きぼう屋

生きているから生きている

議論の目的

2011年02月20日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「議論の目的」

私たちは次週に定期総会を持ちます。
ぜひ配布された総会資料を読み、
そこから膨らむ夢や希望を存分に楽しみましょう。

夢や希望はどこからやってくるのでしょう?
それはキリストからです。

つまり私たち教会の交わりがキリストと共にキリストのために生きるとき、
それが夢と希望にあふれて生きることになります。

だから私たちが教会活動について考えるときは、
常に「キリストのため」であるかどうか、という基準から考えることになります。
キリストによる赦し、救い、癒しが
当教会を通して地域に、世界に
スムーズに働くような活動になっているか、が基準です。

そしてそれは同時に「他者のため」となります。
キリストが十字架をすべて引き受けてくださることにより
赦され、救われ、癒されたことを信じるわたしたちは、
キリストと共に、
他者の十字架を引き受ける旅に出ます。
その旅が人生です。
だから教会活動が「他者のため」のものとなっているか、も同時に基準となります。

しかし私がいくつかの教会の総会、また連盟の総会で経験してきたことは、
必ずしも「キリストのため」「他者のため」の議論をしてはいないということです。
そこでは「私のため」の議論が無意識にも多いことです。
わたしもこの事実にようやく昨今気づいて反省しているところです。

私たちは無意識にも
あらゆる行動、現象が「わたしのため」になることを基準にするようです。

一般社会では
「わたしのため」という視点から政治、教育、福祉などについて考え意見を持ち、
「わたしのため」に労働運動をします。

しかしキリスト教会は異なります。
教会は「わたしのため」基準に幸せを発見しません。
教会は「キリストのため」「他者のため」基準に夢と希望を発見し幸せを得ます。

私は次週の総会で活発な議論ができたら幸いと思います。
しかしそれはお互いに教会活動が「わたしのため」になっているかどうかではなく、
「キリストのため」「他者のため」になっているかどうかで議論ができればと思います。
すると総会がきっと礼拝の本質をもつものとなります。
祈りつつ。