ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

三富のこと

2015-06-22 12:31:28 | 街 探求!

三富のこと

”三富”のことを、つい先頃まで「さんとみ」と読んでいた。
従って、「富のいも」も、同様に「とみのいも」だと思っていた。無知の無恥の至りである。
サツマイモの大生産地川越の”さつまいも”は、”川越いも”と呼ばれるが、詳しくは”富のいも”のことである。別名は、江戸時代、江戸からの距離にちなんで、”十三里”とも呼ばれる。
実は、「富のいも」や「三富」は、”とめのいも””さんとめ”と読むのが正しい。
「富のいも」は富で生産される”さつまいも”のことであり、「三富」は地名である。

いつの頃からか、珍しい地名に出会うと、つい地名の裏に隠された由来などを詮索するのが好きになった。

今回も、その地名探索の一環である。

ほたる文庫より
 ・・・
柳沢吉保、三富新田開拓に着手
 元禄7年(1694)7月、長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で、川越藩の領地であることが認められました。これにより川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老曽根権太夫らの家臣は、まず開発に従事する農民を集めました。その出身地は上富村名主忠右衛門、中富村名主喜平次は亀久保村から移住したように、主に近隣の村々から集まったようです。開発が始まってから2年後の元禄9年(1696)5月に検知が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができあがりました。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものです。
開拓農民の知恵と努力
 武蔵野台地に位置する三富新田の開発は、次のような開拓農民の知恵と努力によって成し遂げることができました。赤土を肥沃な土に 栄養分が少なく水はけの悪い赤土(関東ローム層)には大量の堆肥が投入され、肥沃な土へと変貌することができました。
水を求めて
 吉保は野火止用水の例に習い、箱根ヶ崎の池から水を引こうと考えましたが実現にはいたりませんでした。そこで、三富全域で11ヶ所の深井戸(約22m)が掘られて数件が共同で利用することとなりました。しかし、日照りのときはその深井戸さえも水が涸れてしまい、数km離れた柳瀬川まで歩いて水を汲みに行ったということです。
風を防いで
 雨の少ない時期には季節風が畑の乾いた赤土を舞い上げ、それこそ「赤い風」となって吹きまくりました。そこで、三富の開拓農民は、畑の畦にウツギや茶の木を植えてこれを防ぎました。
 こうした厳しい自然条件のもとでの生活でしたが、当時の開拓農民たちは根気よく自分たちの土地を耕し続け、だんだんと耕地からの収穫量を上げていくこととなります。
 ・・・   三芳町の歴史より

三富の地域とは、上富・三芳町、中富・所沢市富岡とその周辺、下富・所沢市富岡の一部と狭山市堀兼辺りと言うことになっています。東武東上線の上福岡駅から柳瀬川駅までの路線の西側を指しているようです。
新座に柳瀬川と川越に不老川(新河岸川上流部)が流れていますが、この間の広大な台地には、他に川らしい川がありません。
土壌は、関東ローム層の赤土です。赤土は、火山灰が降り積もった土で、火山灰の中の鉄分が酸化し赤くなったと言われています。栄養分はほとんど無い痩せた土壌で、その上微粒子の粘土層というおまけ付きです。微粒子の粘土層は、雨が降れば泥土化し、乾けば微粒子が故、強風で砂塵化して砂嵐になります。
関東ローム層の赤土は、深層20m以上に蓄積している模様です。そのため飲料水を得る井戸は、深さ20mより深く掘らなければ地下水脈のある瓦礫層まで達しません。これでは個人の力では及びません。技術の進んだ現代では、優れた掘削機もあり、深掘りの穴も容易でしょうが、江戸初期以前は、この地の関東ローム層は、人が住むことを拒んできました。
江戸時代・元禄の頃、川越藩の領内のこの地区の開拓で、共同使用の井戸が掘られましたが、最大のもので44mの深さになったそうです。しかし、干ばつの飢饉の時その井戸も枯れてしまい、付近の住民は柳瀬川まで水を汲みに行かなければならなかったと言います。三富がまだ三芳野と呼ばれた頃の話です。

所沢・航空公園から見た”砂嵐”

 

関東ローム層・所沢の砂嵐 ・・・
国道16号線の都心寄りに、平行して走るのが463号線・通称・浦所街道。
この街道を、3月の晴れた、風の強い日に、車で走るのは、かなり勇気の要る行為なのだ。
3月は、比較的晴天が続き、冬枯れした農地には、いまだ農作物が生えそろわずに大地を露出している場合が多い。関東ローム層の赤土の微粒子は乾いて強風に巻き上げられる。これが所沢名物の砂嵐だ。この砂嵐で、陸送のトラックドライバ-には、3月の浦所街道は鬼門の街道として有名である。
実は、かって自分も3月初旬だったと思うが、浦所街道の英IC前後で、この砂嵐に遭遇したことがあった。前方100m先からが全く視界が利かなかった。


三富の地名が付く前の三芳野は、人の住めない原野と雑木林であったと、容易に想像がつきます。そして、この”原野と雑木林”は、付近の郷村の共有管理地(=入会地)でありました。ここからは、農作物は育たなく、燃料用の枯れ草と枯れ枝しか得ることが出来ませんでした。否、ちょっとだけ言い換えると、この厄介者の赤土の粘土質は、壁土として商品になり明治の頃まで流通していました。入間川や新河岸川の水運の船荷の中に、”所沢の壁土”の物産の記録が残っています。

関東ローム層の赤土 ・・
火山から遠いこの武蔵野台地に、20m強~40m強の火山灰が降り積もっていた、と言うことはにわかには信じられません。この武蔵野台地の赤土の層は、他の地区の関東ローム層よりもはるかに深い堆積なのです。
関東ローム層の堆積は次の様に説明されています。・・「火山周辺に堆積した火山砕屑物(火山灰など)が、風雨などによって再度運ばれて周辺に堆積したもので、関東ロームの場合は風で舞い上がって降下したものである。端的に述べると露出した土壌から飛散したホコリである。したがって、火山が噴火していないときにも降下物が供給される限りロームは堆積し続けており、関東ロームは毎年0.1 - 0.2mm、100年で1cm - 2cm、1万年で1m近く積もる。火山灰起源の場合、粒径が3mm以下であれば風化作用を受けやすく、関東ロームではほとんどが粘土化している。関東ロームはその色から赤土とも呼ばれるがこれは含有する鉄分が風化により酸化したもので、酸化があまり進んでいない最近1万年分は黒色をしておりこれは黒ボク土と呼ばれる。」
どうやら、火山灰が主だとしても、そればかりではなさそうである。それに、毎年0.1mmだとして100年で1cm、1000年で1m、1万年で10m ・・・算術的には理解可能としても実感としてはほとんど理解不能の世界で、気の遠くなる話 ・・・


それに、武蔵野台地の火山灰などの堆積の厚さは、どうもこの地は、風のたまり場であった、故の現象としてしか説明が付きません。風のたまり場は、いかにも文学的な表現で、風景としては艶めかしいが、突きつける現実は、かなり厳しいものであったようです。

三富の事 ・・
家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸の人口は急増していった。江戸の人口の急増に伴って、周辺からの食糧の供給は急務であった。関東郡代・伊奈家を中心に、関東の大河・利根川と荒川を中心とする氾濫原の大湿地帯を、耕地・農作地に開拓する治水事業は、世紀の大プロジェクトとして成果を上げつつあったが、それでも食料は足りなかった。
元禄の時代を迎えて、人々は窮乏の禁欲的生活から解き放たれて、精神が解放される時代になってきた。元禄は文化の時代でもあった。贅沢になり始めたのである。
人々は贅沢になったとしても、自然災害・天災をコントロールすることはできない。周期的に襲ってくる天災は、飢饉となった。

そんな元禄の頃、川越城主として柳沢吉保は登場する。
吉保は、川越藩の財政強化と領民の富裕化のため、江戸への食糧の供給のため、不毛の台地・三芳野の開拓を始める。荻生徂徠の提案を受け入れたものであった。
”三富”の命名は、荻生徂徠が”論語”から引用して名付けたものらしい。どの部分からか探したが、簡単には分からなかったのだが、「不毛な台地を、豊穣な台地へ」変えようという願いを込めた地名であることは確かなようだ。

吉保は、神田川の先例を学んで、まず三富へ川を引こうと思ったがうまく行かなかった。水源は箱根ヶ崎の池だと聞くが、水源の水量が不足していたのか、標高の高低差の問題か、そこは詳しくない。

次ぎに吉保のとった方法は、まず共用の井戸を掘り、農民を移住させることであった。
その為に必要と思われる農地と屋敷用の敷地の提供である。そして、痩せた赤土を、養分の豊富な黒土に変えるノウハウであった。これを指揮したのが、川越藩士・曽根権太夫である。
この「農地と敷地」のことは次の様に記されている。

・・・ 「特徴としては、幅六間(約10.9m)の道の両側に農家が並び、その一軒の農家ごとに畑、雑木林が面積が均等になるように短冊型に並んでいるという地割である(例えば上富村では、一戸の間口が四十間(約72.7m)、奥行き三百七十五間(約681.8m)、面積五町歩(15000坪=約49500平方m)となっている)。この地割の方法は北宋の王安石の新田開発法を参考にしたといわれる。」・・・「この整然とした地割と景観は現代まで良く残され、1962年には、旧跡として埼玉県指定文化財に指定されている。」
・・・ 最近、この”地割と景観”は「農地遺産」として世界遺産の登録の申請をしていると聞いている。

三富の地区に多く残る雑木林と屋敷林は、関東ローム層の赤土の風塵を防ぎ、大量の落葉を一カ所に集めて発酵させて腐葉土を作る。痩せた赤土に養分を与えてくれる肥料の自家生産装置なのだ。

三富地区は、こうのように開拓されてきたが、なにせ”水脈”はないので水田はほとんど無い。
この地区の農民が苦労して、生活の糧の生産が軌道に乗り始めたのが、”薩摩芋”の生産であり、”お茶”の栽培であった。この”薩摩芋”のことを”富のいも”、”お茶”のことを”狭山茶”と呼ぶが、すべからく、三富と周辺の”産物”のことである。”薩摩芋”の生産が、この三富が適地であったと言うよりも、腐葉土を作るときの発酵熱が”薩摩芋”の生産を助けたといった方がいい。三富の農民が、苦労した工夫が名産を生んだようである。

柳沢吉保のこと ・・・
柳沢吉保は、どうもストイックな、禁欲的な人間である。
活躍した時代が、江戸・元禄の頃。戦乱の世は、遙か彼方に遠くなり、ぼつぼつ人々は平安をむさぼり始めた元禄時代は、人間解放の時代でもあり、元禄文化が花開いた頃である。
元禄文化は、・・・朱子学、自然科学、古典研究が発達した。尾形光琳らによる琳派、土佐派などが活躍、野々村仁清、本阿弥光悦等による陶芸が発展、音楽では生田流箏曲、地歌の野川流が生まれ、また義太夫節や一中節などの新浄瑠璃や長唄が生まれた。また、俳句の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、文楽の近松門左衛門、歌舞伎の坂田藤十郎、市川團十郎などが活躍した時代である。
こんな時代に、人間の欲望を制限するような政策を次々と打ち出す柳沢吉保は、いたって評判が悪かった。
元禄文化はM8.1の元禄地震(元禄16年・1703)と、M8.4の東海・南海・東南海連動型地震の宝永地震(宝永4年・1707)、同年12月の富士山の宝永大噴火の発生によって終焉した。
柳沢吉保は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導。
・柳沢氏は武田氏一門で武川衆に属した。
・万治元年(1658)上野国館林藩士・柳沢安忠の長男に生まれる。
・延宝8年(1680年)、館林藩主・綱吉が将軍徳川家綱の将軍後継となると、吉保も幕臣なる。
・綱吉の寵愛により側用人になる。
・元禄7年(1694)武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年老中格。同年大老。
・元禄8年、駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる。
・宝永元年(1704)、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊がなると、綱豊の甲斐国甲府城を所領。
・宝永6年(1709)、綱吉が薨去で失権。綱吉近臣派の勢力失う。隠居。
・・・一般的な評価と違って、この三富では、”柳沢吉保”の評価はかなり高い。表面の出ていない業績があるのかも知れないが、知られている業績で判断すると、名君の評価に相応しく思う。

 

三富の旧名を、三芳野としたのは多少独断です。異論がある場合は、ご連絡下さい。
・・・ 古書による三芳野の初見は、在原業平の「伊勢物語」です。
ただ、三芳野の地名を確認すると、坂戸に三芳野の地名と小学校があり、狭山・入曽に同様の地名と小学校があります。また、川越城隣接にある天神様は三芳野神社と言います。勿論、独断の根拠にしたのは、三芳野から派生したと思われる三芳町です。この一帯を統べて三芳野とすると、いかにも広すぎの感がするのは確かです。伊勢物語では、「・・・入間郡の三芳野・・・」という表現になっています。現代の名付けでは、この地方の警察署は”入間野警察署”、農協は”入間野農協”という使われ方もあります。
以上の点から、もしかして”三芳野”の地域を三富周辺と比定したのは、一般と認識と離れているのかもしれません



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