ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「松本」学、あるいは「松本」考

2023-07-23 17:18:56 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考

はじめに、

松本には四年住んだことある。
一年は、蟻ケ崎は住宅街だが、寮があって、三年は、里山辺に、住宅街の端っこで、そこより背後は、緩やかな裾野で、デラウェアのブドウ園が延々と広がる。
そこでの四年間の記憶が、この頃どうも少しずつ薄くなっているように思う。
そこで思い立つのだが、・・・
キーボードを打つ手が、最近んとみにしんどい。胸骨の手術以降、右手が肩よりり上に上がらなくなっているのに加え、副作用でか、しびれまで加わっている所為・・・
下降としている内容は、記憶の中のこと。五十年以上前のことになるので、精度が甚だ不安だが、そこはご容赦を!

1:旭町

松本に「旭町」という町名がある。
昔、一年だけ通った母校の所在地だ。
どうもここは、旧来の地名ではなさそうで、戦後に出来た地名のように思える。調べてみると、「俗地名として江戸時代の旧町名からの天白町、中ノ町、東ノ町、上下町(かみしものまち)、下下町(したしものまち)、岡宮文園町などがある」とあり、・・・母校の裏には、「女鳥羽川」が流れていて、どうやらそこは、案外広い「氾濫原」(=河原)だったようで、戦中に、陸軍の「五十連隊」が仙台辺りから移住して練兵場になった。併せてこの練兵場の端に陸軍病院が建ち、この病院が医学部と付属病院に、暫くしてこの練兵場の大半が母校にかわったという記録が残る。
旭町は、かっての陸軍に由来する地名なのだ。そして昭和に生まれた町名なのだ。

写真:女鳥羽川

2:女鳥羽川と縄手

女鳥羽川は松本中心部を流れる。
中心部・・松本城への道・千歳橋を挟んで、上流部が、いつでも歩行者天国の出店・集積の繩手の商店街。近くに「四柱神社」があり、そこの参道に因する「市」という説がありますが、四柱神社の建立は、明治とあるので、その説は嘘っぽい・・繩手の出店ができたのは、江戸時代らしいが、女鳥羽川の河原に、自然発生的にできたらしい。当初は、日本海側の海産物が、いわゆる「謙信」が「信玄に送ったとされるあの「塩」の道を通って運ばれて、その海産物が売られた、ところという風説があるが、日本海の海産物は、理にかない本当だろうが、「謙信の塩」はどうみても「眉唾」もので、雪が多く冬の長い新潟に、自家用の塩以外に、商業用の塩を造る余裕もなく、商業用の塩田の実績は、探してみたがなかった。江戸時代に北国廻船が盛んになって以降、瀬戸内海の塩が運ばれたという事実は残るので、そのころ以降なら話は判るが、信玄・謙信時代の「塩」の話は、どうも怪しいと思う。

3:繩手のカエルの像:写真

繩手の出店街は独特である。
松本には、四年間居たが、大半、この界隈には入り浸った。理由は、近辺に居心地のいい「ジャズ喫茶(=アミ)」やコーヒーの旨い翁堂という喫茶などがあり、冬は寒く夏は暑い独特な盆地気候の避寒避暑を兼ねて、居間、応接間、読書室がわりであった。
同じような使途で、当時日本一安いといわれた映画館もあった。女鳥羽川の対岸には、柳宗悦が絶賛したといわれる「囲炉裏のある喫茶店=(まるも)」があったが、松本にいた当初に数回行っただけで、好きな場所ではあったが、それ程通ってはいない。「アンアン」や「ノンノ」に掲載されて以来、若い女性の占領されて、空いたテーブルがなかったから・・・

4:女鳥羽川・上流

さて、女鳥羽川を上流へ辿ってみる。
といっても、女鳥羽川の河原を上流へと辿るということではない。まず、松本から岡田へのルート、先は四賀・青木峠・上田へと続く。この岡田の伊深というところで、松本・佐久往還と交差する。交差を右に向かうと三才山トンネルになる。このトンネルの先が佐久。
この三才山が女鳥羽川の源流になる。

御謝神社・秋宮:写真

三才山トンネル:写真