ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

R・6116 病窓から・view Ⅱ history

2017-08-27 22:37:30 | 日記

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伊奈町 ”の伊奈”・地名由来・

 

<丸山駅           

 

・伊奈町小室に隣接する丸山(ニューシャトル:丸山駅のあるところ)に”丸山陣屋”(=伊奈氏陣屋)があった。

・この”丸山陣屋”の主は、「伊奈備前」(=伊奈熊蔵忠次)。江戸時代初期・家康の内政官僚。
・徳川幕府の直営地の管理・開拓の関東代官頭で、代官管理する石高は80万石とも150万石とも言われた。
・”丸山陣屋”は、所領は1万石であったが、大名に比して譲らず家臣数や規模をもち、丸山城とも称された。


<丸山陣屋跡 

・”伊奈”町は、この「伊奈熊蔵忠次・備前守」に由来する。

◇「伊奈熊蔵忠次・備前守」

・伊奈忠次は、徳川家康の文官としてかなり有能なところを見せている。
・家康の関東入府に伴って関東代官頭となり、幕府の経済的な地盤を築いた。
・江戸の街作り。検地や治水潅漑(かんがい)、新田開発。幕府収入源の税制。
・特に、関東平野の氾濫原の大河の利根川の東遷の実施と荒川の西遷の計画(荒川の西遷の実施は伊奈忠治)・・・・で大規模な新田開発と江戸のグランドデザインを描いたとされる。
 >>かなり魅力ある人物なので、業績は各自調べると興味深い、と思います。
 
◆「伊奈忠次」の人物像・・

・管理する領域の住民から”神様仏様伊奈様”と神様と同列に崇められた「伊奈忠次」とは、どんな精神構造を持った「文官官僚」であったのであろうか?、その善政や業績は、各々の調査に委ねるとして、多少違う角度から眺めてみよう。


・「伊奈備前」の墓は、鴻巣・勝願寺にあり、父・忠家と次男・忠治(関東初代郡代)と三基並んである。ちなみに、三男・(忠武)日誉源貞は出家してこの寺の住職でもあった。鴻巣は、伊奈備前が家康から、小室とともに拝領した領地であった。鴻巣・勝願寺は、浄土宗の寺院。


・1563年、忠次13歳の時、三河一向一揆が起こった。その時の西尾・小島城主・伊奈忠基(忠次の祖父)の一族は、家康領主派と対抗する一向一揆派に分かれた。この時の三河一向一揆は、本来だったら松平家臣たるべき家臣団の約3割以上が一向一揆側についたといわれている。対立抗争の中で、家康の呼びかけで家康側に戻り、終局に勢力を増した家康側が勝利したということで決着をした。この時,忠次の父・忠家は、最後まで抵抗した一向一揆側におり、父に同行した忠次は、父・忠家とともに三河から追放された。その後の忠次は、放浪の末、一向一揆側だった父の兄が、商家として成功している堺へ赴き叔父を手伝い、ここで経済の知識を習得したと思われる。堺の商家の叔父は、京都の豪商・茶屋四郎次郎と懇意であったらしい。
・折しも信長が”本能寺”で討たれると、京・大阪に来ていた家康を、三河まで逃すための護衛集団を組織した茶屋四郎次郎は、堺の叔父のところまで手を伸ばし、、家康の護衛集団の一員に「忠次」が組み入れられた訳である。
・一向一揆で家康に反抗し、その後家康の家臣に戻った切っ掛けの様子であるが、家康は、家臣の信仰に、浄土真宗は許さなかったようだ。一向一揆に参加した家康家臣は、すべからく浄土宗に宗派替えをしていると聞く。

・後に調べると、伊奈忠次はかなり敬虔な仏教信徒だったと聞くに及び、若き時の信心を生涯に持ち続けたのではないかと確信するに至るわけで・・・
・ただ、三河一向一揆のリーダーでもあった、家康の参謀の「本多正信」は、不思議なことに、浄土真宗の総本山の京都・西本願寺に墓があると聞く。
・一向宗を目の敵にして壊滅を謀った織田信長と一向宗を許さないまでも違った対応をとった徳川家康との比較は、人間性の深さの違いみたいで興味深い。


・伊奈忠次の”伊奈”は、私のふるさ、”信州・伊那”とにも通じており、関心を持ったキッカケでもある訳で・・・

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