きぼう屋

生きているから生きている

生きる場所

2011年02月05日 | 教会のこと
あと一日ですが
今週の週報巻頭言です。

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「生きる場所」

本日の礼拝にてYさんの信仰告白とバプテスマが予定されています。
Yさんは生きる場所として教会家族と出会い、教会家族の源である十字架の主と出会いました。

恐らく今日においても、
まだどちらかというと、
生きる道を探すというのが流行していると思います。
しかし、私は道を進むというのはふたつ目の行程であると思います。
実はその前に、生きる場所があることが大前提として求められているはずです。

ところが、人は長いこと生きる場所が明確でないままに生きる道を求めていました。
逆に、生きる場所は道の先にあるとも考えていたと思います。
すると生きる場所は大前提ではなく最終目標とされているかもしれません。
だから、最終目標という場所ですから、そこはは極端な理想郷でもあったことと思います。

さらに人は、
そんな理想郷にたどり着いていないし、
理想郷の具体を明確に思考できていないにもかかわらず、
理想郷にこだわり、理想郷を確定しようとします。

その結果、その理想郷がその個人あるいは数人のイメージと雰囲気と精神でしかない場合が多くなります。
しかも、それに固執するばかりに、イメージなどが合わない場合、あるいは逆に壊されそうな場合、
そのような他者とはかかわらないばかりか、逃げることをしてきたのが人ではないでしょうか。

さらに、そのイメージを神の国、天国、という風に理屈付けしてしまうと、
かたくなになった自分自身から自由になることができなくなるという病を担うことにもなります。

しかし!!
聖書を通して主は、
端的に同じ時間と場所に端的に共にいる他者との交わりという生きる場所をこそ!!
神の国といいます。
神の国は人の理想卿ではありません。
互いの困窮が主の十字架を通して分かち合われるという交わりです。

それは自己実現でなく、十字架を担うことです。
自己肯定ではなく、十字架による悔い改めです。
将来の成功を求めるのではなく、今を端的に生きることです。

そしてそれこそ私たちが選び取る生きる場所です。