3.11以後の教会とキリスト者の道標としてタイトルの冊子はいいなあと思います。
そこでいくつかその冊子の言葉を紹介します。
これはtwitterで紹介させていただいたものなので140字でテーゼ的に語られたものしか紹介できていません。
もっといろんな方の言葉が冊子には載っているのですが、
文体の特徴なのでしょうか、140字以内で言い切る文体と、もっと字数をかけて語る文体があり、
その前者のみ紹介できました。もちろん後者のものも優れているので、それは冊子にて。
**********************
<本田哲郎神父の言葉>
「貧しく小さくされた仲間たちを通して、必ず神は共に働かれる」。
「選びの理由は、それしかない。一番貧しく小さくされた者です」。
「本当に一番貧しく小さくされた者を通して、神はすべての人の救いのために彼らを選んでいる」。
「ゴミとかほこりとかが集積したような一番の低み。そこから神が共に立ち上がるという、それが神の働きの本質なんだ・・・」。
「貧しいことはよいことだ。小さいことは謙遜の証だということではない。第一、イエスは謙遜の模範を示さなかった。一度もへりくだりは見せてくれなかった。むしろそこからいかにして立ち上がるべきかということを死ぬまでやっていった」。
<関田寛雄牧師の言葉>
「常識というのは必ず強い者の側、多数者の側に立って働く。それをひっくり返していくことには大きな抵抗がある。だけれども、少なくとも私たちが神の国の福音から聞いていることは、常識をひっくり返して、保証されない人の側から、周辺化される人の側からものを考え、それを常識にしていく」。
「福音は常識を否定はしない。ただ新しい常識をも作る」。
「相対評価ではない。比較して評価するものではない。その命はその命として絶対的によしとされている」。
「根元的な神さまの一人ひとりに対する絶対評価が、この社会の常識なっていくための終わりなき闘いを闘い続けていくことが、教会の宣教ではないだろうか」。
「神の愛はまんべんなく注がれる愛、本質的にはそうかもしれません。だけれども、具体的現実的には、この時この人のためにと、愛が集中するわけです。偏った愛なのです。それがキリスト教的常識です」。
<奥田知志牧師の言葉>
「マタイ25章。『いと小さき者』という視座。世界の裁きという大きなスケールのことが、いと小さき者の一人にという最も小さい者を基準として始まる」。「世界の裁きは、最も小さな者の一人にしたことによって決まる」。
「世界はいと小さき者との関係によって決定づけられる」。
「イエスは、このいと小さき者への一つの行為が、実は世界の裁き、世界の救いという事柄に直結していると語っている」。
「宗教が陥っていった大きな罠は、宗教が個人化し精神化していったことだと思う。たとえばオウム真理教は肉体性を捨て去るということを修行の目的としていた・・・」
「現代の教会はややもすると『心』の楽しみにあまんじているのではないか。身体的に現実的な暮らしが望みに満たされることについてどのような展望と責任を持っているだろうか」。
「追われゆく者たち、孤立無縁とされた者たちは、次代の新たなる世界の創造を担う可能性をもった存在なのだ」。
「教会は形骸化した晩餐式(聖餐式)に甘んじるのではなく、罪の引き受けを含む食卓共同体としてあるべきではないか」。
<谷本仰牧師の言葉>
「聖書を読むのは語るためだ。具体的な情況の中で行動し発言するために聖書を読む。知識を蓄えるためでも脳のしわを増やすためでもない」。
「弱肉強食の論理に追いやられて閉じ込められた存在という弱者(ホームレスを襲撃する若者たち)」
「会社で通用することが教会で通用してはたまらない。教会は世の中と全く違うことを言う。つまり福音を語る」。
「日ごとの糧を今日も与えてください、という主の祈り。信じることと祈ることは食べることでもある。だから教会は食べるところでもある」。
「人が人に対して『かまわないでくれ』『あんたに関係ない』という現実に対して、『黙れ』というのが教会の仕事」。
「悪霊というのは、『あんな人たちと私は関係がない』と人に言わせる働きをする者として登場する」。
「からからに乾ききって、言葉も出ないその舌に、イエスが、イエスの言葉を置いてくださる」。
「借り物でいい。借り物の言葉で勝負する。自分の言葉で勝負するうちはクリスチャンでも教会でもない。借り物の言葉、すなわち主イエスの言葉で勝負する」。
「自分のことは自分が一番よく知っている、というのはクリスチャンの言葉ではない。イエス様が自分のことを一番よく知っていてくださるから安心だ、というのがクリスチャンの言葉」。
<私の言葉>
「教会形成はキリストがする」。
「我々のイメージできる範囲を超えたところで何かが起こされていく教会形成を信じ期待する」。
「他者と接触することは危険を呼び込む。接触により疲労も覚える。しかし、その中でしか他者との出会いはなく、共に生きることも起こらない」。
「人と人とが接触する摩擦、緊張、そこからくる不安、恐怖、そして排斥。キリストの体はそれらを包含する。ゆえに安定、安全はない。しかし終末の希望に照らされ、平和の芽がある、と信じる」。
「『古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることである』ならば、私たちの手に入れた安全安定は、所詮古いものとして過ぎ去っていく程度のものであると、私たちは端から理解していいのではないか」。
「そして私たちは新しく神から出るものに期待しながら教会を生きる。すると、教会は安定しない現場に立ち続けることもできる」。
「新しい人がそこに招かれ加わる度に教会は新しく変わる。出会いがある以上、それまでとは変わる。だから常に不安定で常にゆれるのが教会」。
「他者と出会うこととは私が新しく変わること」。
「他者と出会い私が変わるという激震を起こすのが福音。和解の福音」。
「神の赦しにより限界は乗り越えられる。倫理の出発点は罪の赦しである」。「罪を告白しないところにもはや教会は存在しない」。以上ボンヘッファー。「主の癒しに与るために一つの疲労を伴う行動が要求される。それは罪の告白。疲労した教会は罪の告白により生じる疲労を避けるかもしれない。しかしその疲労と、罪を告白せず生きるその後の多大な疲労とを比べるならば、前者の疲労は比較にならないほど軽い」。
そこでいくつかその冊子の言葉を紹介します。
これはtwitterで紹介させていただいたものなので140字でテーゼ的に語られたものしか紹介できていません。
もっといろんな方の言葉が冊子には載っているのですが、
文体の特徴なのでしょうか、140字以内で言い切る文体と、もっと字数をかけて語る文体があり、
その前者のみ紹介できました。もちろん後者のものも優れているので、それは冊子にて。
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<本田哲郎神父の言葉>
「貧しく小さくされた仲間たちを通して、必ず神は共に働かれる」。
「選びの理由は、それしかない。一番貧しく小さくされた者です」。
「本当に一番貧しく小さくされた者を通して、神はすべての人の救いのために彼らを選んでいる」。
「ゴミとかほこりとかが集積したような一番の低み。そこから神が共に立ち上がるという、それが神の働きの本質なんだ・・・」。
「貧しいことはよいことだ。小さいことは謙遜の証だということではない。第一、イエスは謙遜の模範を示さなかった。一度もへりくだりは見せてくれなかった。むしろそこからいかにして立ち上がるべきかということを死ぬまでやっていった」。
<関田寛雄牧師の言葉>
「常識というのは必ず強い者の側、多数者の側に立って働く。それをひっくり返していくことには大きな抵抗がある。だけれども、少なくとも私たちが神の国の福音から聞いていることは、常識をひっくり返して、保証されない人の側から、周辺化される人の側からものを考え、それを常識にしていく」。
「福音は常識を否定はしない。ただ新しい常識をも作る」。
「相対評価ではない。比較して評価するものではない。その命はその命として絶対的によしとされている」。
「根元的な神さまの一人ひとりに対する絶対評価が、この社会の常識なっていくための終わりなき闘いを闘い続けていくことが、教会の宣教ではないだろうか」。
「神の愛はまんべんなく注がれる愛、本質的にはそうかもしれません。だけれども、具体的現実的には、この時この人のためにと、愛が集中するわけです。偏った愛なのです。それがキリスト教的常識です」。
<奥田知志牧師の言葉>
「マタイ25章。『いと小さき者』という視座。世界の裁きという大きなスケールのことが、いと小さき者の一人にという最も小さい者を基準として始まる」。「世界の裁きは、最も小さな者の一人にしたことによって決まる」。
「世界はいと小さき者との関係によって決定づけられる」。
「イエスは、このいと小さき者への一つの行為が、実は世界の裁き、世界の救いという事柄に直結していると語っている」。
「宗教が陥っていった大きな罠は、宗教が個人化し精神化していったことだと思う。たとえばオウム真理教は肉体性を捨て去るということを修行の目的としていた・・・」
「現代の教会はややもすると『心』の楽しみにあまんじているのではないか。身体的に現実的な暮らしが望みに満たされることについてどのような展望と責任を持っているだろうか」。
「追われゆく者たち、孤立無縁とされた者たちは、次代の新たなる世界の創造を担う可能性をもった存在なのだ」。
「教会は形骸化した晩餐式(聖餐式)に甘んじるのではなく、罪の引き受けを含む食卓共同体としてあるべきではないか」。
<谷本仰牧師の言葉>
「聖書を読むのは語るためだ。具体的な情況の中で行動し発言するために聖書を読む。知識を蓄えるためでも脳のしわを増やすためでもない」。
「弱肉強食の論理に追いやられて閉じ込められた存在という弱者(ホームレスを襲撃する若者たち)」
「会社で通用することが教会で通用してはたまらない。教会は世の中と全く違うことを言う。つまり福音を語る」。
「日ごとの糧を今日も与えてください、という主の祈り。信じることと祈ることは食べることでもある。だから教会は食べるところでもある」。
「人が人に対して『かまわないでくれ』『あんたに関係ない』という現実に対して、『黙れ』というのが教会の仕事」。
「悪霊というのは、『あんな人たちと私は関係がない』と人に言わせる働きをする者として登場する」。
「からからに乾ききって、言葉も出ないその舌に、イエスが、イエスの言葉を置いてくださる」。
「借り物でいい。借り物の言葉で勝負する。自分の言葉で勝負するうちはクリスチャンでも教会でもない。借り物の言葉、すなわち主イエスの言葉で勝負する」。
「自分のことは自分が一番よく知っている、というのはクリスチャンの言葉ではない。イエス様が自分のことを一番よく知っていてくださるから安心だ、というのがクリスチャンの言葉」。
<私の言葉>
「教会形成はキリストがする」。
「我々のイメージできる範囲を超えたところで何かが起こされていく教会形成を信じ期待する」。
「他者と接触することは危険を呼び込む。接触により疲労も覚える。しかし、その中でしか他者との出会いはなく、共に生きることも起こらない」。
「人と人とが接触する摩擦、緊張、そこからくる不安、恐怖、そして排斥。キリストの体はそれらを包含する。ゆえに安定、安全はない。しかし終末の希望に照らされ、平和の芽がある、と信じる」。
「『古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることである』ならば、私たちの手に入れた安全安定は、所詮古いものとして過ぎ去っていく程度のものであると、私たちは端から理解していいのではないか」。
「そして私たちは新しく神から出るものに期待しながら教会を生きる。すると、教会は安定しない現場に立ち続けることもできる」。
「新しい人がそこに招かれ加わる度に教会は新しく変わる。出会いがある以上、それまでとは変わる。だから常に不安定で常にゆれるのが教会」。
「他者と出会うこととは私が新しく変わること」。
「他者と出会い私が変わるという激震を起こすのが福音。和解の福音」。
「神の赦しにより限界は乗り越えられる。倫理の出発点は罪の赦しである」。「罪を告白しないところにもはや教会は存在しない」。以上ボンヘッファー。「主の癒しに与るために一つの疲労を伴う行動が要求される。それは罪の告白。疲労した教会は罪の告白により生じる疲労を避けるかもしれない。しかしその疲労と、罪を告白せず生きるその後の多大な疲労とを比べるならば、前者の疲労は比較にならないほど軽い」。