金鑚神社 あるいは金佐奈神社ともいう
金鑚神社・・かなさなじんじゃ・・は、式内社、武蔵国二宮(五宮説有り)。式内社とは『延喜式神名帳』に記載されている神社をいい、『延喜式』の時代・延長五年(927)に記載されている。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。官幣中社は国家の保護を受けた神社で、明治になって改めて、近代社格制度で確認登録される。
金鑚とは・・
1火打石・火鑚金が御霊代となっているから、2金鑚とは、砂鉄を意味し、神流川で良質な砂鉄がとれ鉄の材料になった。砂鉄の採集地を鉄穴(かんな)というが、神流川は金鑚神社の近くを流れている。銅もとれたらしく祭神は金山彦であるともいう。
「金鑚」の語源・・・砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫している。・・・現在も神流川は砂鉄が多い。また砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。
・・・・・社伝によると景行天皇の四十一年(111)、日本武尊が東征に出かけるとき、叔母の倭姫命から草薙剣をもらい、その時一緒に貰った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽(御室山)に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀とあるが・・・??。その後、欽明天皇二年(541)に日本武尊を合祀・・・??。延暦二十年(801)に、坂上田村麿が蝦夷平定を祈願し、?永承六年(1051)には源義家が蝦夷平定を祈願、?なぜか東国平定のために皆が立ち寄ったことになる。・・・果たしてどこまでが本当か?
別当寺・・旧別当寺で現在は独立している。大光普照寺 - 通称「金鑚元三大師」
中世には武蔵七党の児玉党の氏神として崇敬され、阿保氏が当社近くの御嶽山に御嶽城を築いた時、多宝塔を寄進して氏神とした。多宝塔は現存しているのでこれは確かである。なお御嶽山は御室山に隣接し、天然記念物の鏡岩がある。
・・鏡岩
なお、最近の説に、御嶽山と御室山の両方を金鑚神社の御神体山としているのを多く読むが、これは誤りで、御神体山はあくまで御室山のみである。ちなみに御室は霊廟所を意味し、大陸系の風習であることから、ここに渡来人(・朝鮮系)の豪族の墓があったのだろう。
・・・これは、中門。中門の裏は山であり本殿はない。奥が御室山・・御神体山
特徴・・
神社の原型を示す。本殿を設けないで、御神体を”山”・・「御室山」とする。この類型は、諏訪神社(長野)と大神神社(奈良)の三社が代表。極めつけは、信濃安曇野の穂高神社で、奥の院の御神体は穂高岳で、山脈を御神体として雄大である。他に原型とされるのは、岩や滝など自然のものを御神体とする神社も多い・・那智神社(ここの御神体は滝)など。これらの神社は、古代祭祀の面影を残し、古くより崇敬を受けた。
多宝塔(重要文化財)・・・
・・・阿保氏からの寄進。(阿保氏・武蔵七党)
境内
・・・境内から拝殿を臨む
・ 行春や 鳥啼魚 の目は泪 ・ ・芭蕉
ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ
・芭蕉の句が刻まれている。芭蕉が奥の細道への旅たちで江戸を離れる際に作ったとされる有名な句である。
でも、なんでここにあるのかが分からない。たしか、千住辺りが出発点だった気がするが・・・
ここから、延々と鏡岩に向かって500Mの道沿いに、句碑が並ぶ・・・壮観なり
華奴蘇奴国 中心地説・・・『魏志倭人伝』の記述、倭人の国の一つである「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」の中心地とする説(山田説)がある。この説によれば、華奴蘇奴は、金鑚神社を中心とした国であったとする。その説を裏付けるかのように、児玉郡は埼玉県内でも最古級の古墳があり、説に見合うだけの歴史があるようだ。
追記・・・
「たたら」跡地の探索
「たたら」跡地の探索は、今となっては困難を極める。製鉄の方法で、「たたら」の製法が使われなくなって久しい。
その、可能性を探る方法としては、「たたら」製鉄方法の流れから、確認しなければならない。その方法に見合うところが、この北埼玉の地方にあるのかどうか・・・。
まず、「たたら」の製鉄所が多く確認される、島根南部地方から、「たたら」を学ぶ。
・・・島根県南部の中国山地は、風化花崗岩地帯という土質のため、良質な砂鉄が多く産出された。それを原料に、古くから「たたら」と呼ばれる製鉄が盛んに行なわれてきた。
まず、砂鉄含有の多い土質を掘り出し、流れのある川に入れる。比重の重い砂鉄は、近くに沈み、他の土砂は流される。・・・基本的に砂金も同様な採取方法・・・
つぎに、山腹に横穴を掘り、粘土製の炉のなかへ、原料である砂鉄と燃料である木炭を交互に装入し、砂鉄を溶かして鉄の塊を得る。これが「たたら」の製鉄法です。作業は3~4昼夜にわたって行われ、最終日には炉を壊して炉の底で成長した約4tにもなる鉄の塊「ケラ」を取り出します。
たたらの操業は、「たたら師」と呼ばれる職能集団によって行われました。たたらの技師長であり砂鉄を装入する「村下」がすべての責任を持ち、村下の指示によって砂鉄を装入し木炭を管理する「炭坂=裏村下」、木炭を装入する「炭焚」、ふいごを踏んで風を炉に送る「番子」が一体となって作業をしました。
良質の鉄を得るためには指示をくだす村下の役割が重要であり、炉から吹き上がる炎の色を読むという一子相伝の技術が必要でした。たたら製鉄は、炎との格闘であリー歩間違えれば炉の爆発もある危険なものでした。
鉄穴流し・・・たたら製鉄の原料となる砂鉄の採取方法。斐伊川・飯梨川上流域の奥出雲地方から鳥取県日野川流域にかけては、良質の真砂砂鉄が分布していた。花崗岩の風化土を切り崩し、流水を利用した比重選鉱法であるこの採取法は、土砂から砂鉄を選別する優れた方法だったが、下流域に大量の土砂と汚濁水を流下させるなどの悪影響を及ぽした。いつからか下流域の農家との取りきめで、この作業は秋の彼岸から春の彼岸の間のみ行なわれるようになった。・・・島根・出雲の「たたら」の歴史より
この「たたら」の歴史に沿って、「たたら」跡を探索するとすれば、まず、砂鉄が含まれる風化花崗岩地帯という土質かそれに類する土質が必要になる。これが、この地方にあるのかどうか、・・・。そして、粘土製の製鉄炉が可能となる横穴、大きさは、たたら師5-10人ほどが作業できる広さの横穴と言うことになる。そして、この横穴の近在に、流れのある川(沢)と砂鉄含有の土質の堀跡が条件になる。「ふいご」などの製鉄の道具でもあれば、決定的に思える。さらにさらに、この鋼鉄を受け継いで発展した職業群落、「刀鍛冶」や「農具鍛冶」でもあれば、有力な傍証ともなるのだが、・・・
残念ながら、金讃神社にも付近にも、これらの痕跡は見つけられなかった。もしかして、「ある」のに見つけられなかったのか、「あった」のに風化して痕跡をなくしたのか、分からない。昔の知識人が、言葉に注目して想像をたくましくして、無理矢理に金讃と砂鉄を結びつけてしまった可能性もある。
昔々、「卑弥呼」の時代に、この児玉郡は金讃神社を中心に、国家をなして栄えていたという説がある。部族の力は武力の力でもあり、武力の力の優位性は鉄製造の技術に裏打ちされて可能であったと思う。その意味で、この北埼玉の砂鉄の跡を探してみました。
住所;埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750
壮大な物語り読ませていただきました。北武蔵の山はかつては産鉄民族の棲家だったでしょうね。渡来人か。吉井のあたりを多胡といいました。児玉のあたりを金屋といいました。
市野川下流の川島町の鳥羽井沼に一目連大明神という神社があります。鉄の神様のようです。市野川を遡ると金勝山。市野川の源流は牟礼・・・古朝鮮語で山。渡来人の地ですかね。
文中にあった多々良は群馬県館林のかつての村にあります。産鉄の痕跡はないようです。
多々良湖は、R122の利根川を過ぎた左側のところですよネ。20数年前、太田に行くことがあり何度も通過しました。白鳥の飛来時期にも行きましたが、白鳥には会えなかったことを覚えています。