先ごろ亡くなった原田正純氏の本、『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』(岩波書店、2007年)を読む。医師として、また研究者として、水俣病に取り組んだ人である。
氏は、このように書く。水俣病が発病したから差別が起こったのではない。差別のあるところに公害が起こるのだ、と。まさに水俣病は、血の通わない権力構造の姿を体現するものであった。権力は、それとわかっていながら、歪みを弱いところに発現させ、それを隠蔽し、なかったことにしようとする。
水俣病の因果関係を明らかにすることに大きく貢献し、それを社会に問うてきた原田氏であるからこその観察や考えが、さまざまに述べられている。
○水俣病が1960年に終焉したとする説があった。これは、行政が幕引きのために意図的につくりあげた可能性がある。
○1968年に、政府(園田厚生大臣)が、はじめて公式に水俣病を公害病と認めた。実はその年に、チッソばかりでなく、日本中からアセトアルデヒド工場が完全に消えた。これにより企業への影響がおよばなくなるのを待って、幕引きの意図をもって認めたのだった。
○水俣病以前、「毒物は胎盤を通らない」が医学上の定説だった。そのため、母親の症状が軽いと、胎児に病状がみられても、母親が毒物を接取したためとは認められなかった。この説は、学問上の権威を守り、新しい事実に目をつぶる権威者の存在によって、なかなか見直されなかった。
○発病した胎児の臍帯(へそのお)を多数分析すると、問題量のメチル水銀が検出された。子宮は環境そのものであった。
水俣病が認知されていっても、常に、患者は権力上も経済的にも圧倒的に弱かった。原田氏は、公害のような裁判において、被告の企業や行政の側に控訴が認められていることは大変不公平だと書いている。強大な国家権力に踏みにじられることへの抵抗という点では、このことは、水俣にも公害にも限るまい。同じことは、原田氏がやはり関わった、三池炭鉱の炭塵爆発事件に伴うCO中毒についても言うことができるのである。
どきりとさせられる指摘がある。原田氏は、日本が敗戦により植民地を失ったあと、九州を植民地代わりにして高度経済成長を行ったのだとする。その代償として、次のような事件が列挙されている。
○三池だけでなく炭鉱事故が九州に頻発した。
○カネミ油症事件(1968年)※福岡県中心に西日本一帯
○土呂久鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○松尾鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○興国人絹による慢性二硫化炭素中毒事件(1964年)※熊本県
○森永ヒ素ミルク事件(1955年)※宮崎県など西日本一帯
○振動病
○スモン
○大体四頭筋委縮症
○サリドマイド禍
まさに、高橋哲哉のいう「犠牲のシステム」だ。
●参照
○石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
○『花を奉る 石牟礼道子の世界』
○石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
○島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
○島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)
○熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』(CO中毒)
○熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(CO中毒)
○高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント