Sightsong

自縄自縛日記

「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」@Nuisance Galerie

2015-06-07 09:36:18 | アート・映画

九段下(水道橋?神保町?)のギャラリーNuisance Galerieに足を運び、「FUKUSHIMAと壷井明 無主物」展とギャラリートーク。このギャラリーにははじめて行ったのだが、実は、ライヴハウス「視聴室」の真上である。

壷井明さんは、近所の材木店で調達するという長方形の木の板を3枚セットにして、「3・11」後の福島を描いている。

ささくれたような太目の線、荒涼たる茶色。あえて人物の個性を消したような描き方によって、却って、事態を大きな物語で糊塗しようとする意図を強く否定しているようだ。仮設住宅も除染後の廃棄物も、否定しようもなく「そこにある」。たたずむ人の影は地面に長くのび、存在を消すことはできない。そのような強いメッセージ性を持つ作品群である。

もともとこの展覧会のことを、編集者のHさんのご案内で知ったのだが、その後、ライヴ会場で隣に座っておられた安田哲さん(ご本人は強く謙遜するが映像作家)が企画を行っているというのだった。その安田さんは、壷井さんが銀座や渋谷など目立つ場所にこれらの絵を突然並べるという活動を映像に残している。このあとのトークショーで明らかになるのだが、それは、アートに社会との関わりを持たせ、コミュニケーションを生み出すものでもあった。

トークショーには、丸木美術館の学芸員である岡村幸宣さんが登場。東京新聞での連載をまとめた『非核芸術案内』(岩波ブックレット)という著作もある方である。

トークショーは、壷井さんが岡村さんに質問する形ですすめられた。(文責は当方にあります)

丸木夫妻(丸木位里、丸木俊)による「原爆の図」(丸木美術館所蔵)は15部から成る。
○敗戦後、GHQにより、原爆の人的な被害を示すような印刷物は強く検閲された。それゆえに、丸木夫妻は、検閲の対象外である絵の形で、公民館や学校や駅といった場所で展示し、原爆の実態を伝える方法を選んだ。1作品につき8本の掛け軸でできているが、それには、持ち運びに便利なように、また何かあったときにすぐに持ち去ることができるようにという目的があった。
○丸木夫妻は、原爆投下のあとで位里さんの母親・スマさんのいる広島に入り、1948年夏に、その絵を描こうと決め、1950年、第一作が完成。これには、スマさんの証言が少なからず反映されている。なお、当時原爆をテーマに絵を描いた人もいたが、その多くは「当たり障りのない風景」のようなものだった。
○東京都美術館での「日本アンデパンダン展」に展示したところ、絵の前には人だかりができて大変な反響を呼んだ。そしてその1か月後に個展。絵は検閲対象外ゆえ、当局からの圧力はなかった(そのあたりはきっちりとしていた)。
○(※原爆の情報が出てこない中でその真実性についてどう受け止められたのか、とわたしが質問したところ)確かに「大げさではないのか」という反応もあった。しかし、広島を体験した人も少なからずいて、実態がまったく知られていないわけではなかった。
○美術館から社会へ、街の中へ出ていくべきだとの声があり、多くの画廊で展示されるようになっていった。デパートも人の目に触れる場所として重要だった。三越は日本橋の本店が展示に踏み切れず、銀座店を使った。1951年には、京大主催の「総合原爆展」でも展示された。
○1952年、再独立。原爆の情報が「ブーム」のように流出した。新藤兼人『原爆の子』も同年の映画である。
○核兵器廃止を求める運動「ストックホルム・アピール」(1950-)のための署名が、日本でも多く集められた。そこには、「原爆の図」の貢献があった。それにより、丸木夫妻は世界平和評議会より国際平和賞ゴールド・メダルを受ける。その授賞式出席にあわせて、丸木俊は「原爆の図」を持参。本人の帰国後も、作品は欧州を巡回した。
○さて「3・11」後、目黒区美術館において「原爆を視る1945-1970」展が中止となった。この自主規制は、戦後GHQの検閲が終わっても行われた日本の特質のようなものではないか。(ギャラリー古藤での「表現の不自由」展にも言及)
○オバマ政権が誕生し、これで「原爆の図」をアメリカで展示できる追い風になるのではないかと考え、ずっとそれを進めている人がいる。しかし、大きな美術館からはことごとく断られた(※会場からその理由を問う質問があり、それに対しては、スケジュール、予算、やる気の問題だろうとのこと)。アメリカでは、原爆がアートとして成立しうるのかという見方が根強くある。ところが、2013年にオリバー・ストーンとともにピーター・カズニックが来日し、それをきっかけに、カズニック氏が教授を務めるアメリカン大学での展示が決まった(2015年6月13日~)。アメリカでは数か所巡回する予定(ブルックリンの「Pioneer Works」を含む)。
○(※ブルックリンのMOMA PS1の「ゼロ・トレランス」展において、Chim↑Pomが「3・11」後の福島で撮った作品を観たが、アメリカにおける今のこうした作品の受容を訊いたところ)Chim↑Pomは丸木夫妻を先駆者として捉えている。Chim↑Pomが企画したワタリウムでの展覧会でも、丸木夫妻が作品を持ち歩くために使った箱を展示した。
○すなわち、「プロテストからコミュニケーションへ」。壷井さんは、自身の作品を繁華街や目立つ場所に持っていき、突然展示した。摩擦を引き起こす可能性もあったが、実は、対話というコミュニケーションも成立した。このことは、日本における「自主規制」へのアンチテーゼとして捉えることができるのではないか。
○近代アートは自我や内面を提示する傾向があるが、一方、壷井さんのアートは社会とのつながりを重視しており、また、登場人物も誰という特定をしていない。1950年代を知らないアーティストにして実に珍しい。逆に言えば、一般的ではないため広くウケない。
○運動の持続は難しいものだろう。「3・11」後、まだ5年も経っていないのに、社会からすでに「3・11」は過去のこととして忘れされそうになっている。しかし、「原爆の図」の第一作の完成は、投下から5年後であった。
○(※壷井さん曰く)自分の作品のなかに、福島で大きなテレビを視ながら風船を手放す人と、手放さず自分の子にはマスクをさせている人とを登場させた。自身でどのように判断するのか、どちら側の人になるのか。
○(※表現の方法はどのように選んだのかという会場からの質問に対して、壷井さん曰く)近所に材木店があって、1枚500円と安かったから板を選んだに過ぎない。運送料も安い。洪成潭(ホン・ソンダム)さんは、光州事件(1980年)をテーマとした版画を作るため、逃亡生活のなかでスプーンさえ使った。要は、何を使ってもいいのだ。

●参照
『魯迅』、丸木位里・丸木俊二人展
丸木美術館の宮良瑛子展
過剰が嬉しい 『けとばし山のおてんば画家 大道あや展』
佐喜眞道夫『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』
『民衆/美術―版画と社会運動』@福岡アジア美術館
金城実彫刻展『なまぬるい奴は鬼でも喰わない』(丸木美術館にも巡回)
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』(丸木美術館にも巡回)
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」(丸木美術館にも巡回)
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(トークの中でも言及)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク

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