思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

うーん、この差は・・わが小沢征爾とシャルル・ミンシュのベルリオーズ

2012-03-18 | 趣味

わたしは、高校生2年生の頃から40年以上にわたってベルリオーズの音楽を愛聴してきました。MIXIに『ベルリオーズの世界』というコミュをつくってもいます。

わたしは、高校生のころから若き小沢征爾のファンで、彼の書いた『ぼくの音楽武者修行』(音楽の友社刊・現在は新潮文庫)は、わたしの私塾『白樺教育館・ソクラテス教室』(当時の名称は『我孫子児童教室』)で、教材として使っていました。30年以上前のことですが。

斉藤秀雄にほとんどマンツーマンで指導された小沢征爾については、今では(小沢を徹底的に排除してきたNHKが、小沢とサイトウキネンの実力と名声に屈し、放映するようになって十数年以上経ちますので)一般にもよく知られるようになりましたが、若き小沢が最も尊敬していたのが、シャルル・ミンシュです。彼はフランス人で、大きく豊かで艶と迫力のある演奏をし、ボストン交響楽団の黄金時代を築いた指揮者です。

シャルル・ミンシュは、ベルリオーズ(ロマン溢れる想像力そのもののような曲をつくったフランスの天才作曲家)演奏の大家でしたが、小沢も師と同じくベルリオーズを得意とし、ベルリオーズの全集録音にも取り組みました(レコード会社の都合で完成には至りませんでしたが)。わたしも「幻想交響曲」の1回目の録音からLPを買い、聴いてきました。ロメオとジュリエット、ファウストの劫罰、レクイエム、ベンヴェヌート・チェッリーニ、生演奏ではテデウムなども。

確かに小沢のベルリオーズの演奏は、西洋の音楽家とは違い、独特の美質(繊細さ・正確さ・清い迫力)を持つもので、それなりに優れたものとは感じていましたが、ほんとうに感動するというレベルにはなく、小沢を応援しつつも不満でした。もちろん、指揮者・音楽家としての小沢の優秀さは(ベルリーズの演奏に限定された話ではなく)現在よくマスコミに登場する佐渡裕(芸術というより部活のようなノリの音楽)とは比較になりません。また、彼の率いるサイトウキネンオーメストラは、色気も覇気もないNHK交響楽団とは比べ物にならぬほど優れています。

――――――――

この度、小沢の得意とするベルリオーズの幻想交響曲(2010年のカーネギーホールのライブ)を購入しました。小沢の新録音を聴くのは久しぶりです。
どんなかな?楽しみ~~。
オケは、サイトウキネンで、ニューヨークで大絶賛された演奏です。一楽章から気合十分。弦楽器の絹のような美しさも彼らならではのもので、終楽章の盛り上げも見事でしたが、しかし、ミンシュ(ボストン響、パリ管のCD)やクリュイタンス(1964年の東京公演のCD)の演奏を聴いているわたしは、正直、落胆しました。以前と同じ演奏です。

ミンシュやクリュイタンスではなく、いまの指揮者のものと比べればよいほうではあるので、比較する相手が悪いと言えばそれまでなのですが、どうにも、色がありません。整っていますし、上手ですし、一糸乱れぬ演奏ですが、艶が不足で色がない。豊かさに乏しく、感動が浅いのです。なにしろ決定的なのは、ベルリオーズなのに、依然として線としての表現で、面としての広がりがありません。うむーー。

もしかしてわたしの思い違いかな、と思い、
ミンシュボストン響の1962年のスタジオ録音盤を聴いて見ました。うーーん、これは違いすぎ、差があり過ぎ、音楽の豊かさがケタ違い。ミンシュの演奏で聴くと、美しい色が空間(部屋)いっぱいに広がり、艶やか。よい香りが充満します。美しく大きな壁画を見るようで、心と感覚が大満足。もう呆れるほどの違いです。

この差は、わたしにいろいろなことを感じさせ、考えさせました。

ほんとうに豊かで充実した生のためには何が必要なのか。
頭と心と身体の全体を有機的に連関させるためにはどうするか。
世界を「色づかせる」ための条件はなにか。


武田康弘
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