三ちゃんのサンデーサンライズ。第463回。令和6年4月14日、日曜日。
桜が咲き始めると急に春が動き出した感じがします。
冬の間だらりんとしていた男たちの顔つきがキリッと真剣な面差しになって、働く農家になってきました。
和尚も負けじと、睡蓮と蓮の植え替え、植木に施肥、池の掃除、メダカと亀の外への引越しなどなど、いかにも忙しそうにパタパタと動いています。
いつもそうなのですが、作業が終わってから参考資料を見たりして、「ありゃ、違っていた」と気づいても後の祭り、今年は花が咲くかどうか。
池の鯉は、昨年鯉屋さんが亡くなって廃業したため、冬越しに預かってもらえなくなりました。
池が雪に埋まってしまうことと、イタチがやって来て鯉を引きずっていくと聞いていたため対策を考えていました。
鉄工所と相談して、アングルで枠を作り金網を貼って籠状のものを作ってもらいました。
これならば雪にもイタチにも大丈夫だろうと池に沈め一冬を過ごしました。
初めてのことなので、鯉は無事かと心配していましたが、先日籠を上げて無事を確認してホッとしました。
狭い所に押し込めていてゴメンね。掃除の時に泥水を飲ませてしまってゴメンね。
試行錯誤しましたが何とかきれいな水に戻り、気持ちよさそうに泳いている姿を見るとこちらも気持ちが良くなります。
来年はもっといい方法を考えたからねと、独り言ちしていました。
蓮や鯉のように手足を伸ばし、人間も新たな動きをしなければなりません。
朝の散歩の折り返し点は、2キロ先の東善院さん馬頭観音です。
観音堂に上がり、賽銭を入れ、真言を唱え、祈願をします。
今は「ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナ紛争の早期解決、国民避難民の身体堅固、能登半島地震・台湾地震の被災地早期復興、被災者各々身心安寧」を祈っています。
祈るだけでいいのか、という問いもありますが、祈ることができるのは人間だけの能力です。
他の痛みを我が痛みと感じ、何とかならないかと考える心、それが祈りとなります。
祈らずにはいられない、それが人間らしいということではないか、と思います。
馬頭観音は、言葉の通り頭の上に馬の顔が載っている、あるいは頭が馬の顔になっている姿の観音様で、六観音、三十三観音の一つです。
多くは憤怒の相をしています。
なぜ馬頭なのか、なぜ馬なのか。
馬は足が速く、口が大きいという特徴から来ています。
つまり、人の苦しみを観じていち早くその人の元へ駆けつけ、その悩み苦しみを大きな口でムシャムシャと食べてしまう、そういう願いが込められた相なのです。
憤怒の相は、不動明王などと同じで、人々に悪をさせないという慈悲からの叱りの相です。馬頭観音の場合は苦しみを放っておかないという強い意志を表しているものと思われます。
富沢馬頭観音堂向背の二本の柱には、見事な筆致で「衆生被困厄 無量苦逼身」「観音妙智力 能救世間苦」という聯が掛けられています。
正に馬頭観音の祈りを表しているものでしょう。
私がお参りをするときには、大きな線香立てにいつも一束の線香が供えられています。決まって同じ場所に。
同じ人が、毎日線香を上げてお参りされているのでしょう。
その人にどんな思いがあるのか、祈りがあるのか知りません。
しかし、毎朝ここに足を運んで掌を合わせているのですから、馬頭観音様がその祈りを聞き入れてくれないはずはないと思います。
日本人が住むこの国の各地に、様々な仏閣があり、仏菩薩が祀られています。
その仏像にどんな意味があるのかを知らなくても、そこに参り、掌を合わせる行持を続けることに意味があります。
人には、祈りを受け止めてくれる存在、その対象が必要です。そのために仏菩薩は祀られてきたのです。
もちろん、家の仏壇もその対象です。
そこに在りながら、近くに在りながら、素通りして掌を合わせないのは真にもったいないことです。
祈ることで、自らの慈悲心に気づき、智慧を育てていくことができます。
今までは問いません。今日、今からです。
今週の一言
「菩薩様に苦しみを受け取ってもらえばいい」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
※ 牛頭=ごず 馬頭=めず
彼らは、牛頭馬頭でワン・セット。通常、どこに居るかか、といえば、「地獄の獄卒」とされていますから、あの世とこの世の境目なのでしょう。そして、大きな門の両脇に、まるで歩哨のように立っていますので、彼らの本来の仕事は、あの世とこの世の境界線を守るもの、いわば国境警備兵と同じだといえます。
だとすれば、あの世日シても、この世に対しても、怖い顔をして見張っているのでしょう。
六道輪廻と六観音について、「光の君」解説動画の中で、平安時代の仏教思想の解説として語られています。