きぼう屋

生きているから生きている

法を越えて・・・児玉教授の言葉と関田牧師の言葉

2011年07月30日 | 「生きる」こと
児玉龍彦教授の発言の精密さと重さに心打たれた。
私はとくに下記の発言に勇気付けられた。
児玉先生は言われた。

「緊急に子どもの被曝を減少させるために、新しい法律を制定してください。
私の現在やっていることはすべて法律違反です。
現在の障害防止法では、核施設で扱える放射線量、核種などは決められています。
東大の27のいろいろなセンターを動員して南相馬の支援を行っていますが、
多くの施設はセシウム使用権限など得ていません。車で運搬するのも違反です。
しかしお母さんや先生たちに高線量のものを渡してくるわけにはいきませんから、
今の東大の除染では、
すべてのものをドラム缶に詰めて東京にもって帰ってきています。
受け入れも法律違反、
すべて法律違反です。
このような状態を放置しているのは国会の責任であります。」

法律が人のためでないならば、人は法律を違反し人を守るのだ。

実は関田寛雄牧師が、
日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会での講演で、
以下のように語られた。

「国の法律ではなんだかんだと決まりがあります。
その法律違反を恐れていては、本当の仕事はできません。
日本社会において、本当に牧会するということ、
人の魂をケアしていくということは、
日本社会の法律の枠の中だけでできると思ったら大間違いです。
ぎりぎりのところでみんな生きているのです。
すれすれのところで生きている。
その法の枠を越えないことには、
その人の存在そのものを見つけることはできません。
だから私は、
国有地に朝鮮人が「不法侵入(あくまでも括弧つき)」して「不法建築」した建物を買い受けました。
だから戸手にすんでいる在日朝鮮人たちの「不法性」を共有しているのです。
彼らと同じように、私も不法なのです。
私はそういうところに何か、宮清めをしたイエス様、
また「安息日は人のためにあるのだ!」
と敢えて言って法律を越えたイエス様の自由に、
つながっていけるような気がします。
国の法律は尊重します。
尊重しますが、
このぎりぎりのところで人間の命を見捨てるような法律ならば、逆らいますよという、
いわば「開き直り」です。
それは本当に、安息日だからといって命の尊さを妨げるようなユダヤ教の当局者の動きに対して、「否!」と言ってこられたイエス様の、あの自由さというものに与れるような気がします。
大いに人権問題に役立つところは一所懸命法律を守りますが、
場合によってはそうではない。
私はそういうことを教会の信徒の方々が了承することが大事と思います。
『国法に反してまで、そんなことをする必要があるのか』というような固定観念を崩して、
国法より何より、
教会は神の国の法律に従うのが一番なのです。
『汝の隣人を愛せよ』という戒めの下で、この人となんとか一緒に生きていく。
そのために国の法律が邪魔になるときは、越えていきましょう、ということが了解できるような教会員となるためには、
教会員自身が、ホームレスや在日の方に具体的にめぐり合って友達になっていけばいいのです。
名前を呼び合う友達になっていくと、これは黙っておれない。
これはこのまま放ってはおけないということになるのです。
放っておけないという思いが、たまたま法律を越えていく、
これでいいのです」。

心熱くして聞いたことを思い起こす。
この講演は
バプ連ホームレス支援特別委員会発行「『ホームレス』と教会」に収録されている。