追悼・船村徹 (2)
別れの一本杉哀歌
高野は目前に迫った高度経済成長と都市への人口流入という時代の波を先取りし、
「やがて、地方の時代が来る」という信念を頑なに守った。
社会の底辺を支え、都会の荒波に翻弄され、必死に生きてきた地方出身の労働者たちは、
やがて、故郷を思い望郷の念にとらわれる。
船村も高野も食うために、生きるために何でもした。そして、音楽への情熱にいつも燃えていた。
故郷を想い、やがて「地方の時代がくる」といった高野が書いた歌が「別れの一本杉」。
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ
(昭和30年 歌・春日八郎 作詞・高野公男 作曲・船村徹)
冷たい都会の空の下で、男は望郷の念に駆られ泣いた、
東京に行ったら便りをくれとあの娘(こ)は言った。
その娘ももうとっくに二十歳を過ぎてしまった。
♪遠い 遠い 思い出しても遠い空♪
この状況を船村は著書で次のように述べている。
私にとっても高野にとっても、栃木と茨城は遠い遠い故郷だった。望郷の念はときに胸を灼いた。だがこのままでは帰れない。帰りたくとも、帰るわけにはいかない。高野の詞には、故郷を離れて都会で暮らす人々の思いが実に巧みに、実に素直に語られていた。
遠い 遠い
思い出しても遠い空
必ず東京へ着いたなら
便りおくれと云った娘(ひと)
りんごのような赤いほっぺのヨ
あの泪
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ呼んでみた
嫁にもゆかずにこの俺の
帰りひたすら待っている
あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はヨ
過ぎたろに
昭和30(1955)代、船村や高野が東京の音楽学校で夢を紡いでいたころ、地方は貧しく特に
北海道・東北・四国・九州等の人々にとって、東京は ♪ 遠い遠い 思い出しても遠い ♪ あこが
れの地だった。地方出身の若者たちが、苦労を重ねながら、故郷に錦を飾りたいと頑張っていた
時代だつた。
東海道新幹線が東京ー新大阪を4時間で走るのは9年後の昭和39(1964)年10月1日の、
東京オリンピックが開催される10日前のことだった。
「別れの一本杉」のように、辛い東京の暮らしで故郷を偲び恋人のことを懐かしく思う歌は
人々の郷愁を誘うのだろう。
「柿の木坂の家」(青木光一) 「僕は泣いちっち」(守屋弘) 「リンゴ村から」(三橋美智也)なども
こうした歌のひとつに数えられるのでしょう。
この歌の爆発的なヒットで春日八郎は演歌歌手として不動の地位を築き、
船村・高野の活動も活発になる。
だが、皮肉にも運命の女神は、
作詞家・高野に当時不治の病と言われた重度の結核という病を見舞う。
この歌が発表された翌昭和31(1956)年、
高野は水戸の国立病院で無念の死を迎える。
26歳、あまりにも若すぎる死に、船村は慟哭する。 (2015.10.15記) (つづく)
(2017.02.22 加筆して再掲載)
次回 追悼・船橋徹 高野公男との「男の友情」をアップします。