きぼう屋

生きているから生きている

預言者もどき

2011年02月22日 | 「生きる」こと
キリスト者と教会は預言者にならねなばりません

預言者もどきは逆に世界を悪くしてしまうことも知らねばならないと思います

預言とはただ将来を高い確率で予測する
だけではありません。
それなら予言でしょうし
もっというと
それは科学のお役目です。

知識と経験を普遍化し精度を高めることにより
将来は結構いいかんじで予測できます

しかし
預言は科学ではないわけですし
人間の知識と経験でもありません

預言は神から与えられる将来を知り伝えることです


預言者もどきの特徴をここでいくつかあげてみたいと思います

1) 自分の思いに自信を持っている
2) 自分が正しく相手が間違っていると決め付けている
3) 相手と対話することなく相手を判断する
4) 裏でいろいろする

そしてとても困ることに
預言者もどきがあらわれて元気なときは
その預言もどきによって共同体が元気になるということです

オウムをはじめいろいろな宗教の事例や
あるいは国家の事例でみんなが良く知っていることです

ただ
いずれも
カルト的です

でもその元気な共同体も

そもそももどきですので
対話性と継承性がありませんから

元気がなくなると消えます


対話しているつもりでも
自分の思いを一方的に伝えて相手の思いを深く聞くことがなく
継承しているつもりでも
自分の思いを残しているだけで対話から生まれたものは残されていないので継承されることもなく

あとは消えていきます


そして
預言者もどきは

「このままいくと最悪になる」
と預言します

となると

その預言者もどきによる預言が証明されるためには
最悪になる必要があります
すると
その預言者もどきは
最悪の結果になって証明されたら
「ほーれ見たことか」
と自慢できることとなります

なんだか変です



さて
聖書が語る預言は

十字架にかかる
というものです

キリストが十字架で死ぬというものです
そしてさらにキリストが復活するというものです

これは最悪の預言ではありません
これは人間的なものが十字架で死に
神によるものが起こされる
という預言です

そしてこの預言における決まったかたちは

預言する者が十字架を背負うということです

つまり
自分の罪ゆえに今があるから
将来はそうならないために十字架の出来事に命をかける
というものです

だから
自分の罪告白に集中します
相手の罪をつくことは時間がもったいなくてしません

さらに
丁寧に相手と対話をします
対話をして互いの罪を分かち合い互いに罪告白し
ゆえに主により和解に与ります

しかもその和解へのスパンは
永遠であります

生きているあいだに結果がでるためにするのではなく
永遠の神の国で共に歩むためにしています

キリスト者と教会は預言者であるかぎり
まずすべては祝されます

預言者もどきになったとき
すべては悪となります


このあたり
人は相当に意識している必要があると思います

すぐにもどきになってしまうのが人ですから

そして
このあたりが
神の国創造参与においては
ほんとに大事だと思います