きぼう屋

生きているから生きている

肯定されること、愛されること、愛すること、用いられること

2011年07月24日 | 「生きる」こと
自分が肯定されるということは不可欠。でも自分で自分を肯定することは不必要。他者が自分を肯定してくれることが必要。他者が愛してくれることが必要。でも自分で自分を愛することは不必要、つまり自己愛は不必要。自己愛(ナルシズム)は病でもあるわけで・・・。

自分が肯定されるということなしに僕らは(少なくとも僕は)生きていけないなあ。肯定されるためには他者から愛されることが不可欠だけど、そもそも他者との出会いすらないとき、孤独なとき、どうする?。だからやっぱり神が自分を愛しているという事実が人に不可欠な自己肯定を与えるわけだ。

♪君は愛されるため生まれたぁ。のだなあ。これでもって自分を肯定できる。そして存在を肯定されたら即行為が起こされる。それは愛するという行為。君は愛するため生まれたぁ。になるわけだなあ。神に肯定され、神に用いられる。神に愛され、他者を愛する。ここまでひとくくりで自律。これがいいね。

小泉さんが首相だったころ、彼はよくナルシストと言われたけど、ほんとそうだと思う。自分で自分を肯定する人。自分で自分を愛する人。すると、自分で自分を肯定するために自分のイメージをつくりはじめるようだ。そのイメージは多数の人にウケるものにするようだ。

自己愛的な肯定感は、多数の人にウケるイメージを大事にし始めて、中身を問わなくなる。でも多数の人にウケると数の力を得る。人とお金は集まる。で、実は大小問わず商売しているところは、人とお金を集めたいからウケるイメージを求める。でもそれは自己愛的肯定感で病的かも。

むしろ企業の利益追求のための方法論が個人の肯定感確保に用いられているという順序かも。

自己愛的肯定感は自分が護られることが目的となる。商売では儲かることのみが目的となる。そこから何が消えるか。自分が削られること、自分が傷つくこと、自分が他者のために損をかぶること、責任をとること、が消える。つまり、愛することが消える。

東電は、自己愛的肯定感のなかで外側の人を(お客様を)愛することを見事に失っていた企業のよう。ひとつの病。そしてこの病は悪。

キリスト教会をはじめ宗教も、人とお金を集めるために自分で自分を愛して多数にウケるイメージを提供しはじめていることも自己批判しつつ確認したい。宗教が中身を失っている可能性はある。そして宗教が人を愛せなくなっている可能性もある。宗教が社会的弱者にまだまだ無関心という事実がある。

これまたそもそも教会の「集める」伝道で用いた方法が企業に取り入れられた可能性もある。

そういえば奥田牧師はテレビで自己有用感という言葉を用いていたけど、これはつまり神に愛された自己肯定感と、ゆえに他者を愛し他者に頼られるという自己有用感ということかなあ。

つまり、神に愛されたら即他者を愛する、のが人。ということかなあ。