朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちの内にとどまり

2018-06-17 19:05:04 | 聖書から
 人の子は、
失われたものを捜して
救うために来たのである。ルカ19:10(6/17の週の聖句) 

 わたしの霊は
お前たちの中にとどまっている。
恐れてはならない。ハガイ書2:5

 希望は私たちを欺(あざむ)くことがありません。
私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が
私たちの心に注がれているからです。ロマ書5:5

 ルカ15:1~3、11b~32
 詩139(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/17;Ⅲ日曜)

  「人の子」とは、
普通、人間を指して使われる言葉ですけれど、
イエスは、ダニエル書7:13~14、
「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
庶民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない」(新改訳)とある、
その「人の子のような方」を指して、
自分がそれだ、という意味で、
ご自身のことを「人の子」と言われたようです。
 〔御子である神〕が、人となって人の世に来た者だ、と。

 そして、イエスは、
自分が人となって人の世に来たのは、
失われていない、
さまよい出ていない、
「的外れ」になっていない、
ちゃんとやっている人を捜しに来たのではなく、

 失われている者、
さまよい出て「的外れ」になっている者を探し出して
救うために来たのだ、と。

 そして、〔父である神〕は、
自分の相続分の生前贈与を求め、
それをまとめて遠くの町に出かけ、
放蕩している弟息子の帰りを待ちわびている父親、

 全財産を、使い果たし、
無一文になって、食べるのにも窮して、
父の家を思いだし、
謝ろうと帰って来た弟息子が、まだ、家からは遠くにいるのに、
彼を見つけ、
かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけし、
一番良い着物を着せ、
手に指輪をはめさせ、靴をはかせて、
肥えた子牛を引いて来てほふらせ、
祝宴を始めた、父親のようだ(ルカ15:11~24)、と。


  〔父である神〕は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして。われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)と願って、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれている神が、
愛において、
自由意思で、自発的に、
心を一つにしておられる、
その一つに加わる者をと願って、
私たち人間を造ってくださったのだそうです。

 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その、造られた、神との一つの場にとどまることをせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになろう」(創世記3:5、22)として、
神の背き、神に対立、対抗する者となってしまったのだそうです。

 それで、このアダムとエバから出た私たち人間は、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになった者」として、生まれてきているのだそうです。

 〔父である神〕は、そのように、ご自分に背き、
対立、対抗する者になって、
創造の目的から「的外れ」になってしまっている私たち人間を、
切り捨て、廃棄処分ことを善してせず、
創造の目的のとおりに回復しようと計画されていたのだそうです。

 それで、〔父である神〕は、
この人間の歴史を導き、
ご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕を、人として、人の世に派遣し、
この方を私たち人間の身代わりにして、
私たち人間の背き、「的外れ」の責任をこの方に負わせて、
神に呪われた者として木に架け、
十字架刑で処刑し、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑された者、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そして、これを受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕を派遣し、
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に、
ご自身が一人一人に思っておられる御思いを置き、書きしるして、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になるようにしようと
されているのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
創造の目的のとおりに。

 そして、父である神は、
この、木に架けられ、処刑を受けられた方を、
死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
天のご自分の右の座に帰らせたうえで、
ご計画の時が満ちると、
再び、今度は、天の雲に乗って地に来られるようにし、
諸民、諸国、諸国語の者たちを統治するよう、
計画されているのだそうです。

 イエスは、ご自身を、
その「人の子」だとおっしゃるのですね。
人となった〔御子である神〕、キリストだと。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私の内臓を造り、
私を母の胎のうちで組み立てられた方。
私の座るのも立つのも知っておられ、
胎児の私を見られ、
私のために作られた日々が、その一日もないうちに、
私のすべてをご自身の書物に書きしるしておられる方(詩篇139:2、13 ,16)。

 失われている私を捜し出して、
イエスによって滅びから救い、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私の心に御思いを置き、
ご自身と一つ心にし、
ご自身がしようと思われることを協働していく者にしてくださるのだそうです。

この希望は、必ず、成る、
私たちを欺き、失望させることはないのだそうです。
イエスによって来られた〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの内にとどまり、働かれるのだそうですから。
この新しい週も。

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