きぼう屋

生きているから生きている

歴史の証言と意味

2011年07月19日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「歴史の証言と意味」

本日の週報にて、59年の歴史の中で数字が四つずれていた週報ナンバーを訂正。
そして本日の週報は3,000号。
S兄とH兄が当教会の現存する週報すべてに目を通し分析するという細かい作業をしてくださり、
本日正確な数字を回復することができた。
お二人に感謝するばかりである。
さらにその作業により、週報を発行していないと思われる最初期の礼拝があることもわかった。
礼拝回数で言うと本日は3,080回目。
そこで本日の週報からは週報ナンバーに加え礼拝ナンバーも表示される。

さて、私たちは3,080回の礼拝と3,000号の週報を受けることがゆるされた。
それだけの歴史を主と共に重ねた。
そして来年は60周年。
この区切りのときに教会の歴史の歩みを次の世代に残す作業に挑戦している。
しかし歴史はどのようにして継承されるのか。

わたしは聖書から大きくわけて二つの方法を見出す。
一つは歴史の物語を証言すること。もう一つは各時代の意味を見出すこと。
前者は福音書の記述方法であり、後者パウロ書簡の方法であると言えるかもしれない。

まず大事なのは証がたくさん起こされること。
これはそのために祈りに祈ることから始まるだろう。
証は自分の体験をそのまま語られるものが望ましい。
それぞれ体験に意味付けはされているだろうが、意味よりも体験がそのまま物語られることが大事。
福音書が、具体的な場所と時間にて起こった事と会話などを物語りとしてそのまま伝えるように、
できる範囲で細かいところまで思い出しつつ、その場にいなかった次世代の者に伝えることが出来ればと願う。
いつ、どこで、どういう景色の中で、だれとだれがいる中で、こんなことがあった、
と、淡々と伝えることができたら、
実は継承の大部分が成功したこととなる。

たくさんの証が重ねられるとき、今度はその物語の意味が見出されていく。
パウロがイエスの共同体の証を聴くところからそれらの意味を与えられ、手紙としているように。

その時、意味付けをする者たちは注意する必要がある。
意味づけは歴史の物語を生かすことも殺すことも出来ることを。
意味付けとはそれぞれの物語の本質を発見し、その本質にて物語通しを関連させることである。
しかし本質は簡単に見抜けるものではない。深い洞察と知識、物語の前での沈黙と追体験とを要する。
もっとも悪い例は、
すべての物語を「神の計画」という一言でまとめてしまい、
個々の物語の内包する十字架の罪と苦難と赦し、復活の希望、
さらにそれらがごちゃごちゃに絡まっている事実が無視されてしまうというようなもの。

そうではなく、ごちゃごちゃの只中に証を聞いた者たちが身を置き、
ごちゃごちゃの只中で本質が見出され、物語どうしが繋がり、時代の特徴が見えてくるだろう。
ここに意味が与えられるはず。

そして意味付けは次世代の者たちの大切な役割である。

私たちは、京都教会による福音書(証言)と京都の信徒への手紙(意味)を見出していきたいと願う