きぼう屋

生きているから生きている

放射能物質汚染時代に私が救われるということは、神のさばきに生きるということなのだろう。

2011年07月21日 | 「生きる」こと
罪な私ゆえの罪な時代。罪な時代ゆえの罪な私。罪人として罪時代を生きる希望は何?どこ?いつ?誰?

罪時代のさばきと罪人のさばきは、罪時代に罪人として生き抜く希望から恵みとして起こされる。

私の罪としての東電の罪。私の醜さとしての原発村の醜さ。原発利権を壊すことで私は私を壊す。あらゆる利権とたたかうことで私は私とたたかう。そのために私は生き抜く。

原発事故で明らかになる神以外の諸力を退ける神の働きに参与する。神は私を神以外の諸力に参与する者としてさばくとしてもその神の働きに参与する。そこで私は神のさばきに与ることが赦される。さばきを逃れつつ神以外の諸力を退けようと私がするならば、それはサタンでサタンを追い出すにすぎない。

救われることの中にはさばかれることが含まれる。救われるゆえにさばかれ、さばかれるゆえに救われる。十字架のキリストを直視する。キリストの肉は切り裂かれ血はしたたる。十字架の刺さる地面には黒い血が溜まる。さばかれているキリストに私は関係付けられる。キリストが代理する私へのさばき。

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放射能物質汚染時代に私が救われるということは、神のさばきに生きるということなのだろう。

真剣に遊ぶ

2011年07月21日 | 「生きる」こと
使命をなすことも、間違いなく仕事をこなすことも、そもそも生きることも、真剣に遊ぶことなんだろうなあ。まじめに作業をするという感じではなくて・・・。リスクも楽しむというか・・・。

イエスは律法を完成させるために来たとのこと。律法をはじめあらゆる法とか、徳とか精神というものは、目的であって手段ではないのか?で、その場合の手段は・・・遊び!!律法に遊びつつ向かう。

手段が法だとガチガチで非人間的。手段を法にすると利益のために法を利用する。法はもっと尊敬されなければ!法はもっと完全でなければ!法の完全化を目指して、自由に生きる。真剣に自由を生きることこそ遊び。

遊びとしての礼拝の獲得。かしこまった服装と儀式という祭りの側面も大事だが、同時に祭の持つにぎやかに飲み食いして歌い踊り無礼講になるという面が復権することも大事かも。

幼い頃からの記憶に正直になってみる。私の歴史に、心に、何が刻まれているか?家族や友人と遊んだ記憶なんだなあ。飲み食いした記憶なんだなあ。今も心痛める記憶を遊びの記憶が癒す感じというか。キリストとの交わりが心に刻まれるのも同じなんていうと言い過ぎ?

受験勉強とかも、真剣に記憶するよりも、遊びながら、ゲーム的に、あるいはみんなわいわいしながら記憶するほうが、後々まで記憶されていることになったりしない?

遊ぶことで枠を破る。遊びは創造。遊びで言葉の概念を突き破り詩が生まれる。遊びで個々人の領域が破られ新たな関係が結ばれる。眠るのも遊び。目覚めるのも遊び。食べるのもうんちするのも脳や体を鍛えるのも休めるのも遊び。うわあ。たぶんかなり飛躍しすぎてるう。

でも間違ってはいないと思うのでした。

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