朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

満足しておられるのだそうですね。イエスは。

2015-08-05 23:35:11 | 聖書から
彼は自らの苦しみの実りを見、

それを知って満足する。イザヤ書53:11



 イエス・キリストはへりくだって、死に至るまで、

それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、

あらゆる名にまさる名をお与えになりました。フィリピ書2:8~9



        (ローズンゲン日々の聖句8/6;木)



 イエスは、さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていたのですね。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊ばなかったのだそうです。
まことに、イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったのですね。

けれども私たちは思ったのです。

彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、イエスは私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれて下さったのだそうです。




 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

イエスが受けた打ち傷によって、私たちはいやされたのだそうです。
私たちは、みな、羊のようにさまよい、

自分が思うがままに、おのおの自分勝手な道に向かって行ったのですが、

天の神、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせられたのだそうです。
 イエスは痛めつけられ、苦しんだのですが、抗弁の口を開かなかったのだそうです。

裁判をしているローマ総督ピラトが不思議に思うほどに。
まるで、ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように。
しいたげと裁きによって、イエスは取り去られたのですね。



 このように、イエスを砕いて、痛めることは父である神の御心だったのだそうです。
イエスは、この御心に、十字架の死に至るまで従順に従われたのだそうです。
そして、イエスが、自分の命を、私たちの罪過をつぐなうためのいけにえとしたので、

私たちを取り戻そうと思われた父である方の御心は、イエスによって成し遂げられたのだそうです。


 
 イエスが、私たち人間の咎を担い、自分の命を十字架刑の死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられ、私たち人間の罪を負い、そむいている私たちのためのとりなしを完成させて下さった(イザヤ53:3~12)今は、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方が私たち人間の内に来て下さる道が開けたのだそうです。

 それで、聖である霊と呼ばれる方は、ご自身を迎え入れる者の内に来て下さって、

私たちの心に、父である神と呼ばれる方の、私たち一人一人に関わる御思いを書き記して下さって、

私たちが父である神と呼ばれる方と同じ思いを思うようにして下さり、

私たち一人一人が父である方と一つ思いになって、

父である神が私たち一人一人を通してしようと思われることをして行く者にしていただけるのだそうです。
今日の分を今日。












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有ろうと思われるとおりに在る方なのだそうですね。あの方。

2015-08-05 01:14:42 | 聖書から
主に不可能なことがあろうか。創世記18:14

 恐れることはない。ただ信じなさい。マルコ5:36

 

       (ローズンゲン日々の聖句8/5;水)
...    

 モーセが天の神、主に名前を尋ねたとき、
主は「わたしはある。」「わたしは有って有る者」、
あろうと思うままにある者だと告げられたのだそうです(出エジプト3:14)。
この方がこうしようと思われて出来ないことはないということでもあるのでしょうか。

 若い時から子供を望みながらできなかった夫婦。
夫のアブラハは100歳に近く、10歳年下の妻サラも、
普通の女性にあることがすでに止まっていて、
男の子が出来ると言われても、サラは笑うしかなかったのだそうです。
が、「主に不可能なことはない」のですね。
御使いとして現れた独り子と呼ばれる神の言われたとおりに、
1年後、サラには男の子イサクが生まれることになったのだそうです(創世記18:10~15、21:1~2)。

 会堂管理者ヤイロに、「あなたのお嬢さんはなくなりました」との知らせの中で、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、娘を生き返らせて両親に返されたのだそうです(マルコ5:21~24、35~43)。

 父である神と呼ばれている方と心を一つにしていらっしゃる独り子である神、御子イエス、御父のしようと思っていらっしゃる御思いがよく分かっていて、必ず、御思いの通りが実現することが分かっておられたのですね。

 イエスが、この「わたしはある」方であると信じていたので、重い皮膚病(あるいはハンセン病)を患っていた人は、イエスに「お心一つで、私を清くしていただけます」と願ったのだそうです。
 「わたしはある」と呼ばれる方がどう思っておられるかが問題のようですね。

 聖である霊と呼ばれる方は、ご自身を受け入れる者の内に来て下さって、父と呼ばれる方の御思いを私たちの心に置いて下さって、私たち一人一人に関わる御思いを共有させて下さるのだそうです。
 有ろうと思われるとおりに在る方の、御思いについて行きたいですね。
今日も。


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