思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

芸大ー「サティ150周年」 サティの精神と正反対の演奏が生まれた訳。そこからの脱出のために。

2016-05-16 | 学芸
  まず、人間としていかに生きるかを考え、ダイナミックに実践しないと、音楽表現も始まらない、ということを深く自覚しないと、音楽にはなりません。
芸大生だけがダメというのではないでしょう。たぶん音大生に共通でしょう。昔の斎藤秀雄の「桐朋」黎明期は例外。
 
  もちろん、東大をはじめとする受験主義の学校もみな同じで、なんのための学問なのか、芸術なのか、全然自覚なく、ただ知る、ただ技術を磨く、というテイタラクなのは日本全国同じでしょう。フィロソフィ(恋知)の実践なき営みは、人格がない人の生に過ぎず、「習い事」「おままごと」以上にはなりません。超上手なおままごとを目がけるのがわがニッポン人!?
 
  あなたは、何をしたいのですか!何を言いたいのですか!
  なぜ、それをするのですか?なんのためにしてるのですか?
 
  サティ150周年の芸大の催し、
「サティと正反対の演奏だったわね」、というかみさんの言葉はまことに正しいと思いました。おこさまランチなのです。
 
  音符を読んでいいるだけ、楽譜に従っているだけ、それでは全く音楽にはならないのですよ。自動演奏と同じ。
  音大生に限らず、人間としての考えと人間としての力をつけないと、何をやっても「なぞり」でしかなく、平面でしかなく、影に過ぎません。立体として生きる人間になりません。
 
  まずは、手始めにサティの最高傑作「ソクラテス」(=昨日もメインとして最後に演奏していましたが)の本質を露わにした演奏であるルネ・レイホヴィッツのCDを聴くことからはじめ(おそらく芸大の演奏者は誰も聴いていないでしょう)、また、ノンブレスの水泳(平泳ぎ)で大きい呼吸ができるように身体を鍛えることが必須です。声が出ていないことには、上手いも下手もありません。基本=土台がないのですから(器楽奏者も同じこと)。さらに、それ以上に重要なのは、意味ー歌詞や楽曲の理念を明晰につかみ、それをクリアーに表出しようとする強靭な意識です。
 
  音楽に限らずですが、何事も全身でするものなのです。人間は全身で生きているのです。心と体と頭の全体存在ですし、また必ず社会的=公共的存在です。
「これをしたい、言いたい」という心に支えられた強い意思をもつことはあらゆる営みの基盤です。
 
  わが日本人は、「ほんものの人間」になるための努力をはじめないと、永遠に「人間を幸福にしないシステム」を支えるツマラナイ存在のままで一生を終えるだけです。学歴と金と権力をめがける昆虫?精神世界=内的宇宙を知らない人間の形をした外套。
 
 
  さてと、「明治維新の富国強兵=滅私奉公」による「個人の内的宇宙なき空洞のニッポン人」からの解放をめがけたいものです。それにはまず、戦前レジームへの郷愁をもつ愚かな安倍晋三とその一味との闘い(低レベルでばからしいですが)が必要でしょう。
 
  ああ、そう、芸大生も社会悪=政治悪と闘うことを始めると、人間力がつきますので、始めたらよいのです。闘わずしては、人間としては何事もはじまらないのですから。お人形でも奴隷でもなく、人間。 サティは、一生涯、闘いつづけた人間でした。子どもたちと社会的弱者の側に立ち、人間の尊厳のために闘い続けた心優しい革命家でした。「こどもの心を失わない存在の大きな大人」でした。
 
 
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「家具の音楽」を聞いている
 
武田康弘
 
 
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