朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

信じる者が皆、永遠の命を得るために

2018-03-25 21:31:44 | 聖書から

 人の子も上げられなければならない。
それは信じる者が皆、
永遠の命を得るためです。ヨハネ3:14~15(3/25の週の聖句)

  主の力強い御業を言葉に表し、
主への賛美を
ことごとく告げうる者があろうか。詩106:2

 大勢の群集は、
イエスがエルサレムに来られると聞き、
なつめやしの枝を持って迎えに出た。
そして、叫びつづけた。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように、
イスラエルの王に。」ヨハネ12:12~13

ヨハネ12:12~19
 詩92(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖書句3/25;Ⅳ日)

 永遠の命とは、
〔父である神〕と
〔父である神〕が遣わされた〔御子である神〕を
体験的に知ること、
つまり、この方との交わりの中で生きること、
なのだそうです。

 私たちがその関係に入れていただくためには、
イエスご自身が「上げられなければならない」と、
イエスはおっしゃるのですね。

 十字架刑を受けて、
天と地の間に掲げられなければならない、と。

 イエスがエルサレムに来られると聞いて、
イスラエルの人々は、
いよいよ、イエスが王として立ち、
死人を生き返らせ、
生まれつきの盲人の目を開き、
足のなえた者を立たせ、
5つのパンと2匹の魚で、
壮年の男だけで5千人はいた人々を満腹にさせた、
あの奇跡の力で、
圧倒的に優勢なローマ軍を追い返し、
ダビデの王国を再建してくれる時が来たと。

 しかし、イエスは、王として立とうとはせず、
自分の身を明け渡して、
十字架刑に付けさせる道を進まれたのだそうです。
 
 私たちの身代わりとなり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)
「生まれたときからの私」という霊を処刑済みのもの、死んだものとし、
聖である方が来られても、私たちが滅びてしまわないようにするために。

 そのことが成ったうえで、
復活し、〔天の父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者の心に、
〔父である神〕が
私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、〔父である神〕と
思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにしていただけるのだそうです。
神との一つの関わりの中を。
永遠の命を生きる生を。

 朝に、神である主の恵みを、
夜ごとに、神である主の真実を、
その御業を言い表し、
御手の業を喜び歌いながら(詩篇92:2~4)。
 この新しい週も。

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ご自分と心を一つにする者を求められて

2018-03-24 09:29:36 | 聖書から
主は、世界中至るところを見渡され、
ご自分と心を一つにする者を
力づけようとしておられる。歴代誌下16:9

 女はイエスがファリサイ派の人の家で
食事の席についておられるのを知り、
香油の入った石膏の壺を持って
イエスの足もとに近寄り、
泣きながらその足を涙でぬらし始め、
自分の髪の毛でぬぐい、
香油を塗った。ルカ7:37~38

 ルカ18:31~43
 ヨハネ17:11b~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/24;土)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛し合い、尊敬し合い、
その愛と尊敬においてお互いに心を一つにしておられる、
一つになっておられる方、
唯一の神、なのだそうです。

 そして、その「一つ」に、もっと加わる者を、と望まれて、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして。
われわれに似せて」と仰られて、
人間を造られたのだそうです(創世記1:26)。

 それで、この方は、世界中、至る所、あまねく全知を見渡され、
その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現し、
力づけようとしておられるのだそうです。

 イエスが、ガリラヤ地方のナインという町におられたときのことでしょうか。
あるパリサイ人
(律法を厳格に守ろうとし、自分たちは一般の人から分離しているとしたグループの人)が、
イエスを食事に招いたのだそうです。


それで、イエスはそのパリサイ人の家に入って
食卓についておられたのですが(たぶん、寝そべって横になり、左ひじをついたかたちで)、
ひとりの罪深い(不道徳な)女が、香油の入った石膏の壺を持って、
イエスのうしろに近寄り、
涙で、ほこりにまみれたイエスの足をぬらし、
髪の毛でぬぐい、
イエスの足に口づけして、香油を塗ったのだそうです。


自分の罪深さを自覚していて、その罪を赦していただいている感謝と愛が、
この女性をこのような行動に駆り立てたのでしょうか。
周りにいる人々の、
「この罪深い女」との、冷たい視線も目に入らずに。

 イエスがエリコの町の旧市街と新市街の間を通っておられたときのこと、
道ばたに座って物乞いをしていた二人の盲人が、
イエスがお通りになるのだと聞いて、
「ダビデの子のイエスさま。私たちをあわれんでください」と、
人々が黙らせようとするのもかまわず叫び続けたのだそうです。


 それで、イエスはふたりを呼び寄せ、
「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、
彼らは、「主よ。見えるようになることです」と答え、
イエスが、
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、
彼らはたちどころに見えるようになったのだそうです。

神をあがめながらイエスについて行く者に(ルカ18:35~43、マタイ20:29~34)。



イエスは、弟子たちに話しておられたのだそうです。

「さあ、これから、私たちはエルサレムに向かっていきます。
人の子(イエスがご自身のことを、よく、このように言われた)について
預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
人の子は異邦人に引き渡され、
そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
彼らは人の子をむちで打ってから殺します。
しかし、人の子は三日目によみがえります」(ルカ18:31~33新改訳)と。


そして、過ぎ越しの祭りでほふられる小羊が神殿に連れて行かれるその日に、
イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入られ(ゼカリヤ9:9~10、マタイ21:1~11)、
神の怒りが過ぎ越すために、民の身代わりの小羊がささげられるその日に、
十字架刑での処刑を受けられ、
その小羊がほふられるその時刻、午後の3時頃、
イエスは、「完了した」と言われて(ヨハネ19:30)息を引き取られたのだそうです。


日没からは、過ぎ越しの祭りの、特別に大事な安息日が始まるので、
イエスのからだは、急いで取り降ろされ、
近くにあったアリマタヤ出身のヨセフが自分のために掘っておいた墓(洞窟)に納められ、
入り口は大きな石のふたでふさがれ、
そのうえ、弟子たちが来て死体を盗み出さないようにと、
ローマ帝国の権威による封印がされ、
ローマ兵が番をしていたのだそうです(マタイ27:62~66)。


けれども、安息日(土曜日)が明けた日曜日の早朝、
マグダラのマリヤと数人の女性が墓に行ったところ、ローマ兵の姿はなく、
ふたの石は横に転がしてあって、
イエスのからだはなく、
主の使いが現れ、イエスは復活されたと告げたのだそうです(マタイ28:1~14)。


イエスは、新しい霊のからだに復活されたのだそうです。
復活の初穂として。
大麦の初穂が神殿にささげられるその日に(レビ23:4~11)。



その後、イエスは、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自分が生きていることを証しされ、
神の国のことを語った後、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。


〔父である神〕は、受け入れる者、受け取る者の、
その人自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、
このイエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑が済んだもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。


そのうえで、このイエスを通して、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを、
心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって生きる、
新しい生き方をするようにしてくださるのだそうです。


あの罪の女のようにイエスに感謝と愛をささげ、
エリコ街道の盲人のように、
イエスと心を一つにしてイエスについて行く者に。

〔父である神〕は、世界中、至るところを見渡され、
ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられるのだそうですから。

今日も。

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心の目に、命の光を与えていただきながら

2018-03-23 06:57:20 | 聖書から

主の戒めは清らかで、
目に光を与える。詩19:9

 イエスの言葉:
わたしがあなたがたに話した言葉は
霊であり、
命である。ヨハネ6:63

 ヘブル書10:1、11~18
 ヨハネ17:1~11a(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/23;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の戒め、言葉、
そこに込められた〔父である神〕の御思いは、
清くて、目に光を与え、明るくするのだそうです。

 イエスが弟子たちに話した言葉、
それは、イエス自身から出たものではなく、
〔父である神〕の御思いから出ているもの、なのだそうですが、
それは、霊であり、命なのだそうです。

 そして、その永遠の命とは、
私たちが唯一のまことの神である〔父である神〕と、
〔父である神〕が遣わされた
イエス・キリストを体験して知ること(ヨハネ17:3)、なのだそうです。

 イスラエルでは、モーセ以来、年ごとに、
民の罪の身代わりとして雄牛とやぎの血が、命が、ささげられてきました。

 けれども、これは、後に来るものの影であって、実物ではなく、
これによって、神に近づいてくる人々を完全にすることはできないのだそうです。


 そして、ご計画の時が満ちて、
御心に従って、
その影の本体であるイエスのからだが、一度だけささげられたことにより、
これをもらい、受け取る者は聖なるものとしていただけるのだそうです。

 イエスは、私たちの罪のために
一つの永遠のいけにえとしてご自分のからだをささげて後、
新しい霊のからだに復活して、神の右の座に着き、
その栄光の御座から、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置き、
思いに書き付けてくださるのだそうです(ヘブル11:1、11~18)。

 受け入れる者が〔父である神〕と思いを同じにし、
心を一つにするようにと(創世記1:26、ヨハネ17:11、21~23)。

 イエスは、過ぎ越しの小羊がほふられるその時刻に、
十字架刑での処刑を受け、命をささげてくださり、
墓に葬られ、
三日目、大麦の初穂がささげられるその日に、
復活の初穂として、新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自身が生きていることを見せ、
神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。。

  それで、この約束のことばを信じ、受け入れた者は、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きるのですね。

 私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いを、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものから来た思いであると認めながら(ロマ6:11)。
今日も。

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逆らい、退く者を、従い、仕える者に

2018-03-21 21:47:47 | 聖書から

主なる神は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、退かなかった。イザヤ書50:5

 わたしに仕えようとする者は、
わたしに従え。
そうすれば、
わたしのいるところに、
わたしに仕える者もいることになる。ヨハネ12:26

 エレミヤ書15:15~21
 ヨハネ16:25~33(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/22;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
私たちに語りかけてくださり、
私たちの耳を開いてくださるのだそうですね。

 そのとき、預言者イザヤは、
自分の考えで逆らい、横に行くこともせず、
うしろに退くこともせず、
お心のままに身を任せて行った、というのですね。

 ちょうど、イエスが、〔父である神〕のお心に従って、
抗弁もせず、逆らいもせず、侮辱されるままに身を任せ、
足の棒を持たされたら持ったまま、
十字架を背負わされたら背負ったまま、
十字架に釘で打ち付けられたら、打ち付けられるまま、
十字架刑での処刑を受けていかれたように。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっていて(創世記3:5、22)、
神の御思いのとおりに従おうとはせず、
自分の理性の善し悪しの判断で行動していく者です。


それで、〔父である神〕は、その、私自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑済み、死んだものとしてくださり、
聖である方が来られても、私たちが滅びてしまわないようにしてくださるのだそうです。


そのうえで、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、
ご自分が確かに生きていることを示し、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスを通して、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

この方をお迎えするなら、
この方が、私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

それで、逆らい、退くばかりの私たちも、
〔父である神〕、〔御子である神〕イエスと、同じ思いを思う者にしていただけ、
御思いのとおりについて行く者にしていただけるのだそうです。
ご自身の御思いを伝える口のようにも(イザヤ15:19)。

そして、イエスのおられるところにいるようにしてくださるのだそうです。
イエスが天の御国におられれば、私たちも天の御国に。


 本当の愛は、愛する相手と思いを同じにしたいもの、
一緒にいたいもの(ヨハネ16:32)、なのだそうですから。
今日も。

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すべての人が生きるようにと。喜びが満ち満ちた者に

2018-03-21 09:09:10 | 聖書から
 神の言葉:
お前は顔に汗を流してパンを得る、
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。創世記3:19

 アダムによって
すべての人が死ぬことになったように、
キリストによって
すべての人が生かされることになるのです。Ⅰコリント15:22

 ヘブル書9:11~15
 ヨハネ16:16~24(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句3/21;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「さあ人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られて、
人を造られたのだそうです。
まず、人間の住まいとして、
この天地宇宙を造り、
地球のこの自然界を用意たうえで(創世記1:1~27)。


 けれども、最初の人、アダムは、
この、神のかたち、神と一つである場にとどまることを止め、
もっと素晴らしい者に、
自分一人の理性の判断で善悪を決める者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者に」なって(創世記3:5、22)、
神にそむき、死ぬものになり、
肉体は、その取られた塵に返るものとなったのだそうです。
アダムの子孫として生まれるすべての人間が死ぬことに。


 けれども、天の神、主は、
なお、人間を大切に思ってくださって、
最初の、創造の目的に回復し、
ご自分とともに生きる者になるようにとご計画され、
人間の歴史を導き、
ついに、ご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕が人間イエスとして人の世に来てくださり、
私たち人間の身代わりとなり、
ご自身に十字架刑での処刑を受けてくださり、
すべての人のそむきの罪の処罰が終わっているものとしてくださったのだそうです。

 そして、これを受け取る者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
受け入れる者の心に、〔父である神〕の御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、〔父である神〕と同じ思いを思い、
心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。
新しい契約に生きる者に(ヘブル9:11~15)。

 〔父である神〕の御思いの成ることを求め、
その願いがかなえられ、喜びが満ち満ちた者に(ヨハネ16:23~24)。
今日も。

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