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自縄自縛日記

「アジアにめざめたら」@東京国立近代美術館

2018-10-16 22:07:18 | アート・映画

東京国立近代美術館で「アジアにめざめたら」展。

韓国、台湾、中国、東南アジア、日本における1960年代以降のアートが展示されている。

もちろんここには政治的な抑圧に対する表現も、直接的な抵抗も生々しくあらわれている。インドでの1970年代のインディラ・ガンディーによる強権政治。フィリピンにおける1972-81年のマルコス独裁。韓国における長い軍政。第二次天安門事件。1965年のインドネシアにおけるスハルトのクーデター。過去の話だと線を引くことができないためになおさら今でも生々しい。そういった背景を切り離して作品として評価、という言説はバカバカしくナンセンスである。

イ・スンテク(韓国)は燃えたキャンバスを川に浮かべたり、石を縛ったその部分をえぐらせたりと、土俗的でもあり、神がかってもいて印象的。イ・ガンソ(韓国)は、ギャラリー内を酒場にするアクションを行い、佇まいが整った場をいきなり猥雑なものにしており、面白い。

アマンダ・ヘン(シンガポール)は、1人2言語政策(英語、中国語)により存在を問われる<私>を、自分の顔に文字を描くことで表現している。日本において日本語(それも標準語)を強制されることをアートにしたものと言えばなんだろう。タン・ダウ(シンガポール)は、張子の犀の周囲に崔印のボトルをぐるりぐるりと配しており、その清潔な商品感とグロテスクさの共存がいまだにインパクトを持っている。

木版画という表現手段も興味深い。1950年代のシンガポールにおける木版画運動は、魯迅が1930年代に抗日運動の媒体として育てた木刻運動をそのルーツとするのだという。1980年の光州事件を版画としたホン・ソンダムの作品群もまた力強い。かれは逃亡生活においてスプーンも道具として使い、直接的な抵抗を行った(「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」@Nuisance Galerie『民衆/美術―版画と社会運動』@福岡アジア美術館)。それだけではない。魯迅やケーテ・コルヴィッツへの共鳴を介して、沖縄、韓国、中国がつながっている(『沖縄でコルヴィッツと出会う』 コルヴィッツ、沖縄、北京、杭州、ソウル、光州)。このような視線は重要だ。

沖縄については、大阪のプレイという集団が、南大東島においてトロッコを人力で動かし一周するというプロジェクトを行っている(1974年)。もちろん糖業を通じた日本による収奪のリプレイである。それは苦痛のリプレイでもあり、山城知佳子の「アーサ女」などと通じるところを感じもした。時代も視線のヴェクトルも異なるのだけれど。


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