きぼう屋

生きているから生きている

無縁社会ですなあ

2011年02月15日 | 「生きる」こと
先週土曜日夜のNHKテレビで
無縁社会を考えるシリーズの討論番組が放映されまして
オクダ牧師もパネラーの一人として参加されていました

そして番組の構成から推測するに
NHKさんは
オクダ牧師の提案する「自己有用感」が
無縁社会とさせない鍵と考えていると思いました

「自己有用感」の効用はわかりやすくていいです
深い事柄が分かりやすい論になってはじめて社会も人も変わることができる
と昨今思っているところです

自己有用感の効用は次のようなものです

人は
助けて!と言える他者が必要であり
同時に
助けて!と言ってくれる他者が必要である

ということです

助けてもらうことが欠かせないのは言うまでもありませんが
助けるべき他者がいるということも
人が自己有用感を満たされてこそ存在を確認することからして
欠かせないということです

ここではこれまでの人間の存在確認の前提がひっくり返っています

これまでの日本社会の制度設計は
このテレビの討論によると
会社か家族という縁を前提にしているということですが
それはつまり
人間は単純にどこかに所属することで存在確認をする
ということを前提にしている
ということだろうなあと思います

そして討論では
会社や家族という所属が保障されなくなった今
個人として何度もチャレンジできるシステムにするか
国家に所属するか
ということを考えよう
(ちょっとテレビの討論の先を語ってしまってるかも)
ということだと思いますが

オクダ牧師は
所属感ではなく
隣の人に必要とされる感が大事であり
それも
ビジネスで必要とされるのではなく
隣の人の存在そのものを助ける上で必要とされる感が大事

というところに前提を置き換えたのだろうと思います


なんだかレヴィナス的ですねえ

テレビではオクダ牧師はちゃんと
といいますか
ほとんど語ることができていなかったですが
(ストレスがたまったでしょうねえ)

オクダ牧師の言いたいことを私流の言葉でいうならば

アイデンティティという前提をひっくり返す必要あり!
ということだと思っています


現在の日本社会の制度設計は
アイデンティティを前提としていると思っています

そして
アイデンティティを確保する場が
会社や家族であった時代が長かったわけですが
それがくずれるのはもう20年前にわかっていたので
そのあたりから
地域社会でアイデンティティを確保しよう
とか
国家でアイデンティティを確保しよう
という声がたくさん出てきたのだと思います

さらにそうなると
アイデンティティを個人に固着させる声も強くなるわけでして

国家だと右
個人だと左

というかたちで議論がされているような気がします


でもこのアイデンティティという前提がもはや変
というところからはじめる必要を覚えます


アイデンティティは
いうなれば
存在が守られているということを統合的に知る感覚だと思います

つまり人は
実質的なところ
自分の存在、生命が守られる
というところを前提にするということを
アイデンティティという言葉で表現しているのだろうと思います。

でも聖書には

主のために命を捨てる
あるいは
友のために命を捨てる
という事柄はでてきても

自分の存在をまず第一に守る
という事柄はでてこなかったりします

キリスト教会の現代の(歴史上ずっとかも)間違いは

神さまを
存在を守る方と理解していることだと思います

でも聖書は
神さまは
存在を愛する方と書きます


実は聖書の語る信仰とは
神に愛され隣人を愛する
ということでして
自分の存在が守られる
ではなかったりします

愛することは逆に存在を削りとることだったりもしますし・・・

偶像礼拝の禁止というのは
単に像を拝むことの禁止ではなく

愛してくれる神がいるゆえに他者を愛せる
ということを信じないで
自分を守ってくれる神というかたちで信じることの禁止

を言うのだと思います

という感じで表現すると
レヴィナス的なことばからボンヘッファー的なことばへとなっていくんだと思いますなあ

ボンヘッファーこそオクダ牧師の専門でもありまして・・・



つまり

これまでの日本社会は
自分を守ってくれる共同体に所属することをもって
それを縁とし
それを前提に制度設計をしてきましたが

これからは

愛し愛されるという行為によりひろがる共同体を前提にしよう
ということを
オクダ牧師は「自己有用感」という教会外に伝わる言葉で言いたかったのではないでしょうか



わたしは
端的に

なにしろ愛するのじゃ!
と呼びかけ続けたいと思います

この社会に
孤立しつつある人に
LOVE注入!

いいではないですか!

と思っています


まあ
社会はますます大きく変化するでしょうねえ

そして教会は預言者として先立って歩まねばなりませんし
当教会はすでにそうしているわけですが・・・

つまりは
愛なんですなあ