きぼう屋

生きているから生きている

「いろんなの」を「どう」するか

2009年10月03日 | 「生きる」こと
日々生きていくと
いろんな人や物事と出会い
いろんな責任が生じていろんな現象が起こるので

どうしても
そういう「いろんなの」を「どう」見て受けて考えるかというのが
必要になってきます


その

「どう」

というところが
時代と共にかわってきます

でもきっと決して時代と共によくなっている
というわけではなくて
時代の雰囲気のなかで
いずれかの

「どう」

が選ばれているのだと思います


それを本日は大きく分けてみっつほどでみてみたいと思います

ひとつは
なにかしらの答えを見つけて
その答えと比較するかたちで
「いろんなの」
を考える方法があります

このなにかしらの答えは
総括
と呼ばれたこともあるし
主義
と呼ばれもするし
原理
と名づけられたりもします

そこでは
人と人は答えと答えをぶつけあって戦います

40年くらい前に流行していたやつです

そしてその後
ひとつの答えが権威をもつというのが
30年位前から10年くらい前まで流行っていました
これは原理主義なんて呼ばれていました


不思議と今
以上のふたつの「どう」がぶつかる場面に出会うことが多いです

お互いにいろいろ言うのだけれども
結局は
一応権威というテーマは出るにしろ
答えに縛られている点は同じなので
出口がないだろうなあと思います



さてふたつめですが

これは
目的は一緒というところでひとつになり
でも
プロセスは違っていいのだ
というところで
ばらばらを奨励する

「どう」

です

だから

「いろんなの」
は将来から見るかたちで考えることになります

すると
一応個性が保障されます

現在はみんなばらばらの個性でいいわけです

しかし
そういう個性を強調するほどに
まず間違いなく
同じ目的を確保しようとするのが面白いです

それが目的にならず
分かりやすい利益になる場合もあります

すると
ビジネスライクなお付き合い
となるみたいです

これは20年前くらいに流行していました


でも今は廃れたかというと
そうではなく
今は
目的とか目標から今を眺めて
手段なり戦略なりを考える
「どう」

当たり前になってしまいました

いいのかなあ?

わたしはかなり不安視しています




みっつめですが


それは
同時代に同地域に生きる者と
なにしろ
目的も意味も見つけることなく

一緒に具体的に居る

というところから
互いの具体的な身体運動(発声、表情、ぬくもり、顔色などなど)から
そのときその場で知るべきことを知り
語るべきことが語られ
受けるべきことが受けられるというかたちで
「いろんなの」
が行き来するという

「どう」

です


これは流行しません

たぶん大変だからだと思います

でもわたしはこの
「どう」
で生きていきます

この
「どう」


不思議と
人を
安定させるし
賢くさせるし
愛に向かわせるし

なによりも
すぐに自らの限界と出会わせてくれるし
それゆえに

絶対的他者を知るしかなくなるし
ゆえに
他者を知ることにもなるからです



だからわたしは

意味とか意義とか目的とか答え
ではなくて

どれだけの時間とさまざまな力(体力、知力、経済力、技術力などなど)を割いて
祈り準備し行為しているか
どれだけの情熱の中で共に具体的に生きているか

というところで

「いろんなの」

を考えています



その祈りと準備と行為と情熱が

意味を見いだせなくても
なんらかの結果を出さなくても

まったく問題ないわけです


だってね
意味とか結果とか目的ってのは
キリスト
という出来事で十分で
他のことをそこに入れる必要はないのだから


というわけで

「いろんなの」を「どう」するか

について

ちょっと書いてみました

おしまい