朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

御自分と一つ思いをもつ者にしてくださるのだそうですね。私たちも

2015-08-17 23:14:33 | 聖書から
 わたしは彼らに一つの心を与え、
彼らの中に新しい霊を授ける。エゼキエル書11:19

 あなたがたは神の子とする霊を受けたのです。
この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。ロマ書8:15

          (ローズンゲン日々の聖句8/18;火)

 私たち人間は、自分一人で、自分の理性で立ち、他の人を自分の判断に従わせようとする者です。

 天の神、主は、父と呼ばれる方、御子と呼ばれる方、聖である霊と呼ばれる方が、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠不変の方でありながら、それぞれが自分の考えを主張し、対立し合うのではなく、父である方は、御子である方、聖である霊と呼ばれる方を愛し、ご自分の思いのすべてを、御子である方、聖である霊と呼ばれる方に明かしておられ、御子である方、聖である霊と呼ばれる方は、父である方を愛し、尊敬し、父である方の御思いが成ることだけを願い、父の御思いが成ることだけを御自分の存在意義として、互いに、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられるのだそうです。

 天の神、主は、ご自分たちの、その一つに加わる者をと望んで私たち人間を造られたのだそうです。
 それで、御思いを文字にして外から示しても、心を一つにできない私たち人間に対し、聖である霊と呼ばれる方を私たち人間の一人ひとりの内に派遣して、この方の働きによって私たち一人ひとりの心に御思いを置いて下さり、私たち人間を御自身と一つ心にして下さろうとご計画されたのだそうです。

 この方が心に置いて下さる御思いによって生きる者を、天の神、主は、ご自身の子の身分を与えて下さるので、イエスが呼んでおられたのと同じ呼び方で、「父よ」と呼ぶことが出来るのだそうです。

 聖である霊と呼ばれる方をお迎えする者は、子としていただき、家族の一員にしていただいて、心の思いを一つにしていく者にしていただき、イエスがそうであったように、天の父である方がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。
今日も。


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唇を制すれば成功する、のだそうですが、

2015-08-17 08:56:09 | 聖書から
 口数が多ければ罪は避けえない。
唇を制すれば成功する。箴言10:19

 あなたは、自分の言葉によって義とされ、
また、自分の言葉によって罪あるものとされる。マタイ12:37

      (ローズンゲン日々の聖句8/17;月)

 善い人間でありたいと願う人は、唇を制し、悪い言葉が口から出て来ないよう努力するのですが、天の神、主は、表れた言葉だけでなく、その言葉の出どころの心を、その心の源である「霊を」問題にしておられ、その霊を取り替える道を開いて下さっているのだそうですね。

 木(その人の霊)が良ければ、実(言葉、現れた行動)も良いものだし、木が悪ければその実も悪いものになる。木の良し悪しはその実によって知られるように、人は、霊の思いが心の思いとなり、心の思いが言葉となって口から出て来るので、霊は見えませんが、その良し悪しは口から出て来る言葉によって分かるもののようです。
「心にもないことを言う」ということも確かにあるにはありますが、多くの場合、言葉によってその人(霊)がどう思っているのか、どんな人なのかが分かるのでしょうね。

 天の神、主と思いを一つにする者であるのか、善悪を知る者、天の神、主に対立、対抗している者であるのか、
天の神、主の創造の目的に沿った者であるのか、それから大きく外れている者であるのか(創世記3:22)、
自分を造って下さった方に心を寄せている者なのか、自分の理性・判断だけを優先させ、自分の思うものを神としている者であるのか(エゼキエル17章)、

ということも言葉に表れてくるということのようです。




 「主のみ名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:13)と約束され、
「人は、心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)と言われています。
 私自身という「生まれたときからの霊」は、悪い木、天の神、主の、「私たちが一つになっているように、私たちと一つになる者が欲しい」(創世記1:26)との創造目的からはずれてしまっている者であることを認め、イエスの十字架刑での処刑に合わせられて処刑済みの手続きが済ませて下さっていることをいただいて、口で言い表し、復活されたこのイエスによって派遣して下さっている「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、良い木に接ぎ木されたもの、霊を取り替えた者としていただいて、この方が心に置いて下さる御思いに沿った言葉、相手を祝福し、気落ちした者を立ち上がらせ、悲しんでいる人を慰め、平和にし、うれしく、ほっとさせる言葉が口から出て来る者にしていただけるのだそうですね(ガラテヤ5:25)。私たち。
今日も。


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