思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

対話のために

2008-06-24 | 恋知(哲学)
自己感情を絶対化する、あるいは特定のイデオロギーを先立てる、それではほんとうの対話は不可能でしょう。

あらかじめ決まった結論に導くための対話は、対話ではありませんから。

結論を隠し持って、そこに誘導するために言葉を紡ぐのでは、話せば話すほど不快になり、迷宮に入り、内容の前進は得られません。

厳しい他者を避け、自分を絶対化してくれる者、全的に肯定してくれる人間を求める人の心には救いがありません。それでは生きた対等な対話は成立せず、非生産的な閉じた円環の中で次第にしぼんでいくしかないでしょう。

なにかしらの自己の優位点をかざして他者を思い通りにしようするのでは、ほんとうの発展、進展は望めないと思います。裸になり・真正面から・正直に・逃げずに話すという基本姿勢を持とうとする努力なしには、対話は成立しないはずです。

人間の生産的な生、豊かなよろこびの生は、【裸の対話】が可能にするのではないでしょうか。計略、隠匿、騙しは、結局のところ不幸しか生まないはずです。人は騙せても自分は騙せないからです。もし自分まで騙せば、自己欺瞞の地獄です。

逃げずに、こころを開いて対話することは、人間問題の打開・進展のためにも、社会問題の解決・発展のためにも、必要不可欠な条件だと思います。

ただし、対話は、自分が上位者になって話そうとすれば対話ではなくなってしまいます。社会的地位や専門知の所持者である自分が上だ、という思いがあると、必ずそれは「絶対」を匂わすような話となり、白けるからです。下位者になって話そうとするのも同じことです。年齢、性別、社会的身分、専門知の有無・・・を問わず、対等な存在でなければ対話は成立しないでしょう。

互いを対等な人間として認め合うことではじめて、丁々発止の面白く生産的な対話が可能です。上意下達の古い日本文化は、対話的精神とは無縁です。「偉がり」の心や「感情絶対化」の心をどう克服するか?それが豊かな対話実現のための一番の課題だと思います。

まずは、親子、友人、恋人、夫婦という関係の中で、よき対話をする。うまく対話が進まないのを相手のせいにしてはいけませんよ~(笑)。


武田康弘
コメント
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