きぼう屋

生きているから生きている

さよなら駐車場

2009年04月06日 | 「生きる」こと
礼拝説教で二回続けて
当教会の駐車場運営の今後についての提案を
聖書からといていくという挑戦をしました

それも
一刻も早く駐車場運営をやめる
という提案です

14年前の会堂建築と同時に
駐車場もつくり
通りの方々に月ぎめで貸しています

実は10年前の赴任時に
駐車場運営をするに至ったコンセプトを役員会に聞いたり
過去の資料を調べたりしたのですが
それらしきものを得ることができず
それ以来
駐車場運営は教会を本質から遠ざけ
個々の信仰もまた本質から遠ざけることになる
と心配しておりました

でも
いったん駐車場による収入を見込んでしまったなら
それなしに教会運営ができないというところに
あっさりとはまってしまうもので
しかもお金というデリケートな問題だけに
駐車場によるお金からの解放を語ることはずっと困難でした

しかし
14年経過し
はっきり見えてきたのは
教会のある通りの方々にとって
当教会は
駐車場教会であるということです

それはたとえば
境内の広い寺が
そこに駐車場をつくって運営しているのをみたとき
わたしたちが
これだけ土地があれば生活できるよなあ
と思うのと同じように
当教会も認識されているということです

しかも通りのみなさんは
駐車場代金を当教会に支払うわけで
通りと当教会との関係は
表面上いろいろ取り繕うことはできても
実質はお金による契約関係であり
それは同時に
教会から染み出すキリストの出来事に通りのみなさんが触れるということを
教会駐車場が妨げるということになっているということです

さらには
当教会が契約時に教会関係者用の駐車スペースも
空いていたら自由に使っていい
と言っておりまして
しかもそれを聞いた借り手は
そのように借り手の都合のいいようになんでも許可してくれる教会の人をこそ
さすが聖職者
と認識しているわけで
これはこれはキリストにとって大問題なわけです

つまり
教会は
通りと距離をとって
うまいことお付き合いをしながら
駐車場収入は得るという
もっとも安価な商売関係を無意識にも選んでいることがどんどんわかってきました

さらに
その教会用スペースに駐車場の借り手が車をとめる量や回数でもって
借り手間で文句が出るようになります
あそこだけなんであんなに止めることができるのだ
というクレームが届きます

駐車場を介して仲が悪くなるということが起こります

さらに駐車場内の接触事故で
口さえきかなくなった人たちもいます

教会が安価な選びをするゆえのことと猛反省します


これは通りにとって
そして教会にとって
あまりに悲惨なことです

この状態から通りと教会が
愛と平和と和解による関係となるには
十年以上はかかるだろうと見込みますが
しかし挑戦せねばならないと思っています

さらに
許可という許しではなく
赦しに基づくのが教会であり信仰者であることを徹底的に確認せねばなりません

なんでも互いに許可して気分よくしているというのではなく
距離を縮めて共に生きる仲間となるためには
互いに言うべきこと聞くべきことから逃げることなく
たとえ不快感が生じようとも
そういう感情をも含めて
互いに受け入れ愛すという
赦し
をこそ教会と信仰者は実践せねばなりません

だから
通りの人が
聖職者のイメージとちゃうやん
とわたしを見てくれたら
それこそ
キリストの下にたっていることができているかも
と喜ぶことができるというわけでもあります



なんといっても
駐車場に利用しているスペースを
地域の子どもたちや高齢者たちが
ゆったりと過ごせるスペースにできたなら

それこそ教会的でうれしいではないですか

というわけで
駐車場運営とおさらばしたいのでありました

おしまい