新型コロナウイルスの感染者が7月25日以降右肩上がりに増加し、ついに連日600人を超えるに至った静岡県。
7月23日から開催されたオリンピックでは東京を始めほとんどの開催地で無観客とする中、静岡県知事は7月28日(前週から2倍以上に激増した日)、オリンピック開催地の県東部伊豆地方での感染増加を受け、当該地方住民に生活に必要な外出以外は控えるよう呼びかける一方でオリンピックの観客(ボランティア・バイト含めて)については受入継続を明言した。
過去最多を更新する168人の感染者を出した7月31日においても、県は「食料品の買い物や仕事、医療機関の受診など生活維持・生命維持に必要な場合以外は一歩たりとも外出しないようお願いしたい」と呼びかける一方で、オリンピックの有観客は続けるなど県民の不信を募らせた。
知事自身も何度も視察と称し会場に足を運ぶなど県民の外出自粛と自身の視察外出は別格であることを印象付ける一方で、感染拡大が続く新型コロナ対策の具体策は何ら示すことなく時間ばかりが経過していった。
実際この間、感染者激増に備えた体制整備が行われた形跡は全くなく、8月24日、病床逼迫が目前に迫るに至ってようやく酸素投与などの体制整備をすると言い始めた。
一部世論の中には感染者の増加とオリンピックは無関係という意見もあるが、それは大きな間違いである。
確かにオリンピック関係者のクラスターといった直接の影響はないが、間接的というか包括的というか、言い方はともかく大きな影響があったのである。
もちろんそれは有観客を実行した静岡県だけのことではない。
そもそも、何がこれ(オリンピック前)まで国民の自粛を支えてきたのかといえば、みんなで一緒に耐えましょうという同調圧力(空気)、いわば無言の圧力があったからだ。
一般にいわれる自粛疲れというのは後付けの言い訳に過ぎない。
いやおうもなく国も国民も同じ方向を向かされていたからこそ、国民皆マスクのような世界的にも注目される統制色がみられ、結果、感染が抑えられてきたのである。
しかるに、いまやその面影はない。
そもそも、何が特別か、例外かはみんながそう認めた状況下にあって原則に影響を及ぼさずにすむものである。
しかるにオリパラにみられた特別・例外は多くの国民にとって納得のいくものではなかった。
まさにこれは割れ窓理論の割れ窓に相当する。
象徴的なのは、五輪担当大臣による「不要不急であるかどうかは、しっかりご本人が判断すべきもの」なる迷言であり、これでは他人の判断には誰も口を挟むべきでないというに等しく、この(自粛関連)テーマに対する国民としての集団凝集性は容易に崩壊する。
川勝知事もまた会見で県民への外出自粛(セルフロックダウン)への呼びかけと有観客との整合性を問われ、「意見矛盾するようにですね取られがちですけれども」と前置きしつつ、「ここ(会場内)に入る時の感染対策は徹底している」から大丈夫、心配ないとし、一方で「(県民に)セルフロックダウンと言っておりますけれども、実際は買い物に行かなくちゃいけないし、病院に・・・・」と外出が必要な場合も当然あるとして、不要不急か安全かなども「(県民に)個別具体的に考えていただく」ので(県の個別具体的判断とも)矛盾していないという論理を展開したのである。
実際、国民や県民の中で一部とはいえ、それが良いならこれも良いだろう(例えば、オリンピック観戦に静岡に来るのは良くて観光に来るのはだめということはないだろう。同じように感染対策してきているのだから)という自己判断が優越し、抑圧されていた「個」が主役となっていった。
ここに至ればもはや集団を構成する一員としての理性的判断により、少なくはない個人の欲動優位の人々を押さ込むことなど誰にもできやしないのである。公共的な説得力を喪失したのである。
ただし、このような状況下においても正しい情報(危機の現状と個々人に必要な予防策)が繰り返し伝えられていたなら多少は自己防衛の本能から純粋に個の判断として行動抑制が働いたのかもしれないのであるが、残念なことに、オリンピック開催中のマスメディアは新型コロナの危機と対策について全くと言ってよいほど伝えることを怠った。
実際にオリンピック期間中、テレビニュースのトップは連日オリンピックの話題で、興味のない国民はニュースから遠ざかるのは必然であり、一方、お祭り気分で伝えられるオリンピックのニュースに魅せられた国民にはコロナの危機感は認知的不協和を生む対象であり全く危機感が伝わることがない。
結果、感染への恐浮ヘ生まれず今日の感染爆発である。
政治において、特に任意の協力を必要とする施策においては、人心の在るところを正確に予測し図ることが要諦である。
いまや政治が成立していない。政治家が不在である。本当の危機は新型コロナではなく実はそこにあるのである。
7月23日から開催されたオリンピックでは東京を始めほとんどの開催地で無観客とする中、静岡県知事は7月28日(前週から2倍以上に激増した日)、オリンピック開催地の県東部伊豆地方での感染増加を受け、当該地方住民に生活に必要な外出以外は控えるよう呼びかける一方でオリンピックの観客(ボランティア・バイト含めて)については受入継続を明言した。
過去最多を更新する168人の感染者を出した7月31日においても、県は「食料品の買い物や仕事、医療機関の受診など生活維持・生命維持に必要な場合以外は一歩たりとも外出しないようお願いしたい」と呼びかける一方で、オリンピックの有観客は続けるなど県民の不信を募らせた。
知事自身も何度も視察と称し会場に足を運ぶなど県民の外出自粛と自身の視察外出は別格であることを印象付ける一方で、感染拡大が続く新型コロナ対策の具体策は何ら示すことなく時間ばかりが経過していった。
実際この間、感染者激増に備えた体制整備が行われた形跡は全くなく、8月24日、病床逼迫が目前に迫るに至ってようやく酸素投与などの体制整備をすると言い始めた。
一部世論の中には感染者の増加とオリンピックは無関係という意見もあるが、それは大きな間違いである。
確かにオリンピック関係者のクラスターといった直接の影響はないが、間接的というか包括的というか、言い方はともかく大きな影響があったのである。
もちろんそれは有観客を実行した静岡県だけのことではない。
そもそも、何がこれ(オリンピック前)まで国民の自粛を支えてきたのかといえば、みんなで一緒に耐えましょうという同調圧力(空気)、いわば無言の圧力があったからだ。
一般にいわれる自粛疲れというのは後付けの言い訳に過ぎない。
いやおうもなく国も国民も同じ方向を向かされていたからこそ、国民皆マスクのような世界的にも注目される統制色がみられ、結果、感染が抑えられてきたのである。
しかるに、いまやその面影はない。
そもそも、何が特別か、例外かはみんながそう認めた状況下にあって原則に影響を及ぼさずにすむものである。
しかるにオリパラにみられた特別・例外は多くの国民にとって納得のいくものではなかった。
まさにこれは割れ窓理論の割れ窓に相当する。
象徴的なのは、五輪担当大臣による「不要不急であるかどうかは、しっかりご本人が判断すべきもの」なる迷言であり、これでは他人の判断には誰も口を挟むべきでないというに等しく、この(自粛関連)テーマに対する国民としての集団凝集性は容易に崩壊する。
川勝知事もまた会見で県民への外出自粛(セルフロックダウン)への呼びかけと有観客との整合性を問われ、「意見矛盾するようにですね取られがちですけれども」と前置きしつつ、「ここ(会場内)に入る時の感染対策は徹底している」から大丈夫、心配ないとし、一方で「(県民に)セルフロックダウンと言っておりますけれども、実際は買い物に行かなくちゃいけないし、病院に・・・・」と外出が必要な場合も当然あるとして、不要不急か安全かなども「(県民に)個別具体的に考えていただく」ので(県の個別具体的判断とも)矛盾していないという論理を展開したのである。
実際、国民や県民の中で一部とはいえ、それが良いならこれも良いだろう(例えば、オリンピック観戦に静岡に来るのは良くて観光に来るのはだめということはないだろう。同じように感染対策してきているのだから)という自己判断が優越し、抑圧されていた「個」が主役となっていった。
ここに至ればもはや集団を構成する一員としての理性的判断により、少なくはない個人の欲動優位の人々を押さ込むことなど誰にもできやしないのである。公共的な説得力を喪失したのである。
ただし、このような状況下においても正しい情報(危機の現状と個々人に必要な予防策)が繰り返し伝えられていたなら多少は自己防衛の本能から純粋に個の判断として行動抑制が働いたのかもしれないのであるが、残念なことに、オリンピック開催中のマスメディアは新型コロナの危機と対策について全くと言ってよいほど伝えることを怠った。
実際にオリンピック期間中、テレビニュースのトップは連日オリンピックの話題で、興味のない国民はニュースから遠ざかるのは必然であり、一方、お祭り気分で伝えられるオリンピックのニュースに魅せられた国民にはコロナの危機感は認知的不協和を生む対象であり全く危機感が伝わることがない。
結果、感染への恐浮ヘ生まれず今日の感染爆発である。
政治において、特に任意の協力を必要とする施策においては、人心の在るところを正確に予測し図ることが要諦である。
いまや政治が成立していない。政治家が不在である。本当の危機は新型コロナではなく実はそこにあるのである。
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