きぼう屋

生きているから生きている

神の言を伝承する

2011年07月27日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会の週報巻頭エッセイです。

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「神の言を伝承する」

 いよいよ土日に夏期小学生キャンプが開催される。
今年は北山教会、シオンの丘教会と合同で行う。
他教会との合同キャンプは当教会としては初の試みとなる。
このキャンプから教会と教会とが具体的につながる歩みを開始したい。
連盟や連合という枠の中に一緒にいるというゆるい関係のみならず、
具体的に顔を合わせて覚えあう教会どうしの関係が
今後の新しい聖書からのかたち(パウロの手紙は教会と教会を具体的につなげる)となるだろう。
 
そしてこのキャンプで、
私たち教会は若い神の子たちに教会の大切にしている事柄を伝承したい。
それは神の言である。(言の中身をここで詳しく述べるスペースがないことをお詫びする)。

教会をはじめ、人の集まる活動体が活発になるために、人は二つの方法を持つ。
一つは洗脳。もう一つは伝承。
恐らく活気ある教会の多くは牧師のカリスマによる洗脳である。
でも私は洗脳を否定はしない。
人はカリスマと洗脳とを求めるものだ。
聖書の登場人物たちからして、神がそのような人材を備えていると考えることもできる。

しかし、カリスマによる洗脳は歴史を重ねることができない。
カリスマ存在時期のみ活発であるが、それ以降は衰退する。
二千年以上の歴史を持つ教会はこのことをよく知る。
だからもうひとつの方法をさらに大切にする。
それは伝承である。

先輩の信仰者は後輩たちに自らに語られた神の言を深い響きを持って語ることが赦された。
そうして聖書が生まれたほどだ。
そして小学生キャンプにて、教会学校のリーダーや奉仕者、いや全ての先輩は、
後輩たちに自らに響く言を響かせねばならない。
「ねばならない」のである。
これが信仰者の使命であり大人の使命だ。

神は信仰者に常に語られている。
信仰者はそれを吸音材として消すこともできる。
しかし神はそれを求めない。
信仰者が楽器として神の言を響かせることを求める。
ただ、信仰者という楽器は言を大きく響かせることはできない。
なぜなら神の言は十字架の苦難であり贖罪であるからだ。
いと小さき者たちの言葉にならない悲痛や私たちの隠す罪などが、
しかしキリストの痛みとキリストの引き受けた罪としての神の言として信仰者に届く。
つまり響きづらいものとして届く。

それを先輩の信仰者は後輩たちに、
消えないように丁寧に響かせつつ伝える。
すると後輩たちにも神の言が響く。
神はこの作業のために人を同労者として選んだ。
聖霊はこの作業のために人を仲間とする。

当教会には伝承がさらに必要だ。
伝承が活発になることは、教会の意味の根幹の獲得でもある。
信仰者は伝承のために、
神に祈り、キリストに燃え、聖霊に押し出されたい。

今も確実に響いている神の言を響かせていきたい。