きぼう屋

生きているから生きている

スチュワードシップ*高価な恵みとしての献金

2011年07月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「高価な恵みとしての献金」

先月25日のスチュワードシップ・教会形成研修会にて、私たちは、
キリスト教会が特に献金において長年大切にしている十分の一という基準がある一方で
新約聖書から知ることができるのは十分の十であることを学びました。
そしてバプテストとは、
国家から自由になるためのたたかいに、
信仰の事柄として十分の十にてかかわることを選び取り、
同時に、国家により不自由とされている者たちとの連帯、あるいは彼(女)らへの支援を、
十分の十にて選び取ったことを分かち合いました。

使徒言行録に記される初代教会も似た状況であったと想像します。
それが原始共産制をとった教会の選びだったのではないでしょうか。
その時代地域にて市民に不自由と苦難を与える大きな力から解放されるために、
教会メンバーは十分の十の財力と能力等を注いでいくわけです。

さて、しかし十分の十は同時にカルトに変質する可能性を多く持ちます。
ときたま全財産を宗教団体にささげるという行為が報道され、カルトであることが批判されますが、
罪人に過ぎない私たちは、
財産を神のためではなく自分たちのために用いることを
知らず知らずのうちにすることを心に留めなければなりません。
さらに言うならば、
私たちが「神のため」を知ることができるかどうかと問われるならば、
それは自明ではないことを前提とする必要すらあります。
つまり、十分の十をささげるという行為を選び取るならば、
どんなに優れた共同体でもカルトとなる可能性が極めて高くなるわけです。

そしてその中でキリスト教会は歴史的に、
旧約聖書から十分の一という数字を見出し、それを基準としています。
そして十分の一は教会共同体の責任にて、
残る十分の九は各々の責任にて、
神のために用いることをひとつの知恵として見出しています。
ですので、例えば十分の一についての学びと分かち合いが不十分である当教会などは、
当面は十分の一という数字を味わうことが豊かな恵みに与ることであると思います。

しかし後々は、
十分の一という基準以上に、
共同体のために自分が痛みを覚えることのできる献金の精神を基準にしたく思います。
つまり余った中から献金するのではなく、
自分の生活を削ることで、
キリストが私たちのためにご自身が削り取られていることを知るという、
そういう献金に出会いたいと願うのです。
つまり自分の十字架を負う(マルコ8:34など)行為としての献金があるわけです。
しかも共に生きることとは、
互いに痛みを共有することと同じ意味と言って過言でない事柄です。
献金は共に生きる行為なのです。
そして十分の一は、不思議とだれでも自分が削られる思いを持つことのできる数値であり、
そのあたりが今もってキリスト教会全体の基準となってることと関係があるのではないかと思います。

献金は、十字架を味わうところの高価な恵みなのです。