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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

追悼・ 船村徹 (5) 喪失と慟哭の日々

2017-02-28 13:17:15 | 読書案内

船村徹 喪失と慟哭の日々

 親友の高野を失い、船村はこらえようのない喪失感を酒と女に求めた。

しかし、自堕落な生活をすればするほど、さみしさは一層深まり、一日二升の酒を浴びるように飲んだ。

厳しい音楽業界の中で、

なんとかやってこられたのは高野が一緒だったからだ。

一人で生き抜いていく自信はない。狂ったように酒をあおり、女を抱いた。

船村の告白である。

 

 だが、人間は強い。

どんなに自堕落な生活に陥っても、志(こころざし)が叶わなくても、命のエネルギーは負の方向には流れていかない。

喪失と慟哭の日々が続き、

生きる力が弱くなってきても、心のどこかにかつて抱いた夢が残っていれば、

見つめ続けてくれる誰かがいれば人間は立ち直れます。

 

 東京から熱海の温泉旅館までタクシーで飛ばし、芸者をあげてのどんちゃん騒ぎで一週間が過ぎる。

金が無くなれば、作曲料の前借で、会社(日本コロンビア)から現金を持ってこさせた。

 船村の人間性もあったのか、先輩作曲家、作詞家、ディレクター達が彼を励まし、

私生活は荒れていたが、この時期いい歌を作曲している。

  「波止場だよ お父つぁん」(美空ひばり歌)、

  「東京だョおっ母さん」(島倉千代子歌)、

  「柿の木坂の家」(青 木光一歌)。

 これらはまさに生前、高野が言っていた地方色豊かな歌である。

苦しみや悲しみは、これを克服した時に人は、一回りも二回りも大きく成長する。

 船村は次のように述べている。

 人間が生きていくということは、辛いことだが傷つけられ傷つけるということでもある。

喜びがある一方で悲しみがある。

(略)いったい何人の人間を傷つけてきただろう。

何人の人間を悲しませてきたことだろう

(略)そんな思いが私の旅を「巡礼」にする。

見事に彼は立ち直り、ギターを抱えて歌う行為を彼は「演歌巡礼」と称し、
船村節は聞く人を魅了する。

  
次回から「別れの一本杉哀歌、高野公男の故郷を訪ねて」を書きます。           (2015.10.26記)  (おわり)

     (2017.02.28 加筆して再掲載しました)


追悼・船村徹 (4)  男の友情(2)

2017-02-26 09:23:56 | 読書案内

追悼・船村徹 (4)

                         男の友情(2)
 
高野は水戸の病院で死の床にありながら、詞を書いていた
 
作詞家・高野公男が残した詞は、高野自身の投影であり、
 作曲家・船村徹への愛慕の気持ちだった。
 最後の詞作ノートの最期のページに挟んであった「詞」、
 それが、「男の友情」だった。
 

「男の友情」

(1)  昨夜(ゆんべ)も君の 夢見たよ  

   なんの変わりも ないだろね

   東京恋しや いけぬ身は 

   背のびして見る 遠い空

   段々畑の ぐみの実も 

   あの日のままに うるんだぜ

(2)  流れる雲は ちぎれても

  いつも変わらぬ 友情に

  東京恋しや 逢いたくて

  風に切れぎれ 友の名を

  淋しく呼んだら 泣けてきた  

  黄昏赤い 丘の径(みち)

(3)  田舎の駅で 君の手を      

  ぐっとにぎった あの温(ぬく)

  東京恋しや 今だって 

  男同志の 誓いなら

  忘れるものかよ この胸に 

  抱きしめながら いる俺さ

          (高野公男の詞は2006年12月31日で著作権が消滅しています。)

  東京の空は、高野にとって人生そのものだったのだろう。

 東京に行きたい。

 東京には船村がいる。

 夢がある。

 羽黒の駅(高野の故郷・茨城県水戸線の駅)で握りしめた船村の手のぬくもりが手のひらに残っている。

 

  船村は、毎週土曜日になると上野から常磐線に乗り、水戸国立病院に入院した高野を見舞い、

土曜、日曜と泊まり、月曜の朝東京に戻ってくる。

これが船村が高野に示してやれる友情の証なのだ。

だがその高野がいない。

どこを探してもいない。

どうやって生きていったらいいのかわからなくなっていた。

五体からすべての力が抜けた。

 船村は、人生の無常を感じ、次のように書き「第三部 別れの一本杉」を終わる。

作曲家船村徹は、作詞家高野公男の死とともにあっけなく死んだ。

(船村)二十四歳の挽夏のことだった。いまいる私は二代目船村徹である。

 船村喪失と慟哭の日々が始まる。  


   思いのままに生きてきた。
 人に出逢い
 人と別れ
 旅をして
 酒を飲むー。
 私の傍らには、いつでも音楽があった。
 喜びも悲しみも、みんな旋律(メロディー)に閉じ込めた。
   
 船村徹は著書「演歌巡礼」の冒頭でこう書いている。

    後年船村は、歌手船村徹として各地を回り歌の心を詠い続ける。
    高野の眠る笠間の山間の村、刑務所への慰問など船村は、
    ギターを携えて「演歌巡礼」を続けることになる。
    そして、次のように綴っている。

 ……ふらり、ふらり
 流れに逆らわず
 明日からも
 思いのままに
 生きていこう。

                  (2015.10.21記を加筆して再掲載) (つづく)
     (2017.02.26)

次回は船村徹・喪失と慟哭の日々をアップします。


追悼 船村徹 (3)  男の友情(1)

2017-02-24 09:22:39 | 読書案内

 船村徹著 私の履歴書

男の友情(1) 

「おれもやっぱりあんな風に流れていくんだろうな」

 高野の故郷(茨城県・笠間)の精霊流しの夜、船村がつぶやいた。

なんと寂しいつぶやきなのだろう。

丁度それは高野が悪い咳をするようになった一年ほど前のことだった。

 

 水戸国立病院の医務室で、高野の余命が二週間と聞かされた船村は高野のつぶやき(前述)を思い出す。川面のさざ波にわずかに揺られながら、やがて闇のなかに消えていく。高野はきっとわずかなロウソクの灯りをともし水に流されていく灯ろうの短い命を自分の命に重ねて呟いたに違いない。
高野の病室に戻る道すがら船村は泣いた。

 

 高野が何か悪いことをしたか? 

私が何か悪いことをしたか?

何もしていないじゃないか。

なのになぜ高野は二十六歳の若さで、

ようやく作詞家になるという夢叶ったその時に死ななければならないのだ。

悲しみに覆いかぶさるように、悔しさがこみあげてくる。

「慙愧」(ざんき)という言葉が黒々と浮かんだ。
          
(「歌は心でうたうもの」私の履歴書より)

 

 「別れの一本杉」がやっと世間に認められ、高野はこの歌を病院のベッドで聞いていたのだろう。

 九月七日、高野の意識が混濁してきた。

この歌は同様のタイトルで映画化もされ、春日八郎は挿入歌の「別れの一本杉」を歌った。

それ故に、船村はせめて春日に、高野の意識のあるうちに、手を握って欲しいと、春日の家を訪ねる。

翌日、春日は船村と一緒に病院に行くことを承諾する。

だが、運命の風はあくまでも高野に対して非情であった。

 

「いま息を引き取りました」。

 

九月八日、春日の家にいた船村に、水戸からの電話は高野の死を伝える。

 

 高野の葬儀が終った。

映画「別れの一本杉」が公開されたのはその一週間後だった。

遺品を整理していると高野がいつも肌身離さず持っていた作詞ノートが出てきた。

病に伏しながら、病床のベッドでも書きつづけられたノートの最後のページに、

原稿用紙に清書した詞が挟まっていた……

 

 著書のこの部分を、何度も何度も読み返し、私も泣いた。

船村の無念さが、私の痛みのように伝わってきたからだ。

                          (2015.10.18記) (つづく)
(加筆して再掲載しました。2017.02.24)
      ※ 次回は、「男の友情」(2)を再掲載します。


追悼 船村徹 (2) 別れの一本杉哀歌

2017-02-22 13:30:46 | 読書案内

追悼・船村徹 (2)

別れの一本杉哀歌
  高野は目前に迫った高度経済成長と都市への人口流入という時代の波を先取りし、

「やがて、地方の時代が来る」という信念を頑なに守った。

社会の底辺を支え、都会の荒波に翻弄され、必死に生きてきた地方出身の労働者たちは、

やがて、故郷を思い望郷の念にとらわれる。

  船村も高野も食うために、生きるために何でもした。そして、音楽への情熱にいつも燃えていた。

  故郷を想い、やがて「地方の時代がくる」といった高野が書いた歌が「別れの一本杉」。

  
   泣けた 泣けた

   こらえきれずに 泣けたっけ

   あの娘と別れた哀しさに

   山のかけすも鳴いていていた

   一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ

(昭和30年 歌・春日八郎 作詞・高野公男 作曲・船村徹)

 冷たい都会の空の下で、男は望郷の念に駆られ泣いた、

東京に行ったら便りをくれとあの娘(こ)は言った。

その娘ももうとっくに二十歳を過ぎてしまった。

♪遠い 遠い 思い出しても遠い空♪

この状況を船村は著書で次のように述べている。

 私にとっても高野にとっても、栃木と茨城は遠い遠い故郷だった。望郷の念はときに胸を灼いた。だがこのままでは帰れない。帰りたくとも、帰るわけにはいかない。高野の詞には、故郷を離れて都会で暮らす人々の思いが実に巧みに、実に素直に語られていた。

    遠い 遠い
    思い出しても遠い空
    必ず東京へ着いたなら
    便りおくれと云った娘(ひと)
     りんごのような赤いほっぺのヨ
    あの泪

    呼んで 呼んで
    そっと月夜にゃ呼んでみた
    嫁にもゆかずにこの俺の
    帰りひたすら待っている
    あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はヨ
    過ぎたろに

   昭和30(1955)代、船村や高野が東京の音楽学校で夢を紡いでいたころ、地方は貧しく特に
  北海道・東北・四国・九州等の人々にとって、東京は ♪ 遠い遠い 思い出しても遠い ♪  あこが
    れの地だった。地方出身の若者たちが、苦労を重ねながら、故郷に錦を飾りたいと頑張っていた
  時代だつた。
   東海道新幹線が東京ー新大阪を4時間で走るのは9年後の昭和39(1964)年10月1日の、
  東京オリンピックが開催される10日前のことだった。
  「別れの一本杉」のように、辛い東京の暮らしで故郷を偲び恋人のことを懐かしく思う歌は
  人々の郷愁を誘うのだろう。
  「柿の木坂の家」(青木光一) 「僕は泣いちっち」(守屋弘) 「リンゴ村から」(三橋美智也)なども
  こうした歌のひとつに数えられるのでしょう。
 

 この歌の爆発的なヒットで春日八郎は演歌歌手として不動の地位を築き、

船村・高野の活動も活発になる。

 だが、皮肉にも運命の女神は、

作詞家・高野に当時不治の病と言われた重度の結核という病を見舞う。

この歌が発表された翌昭和31(1956)年、

高野は水戸の国立病院で無念の死を迎える。

26歳、あまりにも若すぎる死に、船村は慟哭する。   (2015.10.15記) (つづく)

       (2017.02.22 加筆して再掲載)
                     次回 追悼・船橋徹 高野公男との「男の友情」をアップします。


(1) 船村徹私の履歴書 読書案内「歌は心でうたうもの」 (再掲載)

2017-02-21 11:36:08 | 読書案内

      作詞家・船村徹さんが死去した。83歳だった。
  「風雪ながれ旅」
  「兄弟船」
  「王将」
  「矢切の渡し」
  「東京だよおっかさん」
  「みだれ髪」
  「北の大地」など私の好きな歌がたくさんある。
  中でも「別れの一本杉」(春日八郎)は、
  早逝した生涯の親友「高野公男」が作詞した歌で船村徹を世に出す歌でもあった。

  「お前は栃木弁の心で歌を作れ。俺は茨城弁の心で詞を書く」(高野)
  船村も高野も東洋音楽学校(現東京音楽大)の苦学生だった。栃木弁(船村)と茨城弁(高野)
  はイントネーションが似ていることから、
      二人は急速に親交を深め、将来を語り合う中になっていく。
  土の匂いのする歌。望郷の歌など5500曲の歌を生み出し、
    「演歌巡礼」や「歌供養」など船村の活動は地に足の着いた活動へと広がって行った。


  二人とも私の郷里に近いこともあり、
     船村と高野の関わりを読書案内「歌は心でうたうもの」という形で

  5回にわたりブログで掲載しました。
  以下はそれの再掲載です。 
 

 

読書案内「歌は心でうたうもの」(1) 船村徹著

 

 

本書は作曲家・船村徹の演歌人生を綴った半生記。

 

「歌は心でうたうものである。

 

テクニックがどんなに優れていても、

 

心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない」。

 

 彼が「まえがき」で述べるように、歌に対する思いが随所に書かれ、

それが船村徹の人生論にもなっていて、読者を魅了し、一気に読ませる面白さを持っている。

 

 第一部「望郷」は、

山が迫る関東平野の北の果て栃木県・塩谷町舟生に生まれた本名・福田博郎(ひろお)

多感な少年時代の姿が生き生き述べられている。

 畑から野菜を盗み軍鶏鍋で酒盛りをやり、

どぶろくでいい気分になってから帰宅するような自由奔放な少年は、

ある事件をきっかけに、高校2年で中退し、東京へ向かう。

「何かにつかれたように心は東京へと逸った」。昭和24年の春のことだった

 

 第二部「夢追う日々」、

 

 まだ焼け野原の残る東京・東洋音楽学校(現東京音大)で、

 

福田博郎、のちの船村徹は、高野吉郎・後の高野公男と運命的な出会いをする。

 

「俺は茨城だっぺよ、栃木のどこなんだっぺや」、高野が声をかける。

 

言葉のナマリはほとんど同じで、

 

栃木の田舎から出てきた船村と、

 

茨城の田舎から出てきた二人が、

 

栃木弁と茨城弁を丸出しにして、

 

音楽家への道を語り、

 

貧乏生活の中で夢をはぐくむ姿に、心打たれる。

 

 

高野十七歳、船村十九歳の青春時代が始まる。

 

 第三部「別れの一本杉」、

 

 高野の言葉を船村は次のように書いている。

 

「東京、東京と言っているが、東京へ出てきた人間はいつかきっと故郷を思い出す。

 

おれは、茨城弁で)作詞する。お前は栃木弁でそれを曲にしろ」、「きっと地方の時代が来る」。

 

 昭和2425年頃の貧しい時代からやっと、

 

経済成長の兆しが見えてきたこの時代に、時代を先取りした高野公男だった

                  (再掲載2017.02.21)                   (2015.10.14)(つづく)


サラリーマン川柳 (2) 男も女も辛いよ

2017-02-20 07:00:00 | 昨日の風 今日の風

 サラリーマン川柳 (2) 男も女も辛いよ

     賞与なの?中身はいつも寸志です
    席がない会社も家も電車でも
    「後でやる!」妻の顔見てすぐにやる
      二刀流仕事も家事も全部俺

    レストラン苦手を聞かれ妻を見る
    「あれとって」ママ口動くパパ動く
    我が家では「これ・捨てて・きて」が「
KSK」
     
一家を背負うお父さん 辛いなー
                 渥美清の寅さんが歌っていました。
      ♪おとこ~が目方で売れるなら こんな苦労はせぬものを……♪


     アモーレに会う日は仕事二倍速
     アモーレも今や我が家の新ゴジラ
    妻は言う手抜きじゃないのヘルシーよ
    「パパお風呂」入れじゃなくて掃除しろ
    上司より妻の決済高難度
    こづかいもマイナス金利と妻が言う
    守ろうと誓った嫁から身を守る
    けんかした家にもほしい地下空間
    寝顔好き確かに言ったが起きてくれ
     若いということはいいことです。
      恋人を思うだけで生きる力が湧いてきます。
      アモーレも時が経てば新ゴジラに変容してしまう。
      その変容の仕方が大きな落差になります。

     備忘録書いたノートの場所忘れ
    記憶力ないから楽しい再放送
    同窓会みんなニコニコ名前出ず    
    久しぶり! 聞くに聞けない君の名は

    ものわすれふせぐサプリを飲み忘れ
       日に日に衰えていく記憶力が悲しい
   

    
     ばあちゃんがオシャレにきめる通院日
    病院でサミットしている爺7
     せめて通院の日ぐらいオシャレしなきゃ
        病院は我々の社交場じゃ

     待機児童二人目生むのも待機しそう
    一枚のトランプ世界を攪乱し
    少子化でサンタが子どもを上回る 
     世相も笑い飛ばしてしまう庶民の力が頼もしい。
         (昨日の風 今日の風 №67)   (2017.02.20記)


サラリーマン川柳 (1) 無能な上司は笑って吹き飛ばせ

2017-02-19 07:00:00 | 昨日の風 今日の風

サラリーマン川柳 (1) 無能な上司は笑って吹き飛ばせ
  第一生命保険のサラリーマン川柳コンテストの入選作が発表された。
      入選作100句が選ばれ、上位10位は一般の投票で選ばれる。

  100句4の中から私が選んだ句を紹介します。

 サラリーマン哀歌
   
効率化提案するため日々残業
    会議する準備のためにまた会議
    
主客転倒。どこかバカバカしくも哀感の残る句です。
    長時間労働問題が、こんな形で川柳になりました。
 上司を詠んだ歌も多い
   ノー残業居なくなるのは上司だけ
   残業はするなこれだけやっておけ
   アレルギー食べものよりも上司の名
   生産性部長の異動で急上昇
   「塩」課長上司にゃいつも「神」対応
   見て学べ?どうりで部下が育たない
   暗号と思ってよく見りゃ課長の字
   我が課長丸投げだけは金メダル
   丸投げとバトン渡しは五輪級
   「誰の指示?」数分前の貴方です
   ちゃんとやれ それじゃわからん ちゃんと言え
   「言ったよね?」初めて聞いた でも言えず
   「手短に!」叱る上司の愚痴長い
   先を読め、先を読むより空気読め
   「ちょっといい」上司手招きちょっと嫌
   
 上司の無能ぶりを笑い飛ばすしたたかなサラリーマン。
 
   ポケモンで希望者増えた外回り
      一昔前、植木等が歌っていました。 ♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ♪
               
最近こうした風潮の歌はまったく見られません。
       一世を風靡した「サラリーマンは気楽な稼業」ではなく、リストラに怯え
      非正規労働者から、正社員の道を目指すとても厳しい社会になったのですね。
     
         俺よりも先に辞めるな後任者
    シン・ゴジラ俺の会社も踏んでくれ
           
 最悪の職場です。 でも、辞めるには勇気が必要です。
     いっそ、ゴジラが踏み潰してくれたなら……   

   ♪ 意地は張っても  心の中じゃ 泣いているんだ ♪
     サラリーマン諸君 頑張れ
     ♪ドブに落ちても根のある奴は いつかは蓮の花と咲く♪    

    サラリーマン諸君 頑張れ
             (昨日の風 今日の風№67)
                                                       (つづく) (2017.02.18記)
  


  


高橋まゆみ人形展 (2) 郷愁が漂っている

2017-02-17 07:00:00 | つれづれに……

  高橋まゆみ人形展
     郷愁が漂っている  
  
  懐かしい風景です。みんなの笑顔が輝いています。
  子どもたちの幸せそうな様子もいいですね。

  農村の大家族制度の中で、豊かではないけれど
  みんなが心豊かに生きていた。



  大きなかまくらはきっとじいちゃんが作ってくれたんだ。
  子どもたちが見上げる空から、雪は限りなく舞い落ちる。
  綿入ればんてんや襟巻があたたかそう。
  藁沓もきっとじいちゃんが編んでくれたんだ。




   おかあさんの膝の上、やわらかくて温かくって、ぼく大好き。
   耳かきはちょっとくすぐったいけど、大好きなお母さんを独り占めできるから大好き。
   ぼくとお母さんだけの静かな時間が流れていきます。



   爺ちゃんも婆ちゃんも
   今日も一日元気です。
   まるで、仏様みたいな、微笑みがとても気に入っています。

   生きるって素晴らしいなー





   
 (画像はすべて、チラシの裏面のものを掲載しました。)
        (2017.02.15記)   (つれづれに……心もよう№50)

 


高橋まゆみ人形展

2017-02-15 07:00:00 | つれづれに……

高橋まゆみ人形展 
     -おかえりなさい、故郷へ-

         
        人形のほとんどが「ご老人」です。
  時どき幼児が展示されていますが、
  これは、主役の「ご老人」を引き立てるための名脇役です。

  主役の「ご老人」は、老人でもなく、高齢者でもない。
  年輪を重ねた人の額に刻まれたシワひとつひとつが
  命を刻んだ年輪であり、
  尊厳に値するシワであり、
  腰の曲がりであり、
  少なくなった白髪なのだ。

  尊厳に満ちた「ご老人」なのだ。

  薄暗い会場の中で、
  おもわず
  「かあちゃん!」
 
       「とおちゃん!」
    
とつぶやいてしまいそうになる
  郷愁の風景だ。

  若くして夫を亡くし
  私を育ててくれた母の面影を彷彿とさせる。

  優しい「ご老人」たちが自然の中で、
  晩年を光り輝いて生きている。

       のどかな農村風景や、田んぼや野山で元気に遊ぶ子供たちなど、
       約100体の人形作品を情景展示にてご紹介します。
       日本人の心の故郷を見つめなおし、私たち自身が暮らす故郷の魅力を
       再発見できる展覧会です。(ポスターの説明文より抜粋)
           (つれづれに……心もよう№49)         (2017.02.14記)
   
 


富山市議選 市民を馬鹿にするな、良識を疑う (2)

2017-02-14 07:00:00 | 昨日の風 今日の風

富山市議選 市民を馬鹿にするな、良識を疑う(2) 
 (1)の続き

      いずれも元自民会派の次の3人
  市田龍一氏(62) 昨年9月に辞職
    現職議長だった市田氏は、カラ出張に加え、実際には購入していないプロジェクターやシュレッダーを購入
    したとして不正受給した40万を市に返還している。
    「去年までは反省と後悔、お詫びの日々だつた。年が明けて地元から出馬を求める声が上がり、気持ちが固
    まった」 (朝日新聞 以下青文字は朝日による)      
 
      浅名長在ェ門氏(66
) 昨年9月に辞職
    白紙領収書を使用し、市政報告会の茶菓し代約4万6千円を返還。
    市町村合併前の山田村出身唯一の市議だったため
    「議員不足による衰退を心配する声が上がって、気持ちが固まった」
     
   浦田邦昭氏(70) 昨年10月に辞職
    市政報告会の茶菓し代を水増し請求したなどとして、約29万円を返還。
    「意図的な不正ではなく、支持者からも出馬を求める声が強い」 

  3人三様、立候補の意思表示の表現は異なるが、
  「支持者の気持ちに押され立候補する」というニュアンスがが強い。

  法的に立候補の資格はあるが、政治家の良識に恥じるところはないのですか。
  品格欠ける者は政治家になってはいけないし、そういう者を支援してはいけないのです。

  富山市民の皆さん、
  くれぐれもこのような人を支援しては、
  あなた方市民の品格が問われます。

  市民としての良識を持って
  市の将来を託すことのできる品格のある政治家を見極めて、
  投票に臨むことが肝要かと思われます。

  浅名氏 立候補断念。
   「自分が指示して家族に記入させたと思われる白紙の領収書がほかにもあることが分かった。
   これ以上迷惑はかけられないと思った」と説明し、年齢も考慮して政界を引退する。

              富山市議選は4月9日告示 同16日投開票。
                                   (昨日の風 今日の風№66)

               (2017.2.12記)