思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民主制社会においては恋知=哲学は必然です。

2008-01-16 | 恋知(哲学)
生活世界における具体的な経験から自分の感覚により自分の頭で考える、という意味でのほんらいの哲学、書物からもしっかりと学ぶが、書物に頼らずに、自身の経験を反省することで哲学する営み--そのような哲学=恋知は、専門の学者よりもふつうの生活者の方がはるかに広く的確に行えるはずです。

哲学を、書物上の営みから解き放ち、ふつうの人の生活世界で生き生きと働くものにしていくことは、人間生活を大きく変える力を持ちます。
「ふつう」の生活には無限の意味が埋蔵されています。家事をし、仕事をし、テレビを見、街を歩き、電車に乗り、散歩をし、音楽を聴き、家族や人と話し、・・・・・生きる現場は、エロースの泉です。ほんらいの哲学とは、自分の心身で感じ知り、そこから考える営みなのです。過去の書物を思考の訓練やヒントのために使うのはよいことですが、それを後生大事にいつまでもありがたがっているようでは、生きた今を呼吸する思想にはならず、未来は開くことなどできるはずがありません。

未来を開き、今を充実させる有用な哲学とは、現実の生の現場に埋蔵されている豊かなエロースの世界を「言語化する」営みなのだと言えますが、そのためには自由に飛翔するイマジネーションが必要です。そのイマジネーションを無意味な空想に陥らずに開発するのがわたしの言う「意味論的な知」なのです(その実践の場が「白樺教育館」です)。

市民社会(互いの自由を認め合うルール社会)に生きるわれわれは、「権威」をありがたがるのではなく、日々の具体的経験の世界からよきもの・美しきものを見出し、それを交換し合うことで、この現実の生活を豊かで魅力あるものにしていく営みに力を注ぐべきでしょう。絶対者がいない民主主義社会で生きるわたしたちにとっては、生の意味は自分で決めざるを得ず、したがって哲学は必然です。

現代の社会においてよく生きる=意味の豊かなエロースの人生を送るには、自問自答と自由対話としての哲学=恋知としての哲学=民知の発想と実践が必要です。【自分で考える面白さ】は、それを体験として一度味わうと、もう後には戻れません。

武田康弘
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