Sightsong

自縄自縛日記

藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』

2018-03-11 09:55:55 | 関東

藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』(実業之日本社、2016年)を読む。

「ヤミ市」とは、ここでは、敗戦直後から数年の間全国各地に生じた青空市場・自由市場を指している。業態は多様であり、物品の調達ルートも違法なものを含め多様であり、土地の権利も曖昧であり、上からの統制は効かなかった。しかし1949年、東京都、警視庁、消防庁などが合同で撤去方針を出す。その結果、1950年前後に、当局が代替地をあてがい、多くは狭くて不便な横丁などに店舗を開いた。

その名残が、現在、渋い飲み屋街や街並みとなっている。自分が惹かれるところもそんな場であり、なるほどなと納得することも多い。

谷中銀座から夕焼けだんだんをのぼったあたりにある初音小路は、それが綺麗に残された形かもしれない。沖縄料理の「あさと」は最高だったが、近くに新しいバーなんかもできて盛り上がっていて、また行こうと思っている。

高架下に発展した横丁は、それと比較すると、どうしても暗闇の雰囲気が付きまとう。アメ横はもちろん好きだが、スケールが大きすぎてためらってしまい、あまり落ち着けない(万双の鞄か財布がいつか欲しい)。神田も職場から近いのにまだまだ通り過ぎるばかり。神田小路には近々立ち寄ってみようと思っているが、一方の今川小路はつい先日潰されてしまった。間に合わなかった。

横丁だけではない。新橋では代替地がビルの中でもあった。ニュー新橋ビルも、新橋駅前ビルふたつもそうであり、入ると時代を飛び越えてくらくらする。新橋駅前ビル2号館の店舗のコマ割りはヤミ市時代そのものだという。東銀座の三原橋もそのカテゴリーに入るかもしれない。シネパトスが閉館してもう5年になろうとしている(結局最後に観たのは、大島渚『戦場のメリークリスマス』だった)。

大きなビルではなく細長い長屋タイプに押し込められたタイプもある。バングラデシュ人が経営している「アジアカレーハウス」、よく見ると、そんなニュー錦糸町ビルの一部ではないか。飯田橋の千代田ビル街には、うまいワンタンメンを出している「たかはし」(四谷の「こうや」からの暖簾分け)が入っていて、雰囲気も変わっているが、ここもそうなのだった。

愛しの蒲田川崎についても言及されている(大森区と蒲田区だから大田区なのか!)。蒲田では西口のマーケットが、西口商店街やバーボンロードへと発展していった。川崎の東口を出て北に少し歩くと、朝8時半からおっちゃんたちが酒を飲んでいる最高の丸大ホールがあり、その先に「どぶろく横丁」がある(新宿の「思い出横丁」などとは異なり、そんな看板などはなく寂れている)。先日「三好苑」で安くてうまいランチを食べたばかりだが、やはり、そのようにして出来た一角なのであり、在日コリアンの人々を押し込める差別政策でもあったようだ(三好苑の方への聞き書きがあった)。

渋谷であればやはり道玄坂のあたりである。やくざと結託した警察と在日台湾人との間で起きた衝突の渋谷事件(1946年)(>> 『旗、越境者と無法地帯』@トーキョーワンダーサイト本郷)があったのだが、本書には、その前後の経緯が書かれている。これは、ニュー新橋ビルのあった新生マーケットでの両者の対立を引き継いで起きたものであった。また、外国籍の勢力が弱体化したあとに伸長した勢力が、学生やくざ時代の安藤昇(!)だったという。

それから最近よく足を運ぶ板橋。駅前には細い路地がかなり残っており、古い居酒屋も新しいいいお店もある。さらに赤羽、十条、船橋、森下・・・。これでは身体がいくつあっても足りない。


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2 コメント

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Unknown (24wacky)
2018-03-11 19:26:16
この本から大井町で飲んでみたくなりました。いずれ行きましょう。
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大井町 (齊藤)
2018-03-11 20:39:27
いいですねー。大井町は未踏の地です。ぜひ近々。
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