平成の世もあと1年余を残すばかりとなった2018年を迎えました。
この平成の世を後世の人はどのように評価することとなるのでしょうか。
世界規模で見ればナショナリズム再興とテロ興盛の時代、国内的には官僚政治の専横による国民抑圧の始まった時代というところでしょうか。
昨年起きた森友・加計の事件はまさに官僚の今ある姿を如実に映し出すものでした。
政権にとって(それは同時に官僚自身にとって)不都合な文書は規則違反を承知で存在しないものとし、単なるミスで済まそうとする官僚強弁に、不都合な人物には圧力をかけて言論を封じようとする手法と、それらを評価する政権。
これこそ国民の意思を離れた過度の自負心と無答責を特徴とする官僚政治の始まりであり、後藤新平が評した官吏的奴隷主義(官吏の受領した命令が、正義公道に背反した場合ですら、唯々諾々として盲従する主義)が蔓延した姿です。
具体的には、内部告発を行おうとした文科省の事務次官の言論封殺のためのスキャンダルリークなどはまさに恐喝であって国民に対して恐浮ウえ覚えさせる演出です。
さらに、本来ならば責任を取ってしかるるべき理財局長をこともあろうか国民からの国税徴収を扱うトップに就任させるなど、これら開き直りともとれる政治姿勢は権力中枢の腐敗のみならず、国民の信用喪失を、引いては国家の弱体を招く所業というべきでしょう。
官僚政治の弊害を喝破した後藤新平は次のように指摘しています。
「冷淡に、形式的に、そして盲目的に国家と称する機関に付着して、車輪のごとく無意識に回転するものは、今日の時勢によく適応して、時とともに昇進するのである。この車輪の本質は、無性無神の一物体に過ぎず、多々の報酬も一層の尊敬も結局のところ人間の価値と交わらぬ」
「政府の内命は、往々にして官吏の良心と衝突し、しばしばその堕落を誘起する」
「官吏が自己は完全な権利を有し、第一に社会に仕え、第二に国家(思うに国家は社会のために存在するものであって、社会は国家のために存在するものではない)に仕える公民であるという、自覚を有するようになったとき、彼らは初めて国家の恩恵を、十分人民に知らせることができよう。」(後藤新平「官僚政治」より)
基本に立ち返って考えましょう。
私たち一人一人は決して国家のために存在するのではありません。これは人と人の共同体すべてについて言えることです。
私たち一人一人が自己のことのみに執着し社会について考えることや行動することを諦め、沈黙したならば、この状況はますます悪化し社会は再び闇に包まれます。沈黙からより良き未来は決して訪れません。
こういう時代だからこそ、私たち一人一人が正義(善き人々が安全と安心を共有できる社会の実現)について考え行動する時なのです。
この平成の世を後世の人はどのように評価することとなるのでしょうか。
世界規模で見ればナショナリズム再興とテロ興盛の時代、国内的には官僚政治の専横による国民抑圧の始まった時代というところでしょうか。
昨年起きた森友・加計の事件はまさに官僚の今ある姿を如実に映し出すものでした。
政権にとって(それは同時に官僚自身にとって)不都合な文書は規則違反を承知で存在しないものとし、単なるミスで済まそうとする官僚強弁に、不都合な人物には圧力をかけて言論を封じようとする手法と、それらを評価する政権。
これこそ国民の意思を離れた過度の自負心と無答責を特徴とする官僚政治の始まりであり、後藤新平が評した官吏的奴隷主義(官吏の受領した命令が、正義公道に背反した場合ですら、唯々諾々として盲従する主義)が蔓延した姿です。
具体的には、内部告発を行おうとした文科省の事務次官の言論封殺のためのスキャンダルリークなどはまさに恐喝であって国民に対して恐浮ウえ覚えさせる演出です。
さらに、本来ならば責任を取ってしかるるべき理財局長をこともあろうか国民からの国税徴収を扱うトップに就任させるなど、これら開き直りともとれる政治姿勢は権力中枢の腐敗のみならず、国民の信用喪失を、引いては国家の弱体を招く所業というべきでしょう。
官僚政治の弊害を喝破した後藤新平は次のように指摘しています。
「冷淡に、形式的に、そして盲目的に国家と称する機関に付着して、車輪のごとく無意識に回転するものは、今日の時勢によく適応して、時とともに昇進するのである。この車輪の本質は、無性無神の一物体に過ぎず、多々の報酬も一層の尊敬も結局のところ人間の価値と交わらぬ」
「政府の内命は、往々にして官吏の良心と衝突し、しばしばその堕落を誘起する」
「官吏が自己は完全な権利を有し、第一に社会に仕え、第二に国家(思うに国家は社会のために存在するものであって、社会は国家のために存在するものではない)に仕える公民であるという、自覚を有するようになったとき、彼らは初めて国家の恩恵を、十分人民に知らせることができよう。」(後藤新平「官僚政治」より)
基本に立ち返って考えましょう。
私たち一人一人は決して国家のために存在するのではありません。これは人と人の共同体すべてについて言えることです。
私たち一人一人が自己のことのみに執着し社会について考えることや行動することを諦め、沈黙したならば、この状況はますます悪化し社会は再び闇に包まれます。沈黙からより良き未来は決して訪れません。
こういう時代だからこそ、私たち一人一人が正義(善き人々が安全と安心を共有できる社会の実現)について考え行動する時なのです。
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