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自縄自縛日記

大野光明『沖縄闘争の時代 1960/70』

2014-11-15 07:41:43 | 沖縄

大野光明『沖縄闘争の時代 1960/70』(人文書院、2014年)を読む。

先日、沖縄問題に関わる友人から、沖縄とヤマトとの間の距離感や温度差のようなものについてどう考えるのかと訊かれ(おそらくそういうことだった)、当事者性ということがずっと気になっているのだと答えた。運動のなかでは、現場に身を置かないことには発言する権利はないとするスタンスがあるように見える。そのことが、一方では、ウチナーンチュになりきる者を生み、一方では、結局のところよそ者には本当のところはわからないとするシニカルな見方をも生みだす。しかし、しょせん他者は他者でしかあり得ない、それを前提として視野と感情のバウンダリを広げていくべきものではないのか、と。

沖縄の施政権返還(1972年)をはさんだ60年代・70年代のを追った本書を読むと、上のような問題意識は、当時すでに提起され、共有され、議論されていたのだということがわかる。それはつまり、<沖縄闘争>とは、「お前は何者か」という問いを他者にも自分自身にもたえず投げかけなければならないものでもあったのだろう。そのような時空間において、さまざまな運動が、思想という痕跡を残している。

1940年代後半の地上戦において多大な犠牲を被ったあと、沖縄は、一転して、冷戦(共産陣営への楔として)、熱戦(ベトナムへの出撃基地として)における積極的な機能を負わされてしまう。そのことへの視線と、沖縄・ヤマト・アメリカという垣根を越えた共鳴と連帯。

それだけではない。他者意識と当事者意識。ヤマトの下に置かれた植民地としての認識(「在日沖縄人」)と、他国での植民地主義への闘いへの共鳴。島唄や場末文化に自律性・自立性を見出す活動(竹中労)。

既にやり尽くされ終わった議論ではなく、たえず立ち戻らなければならない議論である。確かに再認識されるべき活動と思想とが、本書には集められている。 

●参照
鈴木邦男『竹中労』
小浜司『島唄レコード百花繚乱―嘉手苅林昌とその時代』
大木晴子+鈴木一誌『1969 新宿西口地下広場』 


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