19)

 「カタルシス」とは、アリストテレスの『詩学』に使われる言葉で、精神の浄化、今ならば抑圧心理の解放、自己の苦悩を積極的に語ることで心のわだかまりを解消するという意味らしいのですが、「効果としての感情のカタルシス」には奏でるもの聴くもの相互のカタルシスがあるように思います。

 「魂を吐露するのは歌の女神」というシラーのこの言葉、最初目にしたときになぜか感動して憶えていたのです。

 ある番組とは何か。昨夜Eテレで“グラン・ジュテ~私が跳んだ日「僧侶・歌手 やなせなな」”という番組が放送されていました。今現在活躍し、跳躍する女性が登場する番組で、昨夜は浄土真宗の寺の僧侶で、シンガーソングライターでもある「やなせなな」さんの活躍姿が放送されていました。がんの闘病生活、そして音楽活動の挫折。人生の壁を乗り越え被災された東北地方の人々をはじめとして各地で、彼女は歌と法話で人々の心を癒し続けています。


(Eテレで“グラン・ジュテ~私が跳んだ日「僧侶・歌手 やなせなな」”から)

 一人のおばあさんはやなせさんに向かって手を合わせ「なむあみだぶつ」と唱えたそうです。その時やなせさんは、背後に仏の存在を感じたと話されていましたが、第三者の私から見ると主客未分の仏の存在が「拝まれる存在として」そこに現れ成っているように思いました。


(Eテレで“グラン・ジュテ~私が跳んだ日「僧侶・歌手 やなせなな」”から)

「死者への心づくし」「死者へのまごころ」そんな意味の歌もありました。カタルシスと言うと相対の内ですが、それをも超えた包まれの中にある人々がいます。超越的なものでは決してなく普通の中にある普遍的な姿です。

 魂を吐露する女神に人々は観照する。

 人びとは拝まれる存在でもある。拝むものはまた拝まれている。互いの励ましはそこにある。痛みがわかるよりもはるかに同化の存在、痛みを分かち合うよりもはるかに同化の存在、主客未分とはそういうことなのだと思う。

 法話の中で宗派のことばとして「倶会一処(くえいっしょ)」が紹介されていました。

 いつも一緒、弔いは「死者への心づくし」です。自分が悲しむ姿を死者は喜ばない、そこに態度価値としての生きる意味があります。ヴィクトール・フランクルは「運命を事実の次元から実存の次元へ移す」と表現します。

 これについて哲学者の山田邦男先生は『フランクル人生論 苦しみの中でこそ、あなたは輝く』(PHP)の中で、

 運命を「事実の次元から実存の次元に移す」とは、運命から逃避することではなく、それを正面からみずからに引き受けて能動的に生きることである。この能力は人間が「持っている」ものではなく、「誰かがゆりかごの中に入れてくれたもの」でもない。それはみずからの実存的決断によって獲得すべきものなのである。(p197)

と語っています。「正面からみずからに引き受けて能動的に生きることである。」とは「運命に飛び込め」と言う鈴木大拙先生の言葉が響きます。

 ここで注意したいのは「誰かがゆりかごの中に入れてくれたもの」の否定です。ここには「はたらき」否定するのではなく「誰か」という他者性の分別を否定するものです。

 飛び込まないとわからないものもある。苦しまないとわからないものもある。


(Eテレで“グラン・ジュテ~私が跳んだ日「僧侶・歌手 やなせなな」”から)

 勝手に思うのですがやなせななさんは、運命に飛び込んで、魂を吐露する女神になって歌い続け、拝まれる存在に飛躍しつつあるように思います。さらなる跳躍、飛躍を願ってやみません。とても心あたたまる番組でした。

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無我とは、生(あ)ること

2012年08月21日 | 仏教

[思考] ブログ村キーワード

 仏教学者の増谷文雄先生編訳の阿含経典の文庫本が出版されたという情報を得て、早々購入しました。阿含経典1「存在の法則(縁起)に関する経典群」「人間分析(五蘊)に関する経典群」パーリ語原典からの現代語訳と注解でちくま学芸文庫から出版されたものです。

 気になって仕方がない原始仏教典の経の実際を知りたいことがあるからです。哲学的な存在論にも通じるもので当然そこには私という存在や我というものの存在も含まれるものです。

 『幸福論』のアランの言葉に「思考することは信じることではない」があります。飛び込んでくる問い、自分の中からじわじわと表出してくる「なぜ」には、信を深める以前に如何ともしがたいものがあります。

 でも知りたいことは知るに徹する、何かの縁ですし、偶然は偶然ではないというユング的な無意識の叫びでもあるわけです。したがってそこにあるのは自己満足だけです。

 増谷先生の著書で『原初経典 阿含経』(筑摩書店)に「無我」ということについて語った章があり、そこに私の好きな法句経の自燈明、法燈明も示され「無我」ということについて語られ、阿含経の蘊品のなかの「蘊相応」第43の一部が引用されていました。

 どうしても「蘊相応」第43の全文が見たいものだ思っていつの間にか忘れていたところ、最近出版されたということで早々の購入するところとなった訳です。

 半月ほど前に、無我・非我の話を若干書きましたが「無我」という言葉にいつの間にか「我が無い」という軽薄な我(わ)が反応をしていることに気がつき悔い改めることになったわけです。

 短絡的に「無我」を忘我恍惚、無念無想の境地を想像してしまっている私ということです。そもそも実在論や実存の哲学的理解の中で「ある」「~である」の存在形態に「立ち現れ」という言葉に言及しながら、「在る無し」の二元的な解釈で「無我」を語るのですから実に情けないことです。

【増谷文雄】・・・・・ブッダの教えるところは、結局するところ、すぐれた自我を確立すべきことを教えに他ならないのであって、けっして自我の圧殺をすすめるようなものでもなく、また、自我の忘却を思考するようなものでもなかったからである。(『原初経典 阿含経』(筑摩書店p172)

という言葉を思い出したのです。増谷先生はそこで私の好きな法句経(ダンマパダ)の自燈明、法燈明

「自己のよりどころは自己のみである
自己の他にいかなる依処があろうか
自己の調御せられたるとき
人は得がたい依処をうるのである」

を引用しながらブッダは「けっして自我を圧殺せよとも、自己を放棄せよとも語ってはいない。」いかにして見事な人間形成を成し遂げるか、ということになるわけです。増谷先生は次のように語っています。

【増谷文雄】そのためには、まず冷静に自己のありようを観察せよとブッダは教える。その冷静にして透徹した観察の結果が、「無我」ということばをもって表現せられているのである。「無我」(amatta)ということばは、「我」(attan)に否定をあらわす接頭‘a’を付してなった語である。それによって否定されているものは、当時の常識の世界ならびに思想の世界において支配的であった自我に関する固定的な観念である。(上記書に同じ)

そしてブッダの言葉、

 「無常、かつ、苦にして、変易するものならば、それを観察して、こは我所なり、こは我なり、こは我体なりとなすことをうるであろうか」
 
という比丘たちへの問いをこの経から引用し解説しているのです。
< 31 白洲 南伝 相応部経典 二二、四三、白洲/漢訳 雑阿含経 二、四、十六比丘>

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴアツティー(舎衛城)のジエータ(祗陀)林なるアナータピン
ディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。
 「比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依処として、他を依処とせず、法を洲と し、法を依処として、他を依処とせずして住するがよい。
 比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依処として、他を依処とせず、法を洲と し、法を依処として、他を依処とせずして任し、事の根元にまで立ちもどつて観察する がよい、〈歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によっ て起るのであるか)と。
 比丘たちよ、では、歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起るのであろうか。
 比丘たちよ、ここに、いまだ教えを開かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず。あるいは、いまだ、善き人を見ず、善き人の法を知らず、善き人の法を行ぜず。だから、彼らは、色(肉体)はわれ我である、われは色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。
だがしかし、色は移ろい変る。色が移ろい変るから、彼らに歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずる、のである。 
 だから、彼らは、受(感覚)は我である、われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変る。受が移ろい変るから、彼らに、欺き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
 
 彼らは、想(表象)は我である、・・・・・
 彼らは、行(意志) は我である、・・・・・
 彼らは、識(意識)は我である、われは識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識のなかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変る。識が移ろい変るから、彼らに、歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、
貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変るものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に任する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変るものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に任する。そして、安楽に任する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。
 
 比丘たちよ、また想において、・・・・・
 比丘たちよ、また行において、・・・・・
 また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変易するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変るものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、欺き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に任する。そして、安楽に住する比丘は、まさにしく涅槃にいたれる者と称せられる」

<以上『阿含経1』増谷文雄編訳 ちくま学芸文庫 p445~p448>

「無常なること」「変易するもの」「移ろい変るもの」という言葉に素人の勝手な解釈なのですが、立ち現れて「ある」だけのこと、を思うのです。それを常住し変わらない私があると思い、固執した囚われに迷いが生まれるわけで、そもそも立ち現れの連続がそこには「ある」で、我は非連続ということの「無我」で「我で非ず」ではなく固定した継続する「我は無い」なのだと思うわけです。

 したがって非我ではなく無我である、であると自問自答し、「生(あ)る」という日本語も本当に一致することに感激するのです。

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原始仏教典中村元選書の「犀の角」を読んでみた話

2012年06月11日 | 仏教

 最近は哲学における「存在」に熱中していました。せっかくの日曜日、曇り空でしたが市内の近代美術館のバラ園が今見所ですとの話を聞き、さっそく見に行きました。

 さまざまな色のバラが、種類の異なるバラが咲き乱れ甘いバラの香りが漂っていました。

 自宅に帰り久しぶりに仏教サイトを見ると原始仏教典のスッタニパータの「犀の角のようにただ独り歩め」の話が書かれていました。仏教学者の中村元先生の訳の話について書かれてて、本当かなぁという話なので分厚い中村選書の「犀の角のようにただ独り歩め」の35-37番を見てみました。第6章「慈悲」に書かれ次のように解説されていました。

<中村元選集[決定版]第15巻『原始仏教の思想』Ⅰ春秋社>

・・・・このように心が柔和で慈しみ深くなるためには、心の平静をたもっていなければならないのであるが、心の平静をたもつためには、他人との交わりを避け、独りでいなければならぬという主張が現われた。犀の角のようにただ独りで歩めというのである。

 『あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

 交わりをしたならば愛情(sneha) が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍の生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 朋友・親友にあわれみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。』(Sn.35-37)

「独り修行する」ということはバラモン教の系統の叙事詩などにおいて大いに称讃されていたが、それと同じものを初期の仏教も受けていたのである。

 しかしこのような生きかたは、ただ自分一個人だけの心の平静を求めているにすぎない。他の生きものを害するなかれといっても、それは自分の心の平和が乱されるから害しないというだけである。ところが慈しみは他の生存者を前提として必要としている。

だからこの二つの立場は理論的に矛盾する。最初期にはこの矛盾がどれだけ自覚されていたか不明であるが、のちにははっきり自覚された。

そうして独居を説く右のような一連の詩句は独覚(paccekabuddha) のための道を説いたものであると解せられた。独覚とは他人とも交わらず、他人を導くこともなく、ただ独りで修行し、さとる人である。これに対して慈しみの実践を説く人々は菩薩であると考えられた。

 この菩薩の道の先駆的思想がすでにかなり古い時代から表明されている。それは積極的に他人を愛することである。この慈悲の精神を徹底させると、敵というものがなくなる。とくに己が敵をも慈しまねばならぬということさえも主張された。長老サーリプツタの言として次のように伝えられている。・・・・・以下略(サーリプッタ言葉が続きます)

<以上同書p721~p722>

そして注釈書のは次のようにしっかりと説明が掲載されています。

<註釈>
(21)犀の角---原文には khaggavisana とあるが、原語についてみると、khagga(=Skt・khaadga)は、一、刀、犀(rhinoceros)という意味で、visana は角であるから、両者を合すると、「犀の角」となる。

「犀の角」の譬喩によって「独り歩む修行者」「独りさとった人」(paccekabuddha)の心境、生活を述べているのである。「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただ独りでも、自分の確信にしたがって暮らすようにせよ、の意である。

 本書のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えられる生活をしている独覚」に相当する。

 仏教では、後世になると、三つの実践法(三乗)があるという。

 「声開」(釈専の教えを聞いて忠実に実践する人)
 「独覚」(山にこもって独りでさとりを開く人)
 「菩薩」(人々を救おうという誓願を起こして実践する人)

である。そのうちで、「独覚」には二種類ある。

 一、部行独覚(仲間を組んで修行する独覚。『倶舎論』第一二巻、八丁裏。「部行」(vargacarin,AHBH.p.183,ll.8,9)とは、仲間をつくって修行することである)。

 二、麟角喩独覚(つねに独りでいて伴侶のいない独覚。麟が一つの角のみをもっていることに喩えていう)。「麟角喩」とは「麟の角(一本しかない)に喩えられる」の意。この場合麟とは犀のことをいったのだと考えられる(khadga-visana-kalpa,AKBH.183,l.15)。角が一本しかないからである。では、犀(kahadga)のことを、なぜ漢訳者は「麒麟」と訳したのか? 想像が許されるならば、シナ人には犀はあまり知られておらず、むしろ麒麟のほうがなじみが多かったからではなかろうか。

 ところで、いま第三五詩以下に説かれているのは、「独りでさとる人」の実践である、とバーリ文の註釈は解する。----ettha kaci gatha tena tena paccekasambuddhena putthena vutta kaci aputthena attano abhisamayanurupam udanam yeva udanentena,・・・・・(Pj.vol.I,p.46).ここで「独りでさとった人」(paccekasambuddha)というのは、最初期の仏教の理想である。後代の仏教教学で考えた「独覚」とはかならずしも一致しない。

これを略して paccekabuddha ともいう(p.52,l.12)。また paccekabodhisatta なるものをも考えている(p.52,l.12;p.58,l.20)。paccekabodhisatta なるものは辞書(PTSD.etc.)には出ていない。

 西洋でも、一角獣というものは、西洋の精神文化を代表するような神話的存在であつた。西洋では Strabon 以来、犀に関する記述があるといって、ノイマンは西洋の古代文献のなかから犀に関する記述を集めている。この伝統は最近の西洋でもまだ生きているようである。アメリカのある童話(岩波少年文庫)によると、ナルニア国では一角の犀が重要な意義をもっている。

 なお日本では、犀は麒麟として描かれている、とノイマンはいう。『倶舎論』などに出てくる「麟角喩」のことをいうのであろうか。インドの伝統を遡ると、インダス文明の印章のうちに一角獣のすがたが表現されている。
 
<以上>

 「犀の角」なつかしい言葉に再度確認することができました。そうだよなこういう話だったよなぁ。学ぶということは難しい話です。

 ということで、ただ引用だけにします。言語部分については表記に制限があります。日本語だけを参考にしてください。


人の人たる道・慈雲尊者・十善の教え

2012年06月06日 | 仏教

 先週の日曜日(3日)のEテレ「こころの時代」は江戸時代1700年代の真言密教僧の慈雲尊者の教えに基づくお話でした。お話されたのは福岡県徳永にある心空院の御住職小金丸泰仙さんで私より若干若い方でした。高校時代に禅道場に通い高野山大学では密教を学ばれたということで、密教のみならず諸宗派の宗派を越えたお話でした。

 慈雲尊者という方がそもそも、「釈尊在世には、宗派もわかれず、同一仏法にて一味和合であり、それ以後、宗派がわかれても、諸宗の僧は戒律をまもり、和合して同じところに住んでいた」と語るような人で、「一相の仏弟子のうち禅定の修行をして、心地を発明することをこころがけるものを禅宗となづける。一相の仏弟子のうち、三密瑜伽の行を精修するものを真言陀羅尼宗となづける。一相の仏弟子のうち華厳、法華円頓の妙旨を修学するものを教者となづける。持犯開遮などを精詳にするものを律宗となづける。倶舎、唯識を修学するものを法相宗となづける。浄土宗というものもそれに準じて考えよ。みなことごとく正法である。」と「宗派」を超える「人の人たる道」「人となる道」を説いた人でした。

「人となる道」というとそうなるようにしなさいと言う教えのように感じますが、
 
人天の法は
生死の法じゃ
仏法のみあって
生死解脱の法じゃ。
是を知らせたい
ものじゃ。
(慈雲尊者法語集)

という言葉が番組の冒頭で語られましたが、生かされてある者の眼前に既にあり、人はその只中の現実存在であると言っているように思います。

心自不知心の
 こころをよめる

心とも
知らぬこころを
いつのまに
我が心とや
おもひ染めけむ

(慈雲尊者和歌集)

という尊者のの和歌なども紹介されていました。人のこころは刹那生滅的にうつろい行く有(あ)るもので、人はそれを有(も)つ者なんだと思います。

だから十善を習慣づけ「人の人たる道」を歩み通せということになるのだと思います。

十善法語に言う「十善」とは、

第一、慈悲、不殺生戒(あわれみぶかい心をもち、生命を損なわない)

第二、高行、不偸盗戒(かたく節操をまもり、ひとの領分を侵さない)

第三、浄潔、不邪婬戒(身をきよらかにして、よこしまなことをしない)

第四、正直、不妄語戒(心を正直にして、嘘をつかない)

第五、尊尚、不綺語戒(志を高くかかげて、ことばを飾らない)

第六、柔順、不悪口戒(柔軟な心をもち、ひとをののしらない)

第七、交友、不両舌戒(交わりをたいせつにし、仲間われをおこさせない)

第八、知足、不貪欲戒(分限をわきまえ、むさぼらない)

第九、忍辱、不瞋恚戒(よく忍耐して、腹をたてない)

第十、正智、不邪見戒(正しい智恵にしたがい、偏見をもたない)

これを毎日忘れずに、が大切に思う。

番組内容を話したわけではありませんが、小金丸泰仙住職の<こころの時代~宗教・人生~「安らぎの世界へ~慈雲尊者の言葉から~」>という番組、ゆっくり時間をかけて文に起したいと思います。

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信州栗尾満願寺のツツジは5月末が見ごろ

2012年05月15日 | 仏教

 大型連休の時のような車の混雑もない静かな安曇野山麓線。先週の日曜日に山全体を極楽浄土に見立てた信濃三十三観音霊場第二十六番札所で安曇野市穂高牧地籍にある真言宗栗尾山満願寺満願寺へ行ってきました。

この寺はツツジ園で有名なお寺で時々このブログでも紹介しています。
 
満願寺のつつじ[2009年05月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0f8c2c451f75b67b4683fbc4aef299ba
 
 
あの十返舎一九が訪れた古刹で、
 
「安曇野の文学 十返舎一九がみた安曇野」展・紅葉[2010年11月08日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b583b2a2ae66bb796dd2cc91f0282797

に書きましたが、著書『御法花(みのりのはな)』に、

 信州栗尾満願寺(まんがんじ)は、大同2年、田村麿の草創とかや。予去秋同国松本にいたり、此御山に詣でたりに大厦高楼雲(たいかかうろう)に聳へ、松杉繁して其荘厳さながら仏世の残膏をあらはし、実に人我を醒すに絶たり。境内を巡拝せしに、弥陀次郎の墓といふあり。案内せしもの問ずがたりに其来由をかたる。しかれども土俗の方言なれば、強(あなが)ち信用するに足らずといへども、観音霊応著(いちじる)き事は、粗人口にありて、予が聞書せし事甚多し。それが中に桔梗が原の友廻しといへる野干(きつね)の霊妙なるを附会せしあり。本語は小岩獄の藩中に父の仇敵(しうてき)を討たる保高何某の孝談也。誠に希世の賜児童を導くの階梯(かいてい)なればと、とりあへず編りて出しぬ。
 文化丙子孟春
                          十返舎一九誌
 
と書かれています。ツツジ園でも有名な寺でわたしの自宅とほぼ同じ標高にあり、自宅のツツジが咲き始めたのでいかがなものかと出かけたわけです。

 どうも年々咲く時期が遅れているように思います。全く蕾で咲く気配もありませんでした。したがって写真もありません。

 この日は巡礼の方々ですか、20人ほど境内にある地獄極楽図の解説を受けていました。






初めて見る光景で専門の解説する方がおられて絵解きをしておりました。



 平均年齢というよりもほとんど60歳以上の方々、「絵図に描かれた仏に向って手を合わす白装束の翁夫婦が今の皆様方です。」という声が聞こえ頷く姿が印象的でした。





 ツツジは5月末ごろから6月のはじめにかけてが見ごろになると思います。その頃にもう一度訪れたいと思います。

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業熟体にダンマが顕現・黄金の釘

2011年11月22日 | 仏教

[思考] ブログ村キーワード

 過去のブログで近代のインド仏教の再構築者であるアンベードカル博士について書かれた『ブッダとそのダンマ』(山際素男訳 光文社新書)という本の中から、次の言葉を紹介し「輪廻転生」について書いたことがあります。

<転生のない再生>
 
 ギリシャ人のミリンダ王は尋ねた。
 
「ブッダは再生を信じたのか?」

ナーガセーナは然りと答えた。

「それは矛盾していないか?」

否、とナーガセーナはいった。

「魂がなくても再生があるのか?」

「もちろんです」

「どうしてあうるのか?」

「たとえば王よ、灯火から灯火に日を移せば転生というでしょうか?」

「そんなことはもちろんいわない」

「霊魂のない再生とはそういうものです」

「もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ」

「子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ」

「記憶しているとも」

「その詩句は教師から転生したものですか?」

「もちろんそうではない」

「転生のない再生とはそのようなものです、王よ」
 
<以上>

 アンベードカル博士は「民族的な恥部、古代権力者の異民族に対する支配制度からの解放」を念願しこの「転生のない再生」を自分なりの解釈のもとで語り「カースト制度」を乗り越えようと考えていました。

 「ダンマ」というとすぐに思い出される仏教学者がおられます。玉城康四郎という既に亡くなられておられますが、東京大学名誉教授で晩年は「業熟体にダンマが顕現」という言葉を繰り返し熱心に語られていました。

 平成6年2月6日のNHK教育テレビ「こころの時代~人生・宗教~」で「仏教の根底にあるもの 」で玉城康四郎先生の仏教観というよりも宗教観を知ることができます。
 
いつもお世話になるサイトです。
 
 こころの時代へようこそ
 http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-mokuji.htm

 仏教の根底にあるもの (玉城康四郎)
 http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-286.htm

 専門書ではない一般向けの玉城先生の仏教の解説本としては『ブッダの世界』(NHKブックス)、『仏教の思想』(法蔵館)があります。

 基本的な語りは次の言葉になります。

 「全人格的思惟は必然的に目覚めを志向している。釈迦がブッダに転成した根拠であり、仏教の起源である。」

「業熟体にダンマが顕現」

「業熟体というのは、限りない昔からうまれかわり死にかわり生まれかわりして、輪廻転生をつづけている私自身、同時にその私自身が、生きとして生けるもの、ありとあらゆるものとまじわっている宇宙共同体である。その私自身ならびに共同体に、ダンマ・如来、いいかえれば形のないいのちそのものが顕わになって、滲透し通徹するしつづけていく。それは現在もはたらきつづけ未来永劫にはたらいて息(や)まないものである。」

 「楚語のダンマはダルマとも発音し同義語である。ダンマは形のない命、あるいは如来とも云う」

素人にはわかりにくいのですが、上記の「こころの時代」サイトと『ブッダの世界』(NHKブックス)の最後章「黄金の釘」を読まれると排中律な話なので結論的には輪廻転生は「答えを得る命題」ではなく「応える命題」として語っています。

この章は、

1 仏道の基本

2 日本仏教の本質

3 普遍の道

で書かれていて、今朝はこの中から「日本仏教の本質」から「仏道の本流」について書かれた部分を紹介したいと思います。

< 仏道の本流 >

 話もいよいよ最後となった0いまふりかえってみて、いったい、われわれは何を学んだのであろうか。
 仏教の多面的で複雑な教えの中から、できるだけ重要なものを分かりやすい形で語ってきたから、さらにそれを要約するということはむずかしい。しかし、仏道の流れの筋だけを辿ってみると、ほぼ次のようなものとなろう。

 原始経典では、ダンマ・如来に包徹されている衆生は、すべて仏の子であると説かれている。それが大乗経典の『法華経』で、全世界は仏の所有であり、衆生は仏の子である、と大きなスケールで展開した。また、『無量寿経』においても、阿弥陀仏の本願力によってすでに衆生はすべて救われ尽くしていることが明らかである。このようにして『華厳経』から『大日経』に及んで、全宇宙も一切の衆生もそのままが仏の世界に帰着するに至った。いのちそのものが全宇宙を包摂していることは原始経典から『大日経』 に至るまで一貫していることが知られる。

 しかるに、われわれ衆生が直面している世界は、苦しみ、悩み、争い、闘い、しばしば地獄・餓鬼・修羅のすがたを呈してきて、今日に至っている。われわれはこうした状況の中で、生まれ、成育し、活動し、やがて老いて死ぬということを、はるか以前から繰り返してきた。もしこれに尽きるとしたら、それは、夢、幻のごとく、空しく消え果てる外はないであろう。

 これは、いわば表舞台の世界である。ブッダは、.この表舞台をびっしりと裏打ちしている舞台裏のいのちを八十年の生涯にわたって説き明かしてきた。ブッダの説法は、表舞台への舞台裏からのメッセージである。裏から表へのいのちの訪れである。われわれは、このメッセージを学ぶことによって、現に表舞台にいる私自身が裏からのいのちに通徹されているという事実を、明らかに領く

 いのちに貫かれ、いのちに安らいながら、表舞台において与えられている自分の務めを心おきなく果たしていく。やがて命尽きれば、さらに生まれかわり、死にかわり、一切の衆生とともどもに「倶(とも)に一処に会(え)する」、仏国土の一処を目当てに、永久にはたらきつづけていくことを決意する。

これこそ、本書で学んできた最大のポイントではあるまいか。

<以上p208~p210から>

そしてこの最終章は「黄金の釘」となっています。「普遍の道」の中で与謝野昌子の次の一首をあげています。

 劫初(ごうしょ)より つくりいとなむ殿堂に 
 われも黄金(こがね)の釘ひとつ打つ

玉城先生は「芸術の殿堂について詠っている」ということを承知で、

 ・・・・この一首そのままが未来に向かうわれわれの努めを象徴しているようである。

と最後を閉じています。

くり返しますが私は「輪廻転生」は有るのか無いのかの答えを求めるものではなく「応えを自ら学ぶ」ことだと思っています。

「業熟体にダンマが顕現」

玉城先生はこの言葉を晩年くり返したのか?

歳とともに最近は納得してきました。

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