なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ279 峠の町

2020年09月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第279回。9月13日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
6日日曜日、松林寺総代会、本堂屋根葺き替えについて
7日月曜日、東北管区教化センターリモート会議、写経会
他法事6件
というような1週間でした。

近年本堂屋根の雨漏りが続いて、その都度応急処置を施していますが、なかなか止まりません。そればかりか、少しずつその範囲と量が広がっているようです。
いずれ葺き替えをしなければならないと計画を練っていましたが、それを早めなければならないかもしれません。
思わぬところから新たな事業が持ち上がってきました。

今『最上町史』を読んでいます。
昭和60年に、町政30周年を記念して刊行されたもので、上下巻にわたり古代からの歴史、地勢、政治、交通、文化、信仰、生活、習俗などなど、多岐にわたって町の記録が記載されています。
これまで必要があると開く程度でしたが、今は暇なこともあって、興味のある所を読み、つられて次から次へと読み進んでいます。
歴史を知ることは面白いです。新たな発見もたくさんあります。その中から一つ。

最上町は「峠の町」だと言っていいほどです。
これほど峠のある町も珍しいのじゃないでしょうか。
それは、町全体が古代に噴火したカルデラ盆地の中に位置しているからです。
そのために四方を急峻な山に囲まれ、それが自然の要害ともなり、戦国時代には他国から攻められない安定した統治がなされていました。
1580年に最上義光勢に滅ばされるまで、細川摂津守の小国領統治は一説には200年以上も続いたとされています。
しかし人々はさかんに他国と往来をしていたのです。
その通行の道が峠でした。
今名前が残っている峠道は、仙台領側へ花立峠、堺田越え、田代峠、天領尾花沢方面へ山刀伐峠、背坂峠、金山越え、午房根峠、戸沢藩新庄方面へは亀割峠、新庄峠などです。
その他にも、地元民が人知れず通った山道もあっただろうと思います。
特に、尾花沢側は、細川時代から戸沢藩時代まで、現在の尾花沢市富山までが小国領であったため、頻繁に峠越えしていたと思います。
小国領は古くから馬産地であったため、馬の売り買いで峠を越えたという記録があります。
南部領から花立峠、背坂峠を越えて北陸加賀まで、馬を連れての往来があったとのこと、それなりの賑わいもあったことでしょう。
また、地元民が遠方まで出かけるとき、あるいは嫁ぐとき、あるいは売られていくとき、家族は峠まで見送りに来たかもしれません。
そこでどんな言葉を交わしたのか、どんな顔で別れたのか、どんな思いで見送ったのだろうか、と思います。

これまでにも何度か紹介しましたが、私の大好きな、真壁仁の『峠』と題した詩にはこうあります。

   峠は決定をしいるところだ。
   峠には訣別のためのあかるい憂愁が流れている。
   峠路をのぼりつめたものは
   のしかかってくる天碧に身をさらし
   やがてそれを背にする。
   風景はそこで綴じあっているが
   ひとつを失うことなしに
   別個の風景にはいってゆけない。
   大きな喪失にたえてのみ
   あたらしい世界がひらける。
   峠にたつとき
   すぎ来しみちはなつかしく
   ひらけくるみちはたのしい。
   みちはこたえない。
   みちはかぎりなくさそうばかりだ。
   峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
   たとえ行手がきまっていても
   ひとはそこで
   ひとつの世界に別れねばならぬ。
   そのおもいをうずめるため
   たびびとはゆっくり小便をしたり
   摘みくさをしたり
   たばこをくゆらしたりして
   見えるかぎりの風景を眼におさめる。


人は峠を越えながら成長してきたのではなかったかと思います。
一つの世界に訣別をして新しい世界に入っていく覚悟を、峠を越える経験で培ってきたのではなかったか。
結婚するということは独身から既婚への峠を越えることであり、親になることは子どもから大人への峠越えです。峠には訣別が伴います。
親でありながらいつまでも子どものような振舞いなのは、子どもの世界との訣別の覚悟がないということです。
トンネルを抜けていつでも何度でも楽に峠を越えられることが、覚悟という成長を阻害しているかもしれません。
かといって、今普段の生活で歩いて峠を越えることは、まずありません。
せめて想像だけでもしてみる、できれば実際に峠に立ってみて、古の訣別の姿に思いを馳せてみるということがあってもいいかもしれません。
峠は誘うばかりだ。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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