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やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ403 バカたれが

2023年02月05日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第403回。令和5年2月5日、日曜日。

先週は日曜日から金曜日まで東京の研修道場で缶詰め状態でした。
今年度3回目の曹洞宗布教師養成所で、布教師を目指す若き僧侶たちと熱い刺激のある濃密な時間を過ごしました。
感染予防のため宿泊はホテルの個室でしたが、朝5時半の坐禅に始まり、夜9時までびっちりのスケジュールで、普段使わない脳みそをフル活動して知恵熱が出そうでした。頭脳労働も確かに労働だと感じます。
世界の情勢はあまり良い方向には進んでいません。
グローバル化と自国ファーストのせめぎあい、民族間、宗教間の対立も強くなるばかり、そして、よもやこの時代にそんなことは起こらないと思っていた戦争も始まってしまいました。
多くの人々の命が奪われ、傷つき、困難な状況に置かれています。いつも、真っ先に影響を受けるのは社会的弱者です。
国内に目を転ずれば、温暖化の影響による自然災害の多発、軍備拡張、原発の新増設、コロナの影響、経済格差による貧困家庭の増加などなど、ぬぐえない不安の中でストレスを抱えている人が多いように思われます。
子ども食堂、この国はいつから子供に腹いっぱい食べさせられない国になったのか。見えない形で進行する格差。子供に十分な栄養を与えられない社会とは、なんと貧しいことか。
そんな社会に仏教は、僧侶はどうたち向かっていくのか。仏教に役目はあるのか、ないのか。

私は常に、強き者よりも弱き者、富める者よりも貧しき者、地位の高い者よりも社会の底辺に生きる人々の側にいたいと思っています。
仏法が「良薬」だとすれば、現代社会において苦しみ悩む人々に、良薬を届けるのが僧侶の務めでしょう。
天空の城のようにお寺に安住して、娑婆世界の阿鼻叫喚に目を背け、見て見ぬふりするようなことがあってはなりません。
開業医が地域の臨床医として病に苦しむ人々に寄り添い、その症状に合わせて投薬するように、お寺も地域の人々の救いの場とならなければなりません。
布教師が仏法という良薬を投与する任を担っているのだとすれば、まさに「臨床布教師」として現場の苦しみに応えていくのが務めです。
僧侶は、自分の生活のための生業、職業ではないのです。
だとすれば、もっともっと社会に出て、苦しみの現場に身を置かなければならないでしょう。
苦しみの声に直接耳を傾け、体の震えを肌で感じなければなりません。
仏教徒が常に唱える『四弘誓願文(しぐせいがんもん)』は、仏教徒として忘れてはならない4つの誓願をまとめたものです。
その第1は、「衆生無辺誓願度」。
世界に苦しむ人々は数限りなくいますが、その最後の一人をも救っていこうという誓願です。
「誰一人取り残さない」というSDGsの理念とも合致します。
苦しむ人は救いを待ち望んでいます。
さあ、現場に向かっていこう。

金曜日、その足で千葉の参学師を訪ねました。
コロナ過になってから伺うことが叶いませんでしたが、体調が気にかかり、行かなければと思っていました。
鞠を持って訪ね来る子等を待つ良寛さんのように、そわそわと笑顔で迎えてくれました。
医師にお酒は止められているようでしたが、「今日は飲むんだよ」と、生まれる前から決められてでもいるように、ご自分が名付けた海鮮の店に連れて行ってくれました。
「今日は節分なんだけど、ここに来なくちゃならないから、昨日のうちに豆まいておいた」なんて、心から待っていてくれたことが伝わって来て、鼻がツーンとするのでした。
美味しいお酒と美味しい肴を前にしながら、私の方は疲れからか盃も箸も進まず、ただただ師の言葉を一句も漏らさず聞き取るように耳を傾けていました。
何度も聞いた話ですが、生家の貧しさ厳しさと、村の和尚さんとの出会い、巡り巡って房総の寺に晋住し、苦労してここまで生きてきた経過。
その中に織り交ぜられる、現代のお坊さん方の不行跡に対する怒り。
「そんなことも分からんで、バカたれが」と、叱責されるのです。
そしてご自分のことを「半僧半俗」と称してきましたが、この度は「僧が二分、俗が八分だ」と格下げになっていました。
「私はお坊さんが好きだ。もし生まれかわることができたらもう一度お坊さんになりたい。もっと若いときに勉強してまともなお坊さんになりたい」と言葉に詰まりながら語ってくれたのでした。
私はこの人が好きです。
せっかく首を長くして待っていてくれたのに、今生の別れかもしれないのに、充分のおつきあいができませんでした。
慚愧の至りです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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