きぼう屋

生きているから生きている

キリストはわたしのため。わたしはキリストのため、他者のため。

2011年07月23日 | 教会のこと
主が私の身代わりになる。主が私のために死ぬ。私のためによみがえる。私は主のために生きる。主のために死ぬ(ローマ14章)。私が主の身代わりになる???。難しい。どういうこと?主が私の隣にいるとか、私の内にいるとかいう表現ではなんかもの足りない。なんかもっとすごい。

キリストと人との関係は互いが互いのために在る関係。互いが自分のために互いを必要とする共依存を突破した共に生きるかたち。依存からの解放はキリストが私のために死んで生きることにより起こる。で、私がキリストのために食べて生きていずれ死ぬ。で、人間関係もこのかたちに与る。わけか・・。

脳みそが疲れたので大雑把に。つまり!自分のために生きるのは実はつまらんからさっさとやめて、キリストのために生きる!他者のために生きる!とりわけ他者の苦難の只中で!キリストの十字架にへばりつき!私は生き抜く!と日々覚悟を持って決断することを信仰というようだ。祈りつつそうしたいのだ。

自分のためにではなく他者のために!安息日は、私が主のために生き、同時に他者のために生きる時ということか。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだ(マタイ12章など)のはキリストのために食べる(ローマ14章)ためか。キリストのため!か!。

安息日の礼拝は他者のために生きること。自分のための礼拝ではなく、キリストのための礼拝であり他者のための礼拝であること。他者のために祈り他者のために讃美し他者のために聴く。一方で、緊急の他者のための業があるときに礼拝に参加できなくともその者は礼拝しているとまで解釈したら行きすぎか。

しかし他者のための業をなすためには礼拝参加が不可欠になることは業をなす者が最もよく知ることなのですが。。。

奉仕に満足はないわけだな。相手のためにするゆえに相手に行き届いたかどうかは常に不安なわけだ。自分が満足するため、スッキリするための奉仕は、実は自分を幸せにしないな。満足しない奉仕ゆえに幸せを得るわけだ。だから永遠に奉仕できるわけだな。満足したら不幸と言っても過言でないな。

他者のために祈り讃美するならば、祈りも讃美も私に満足を提供することはないのだろうな。満足できない幸せを提供してくれるわけだ。つまり、明日も他者のために祈り讃美できる幸せ。なお他者につながり行き届く可能性があるという幸せ。