雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

男おいどん 松本零士逝く

2023-02-25 06:30:00 | つれづれに……

男おいどん 松本零士逝く
   男だって 人知れず泣くことがある
   いつか その夢が自分のところで
   とまるときもくると信じて
   おいどんは ひとり四畳半で泣いた
   サルマタケがものかなしく光っていた
               (「男おいどん」最終巻の一場面)
松本零士が逝ってしまった。
  「男おいどん」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」の名作を残して。

「鉄腕アトム」の手塚治虫(1989.2)が逝き、
「ドラえもん」の藤子不二雄Ⓐ(1996.9)が逝き、
「ゴルゴ13」のさいとう・たかお(2021.9)が逝き、
わが青春時代の一ページを彩った作品を残して、還らぬ旅に出てしまった。

残っているのは、松本零士の稼ぎの少ない駆け出しのころからの付き合いだった
「あしたのジョー」のちば てつやだけになった。
食うものにも事欠く貧乏時代に『座布団のようなビフテキを食べたい』と、
サルマタケが生えるような貧乏暮らしにも負けず、漫
画道を歩み夢を貫き通した戦友のちば てつやの回想である。
「君も行ってしまったのか。もう……体中の力が抜けていくよ」
 ちば てつやよ! 日本中の若者を熱狂の渦に巻き込んだ、
「矢吹丈と力石徹」との熱い戦いのシーンが今も新鮮によみがえってくるのだ。
アル中の元ボクサー丹下ジムの会長「丹下段平」、
白木ジムの白いスーツ姿の美人葉子。
そして、最終回。
灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。
などが今でも鮮明に思い出すことができる。
だから、ちば てつやよ元気を出してほしい。
       
 『男おいどん』は、週刊少年マガジンに1971年5月から1973年8月まで連載された。
連載第一回から私はとりこになった。
 無芸大食人畜無害で何のとりえもない貧乏男。
そのうえチビでガニ股でド近眼の醜男(ぶおとこ)で、女性にもてる要素など何もない。
貧しいけれど、正直で人生をまっすぐ見つめて歩んでアルバイトをしながら
夜間高等学校に行っている大山昇太(のぼった)
だが、勤務先を首になり、中途退学してしまう。
学校どころではなく食うに困っての中途退学だから、
けなげに生きる彼は何とか復学しようと奮闘するが、
努力が報いられるほど世間は甘くはない。

 松本零士の漫画によく登場する人語を話す、
ちょっと意地悪でガラの悪い「架空の鳥」のトリさんが出てくる。
失敗が続いても、幾たびもドジを踏んでも、
男おいどん・大山昇太は志を高く持ち、負けない。
いつか故郷に錦を飾らんと自信を奮い立たせる。
そんな時大山昇太はトリさんに向かって、
「トリよ、おいどんは負けんのど!」とつぶやく。
自分自身への励ましの言葉でもあり、
トリさんにしか心情を吐露することが出来ない彼の孤独感を哀切を持って表現される。

 下宿の押し入れを開けると、洗濯していないパンツが崩れ落ちてくる。
パンツにはいつのまにかキノコまで自生している。
インキンタムシに苦しめられている、ラーメンライスが大好きな男を中心に、
ギャグとペーソスで味付けされたストーリーが大好きだった。

 残念ながら、最終回をまったく記憶していない。
 もしかすると、最終回はは未読だったのかもしれない。
 ただ、松本の連載終了の言葉がある。
 執筆を続けていくうちにどんどん話が広がっていってしまい「話が無限大になってしまった」ことから、  「ケジメが付かなくなる」として松本の方から編集部に「連載をやめさせてくれ」と
 打ち切りを申し出たという
 どうやら、何の前触れもなく原作者の意向により連載は打ち切られたらしい。

 最終回。
「いってきますんど~!」と言って下宿を飛び出し、帰ってこなかったおいどん。
おいどんの部屋の電気を消さずに待ち続けるバーサンとラーメン屋のおやじ………。


おまけ。
  映画「銀河鉄道999」の冒頭。城 達也のバリトンが旅愁をいざなう。
     
【人はみな 星の海を見ながら旅に出る
     思い描いた希望を追い求めて 果てしなく旅は長く
     人はやがて、夢を追い求める旅のうちに永遠の眠りにつく
     人は死に、人は生まれる
     終わることのない流れの中を列車は走る
     終わることのないレールの上を 夢と希望と野心と若さを乗せて列車は今日も走る
     そして今 汽笛が新しい若者の旅立ちを告げる】

    ひょっとして、あの風采の上がらない大山昇太(のぼった)も、
     
見果てぬ夢の旅路を、「夢と希望と野心と若さを乗せて」
     貧しい下宿の部屋から夢の宇宙へと旅立ったのかもしれない。

    (つれづれに……№137)          (2023.02.24記)




 

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 「逝きて還らぬ人」を詠う ⑧ 傘持って行きなさいよと亡き妻の……  

2023-02-20 06:30:00 | 人生を謳う

 「逝きて還らぬ人」を詠う ⑧
       傘持って行きなさいよと亡き妻の……

      『大切な人が逝ってしまう。
    
人の世の宿命とは言え、余りに辛い体験はいつまでたっても心が癒されない。       
    悲しいことではあるけれど、
人間(ひと)はいつかはこの試練を乗り越えて生きていかな
 ければならない。
死は予測された時間の中をゆっくり訪れる場合もあり、突然訪れる
 場合もある。
どちらの場合も、無常観と切り離すことはできない』

    5人兄弟のすぐ上の姉がなくなった。89歳。
    眠るように静かに人生の幕を下ろした。 
    童女のような笑顔が忘れられない。
    父も母も兄弟たちもみんな逝ってしまった。
    最後の一人になった末っ子の私。

 早世の部下の通夜より帰り来し夫は静かに杯重ねリ 
                    
……  斎藤紀子 朝日歌壇2020.02.23
  信頼して仕事を託し一緒に目標に向かって歩んできた部下が逝ってしまった。
  たくさんの思い出と一緒にあいつが逝ってしまった。
  迫りくる寂寥感を酒と一緒に胸の奥深くに飲み込む

 傘持って行きなさいよと亡き妻の声聞く様な午後の外出 
                      
……井村おさむ 朝日歌壇2020.03.08
        今にも降ってきそうな空模様。こんな時はいつも「傘持って行きなさいよ」と、妻の一言が
  背中を押してくれる。今日もそうだ。玄関に立ち空の向こうを眺めながら、
  背中から降ってくるあの声を待っている私がいる。

吾亦紅野薊(われもこうのあざみ)野菊野の花で棺を満たして亡妻(つま)送りたり
                      
…… 加藤宜立 朝日歌壇2019.3.17
  美しさを競うような花ではなく、野の花を摘んで小さな一輪挿しに挿す。
  玄関や居間のテーブルの上、電話の脇にも野の花がいつもあった。
  一輪挿しの素朴さのなかで、野の花がひっそりと息づいていた。
  今日は、野の妻の好きだった野の花の野辺送りだ。花に埋もれて妻は野辺の花の一輪となった。

なき妻をさびしがらせずひな飾る 
             
……  小倉克(かつ)允(まさ) 朝日俳壇2019.3.10
  妻の嫁入り道具。少し色あせた古いお雛様。
  在りし日の妻をしのびながら、お雛様を飾る。

いくたびも雪の深さを聞きし母逝きてしずけしふる里の雪 
             
…… 沼沢 修 朝日歌壇2019.1.20
  「雪は降っているかい」。病床の床に横たわり、何度もなんども繰り返される母との会話。
  母は届かぬ所へ行ってしまったけれど、深い雪の重さの中には、母の生活の匂いがこもっている。
  しんしんと降り続く雪を見つめ、母との思い出を反芻する。

母逝きてしみじみ想う吹雪く夜の納豆汁のづくりの味 
                                                …… 沼沢 修 朝日歌壇2019.2.24
  納豆汁の温かさがしみじみと迫ってくる。吹雪の夜は特に母の元気な時の様々のことが思い出される。
  失ってみて初めて分かる母の味であり、温もりである。「吹雪の夜」と「納豆汁」の対比が
  母への思い出につながる場景描写が好きです。

    (人生を謳う)       (2023.02.17記)

 

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ニュースの声(23)  俳優 佐野史郎さんのつぶやき

2023-02-15 06:30:00 | ニュースの声

ニュースの声(23)  俳優 佐野史郎さんのつぶやき
  多発性骨髄腫を経験した(2023.02.04朝日新聞・がんとともに)
                       4日は『世界対がんデー(World Cancer Day)
                       2人に1人がかかる時代と言われている。一人一人が、
                       がんに対する意識を高め、行動を起こすことを目的に
                       世界各地で取り組みが行われる。新薬が開発され、医
                       学の進歩があっても、がん対策の基本的姿勢は「早期
                       発見」「早期治療」だ。世界中で人々ががんのために
                       一緒にできることを考え、約束を取り交わし行動を起こ
                       す日。それがワールドキャンサーデーです。

権力者は、「幸せであることは、経済的に満たされることだ」とという物語を作り、
      多くの人々がそのルールー信じているんですよね」
    でもそれは違う、と佐野史郎さんは言う。
   血液のがんの一つ『多発性骨髄腫』の告知を受けた時彼は言った。
   「どうしたらいいんですかね?」。
   難病と言われるがんを宣告され、ショックをうけたり、おろおろしたりという心の葛藤はなかった。
   告知を冷静に受け止めた彼は、自分が罹患したがんに、
   どう向き合ったらいいのか、自分らしく生きていくのに、
   「どうしたらいいんだ」と、これから先の俳優としての人生行路に思いを巡らせる。
   「冷静に考えれば、存在しているという意味では、虫や微生物などの他の生き物と同じだと思う」
   (その時が来れば)命が尽き、姿がなくなっていく。
   そう考えると、別に人間の死だけ、自らの死だけを中心に捉えて、
   「気の毒」とか「かわいそう」とか「特別悲しい」とは思わないで済みます。
   喜怒哀楽を超えた、ある意味達観した佐野史郎さんですが、
   (手術が済んで)高熱と剣山で刺されるような痛みが続いたとき、
  「もうだめかな、帰りたい―」
  たった一晩、弱音を吐いた夜。でも、
  「乗り越えなきゃ」、「まだまだ」
  弱音を吐いた自分を叱咤するようにつぶやいた。
  経過観察を受けながら、少しづつ仕事を再開し始めたが、
  再びがんになることへの恐れはあるが、
  いたずらに悲観的にならない。根拠のない期待も持たない。
  この地球の中で、「人間だけが特別な存在ではな」く、
  生きとし生けるものすべての生き物が、その時を迎えて『命』を全うする。
  そう考えることで、困難を乗り越え、救われることがある、と言われているような気がする。

     (ニュースの声№23)         (2023.02.13記)
  


                     

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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風の行方・原発回帰  あの時の教訓はどこに生かされたか 

2023-02-11 06:30:00 | 風の行方・原発

風の行方・原発回帰  あの時の教訓はどこに生かされたか

原発の運転期間は、2011年の福島第一原発事故後の原子炉等規制法が改正され、
原則40年。
原子力規制委が認めれば20年延長できると定められ、
最長で60年の運転が認められた。

事故以降、歴代政権は原発への依存度を低減する方針を掲げてきた。
岸田首相は再稼働を進める一方で、
新増設や建て替え(リプレース)は現時点では想定していないとしてきた。
新たに建てなければ、いずれ原発はゼロになる。

新増設に転換すれば、将来も長期にわたり原発に依存することになる。
原発は自然淘汰され、再生可能エネルギーが普及していくのか。
それとも、地球温暖化問題で脱炭素を理由に復活し、電力の安定供給に舵を切るのか。
  
福島原発1号機水素爆発の瞬間(2011.3.12午後3時36分)と崩壊した建屋。
左写真は『福島中央テレビ』の映像で、全国放送された。
日本記者クラブ特別賞を受賞。

原発回帰(原発政策の転換)
  あれから11年が過ぎた、2022年秋、突然のように原発政策の転換が示された。
  原発の新増設や建て替えを検討し、
  原則40年の運転期間の延長も検討すると。
   脱炭素の加速化や、ロシアのウクライナ侵攻に伴いエネルギーの供給が不安定になっている。
    電力の安定供給は喫緊の課題だろう。
    しかし、11年前の福島第一原発事故の痛ましい人災事故を忘れてはいけない。
    3基の炉心溶融(メルトダウン)は、日本だけでなく、
    世界をも震撼させたほど甚大な被害をもたらした。
    「在日アメリカ人は本国に帰国すべし」と友好国のアメリカは最大の危機感を持った。
    周辺の住民は故郷を追われ、23年の現在でも帰還困難区域に指定され、
    避難を余儀なくしている人々も多い。

         帰還困難区域の除染もままならず、廃炉などの事故処理の見通しさえつかない。
    汚染水の海洋放出は漁民の反対にあい、保証金をちらつかせながら見切り発車をせざるを得ない。
    高レベルの放射性廃棄物は、
   最終処分地が決まっていない。
   放射能が十分に下がるまでに数十万年もかかるといわれている。
   こんな危険なものを地下深く埋めて、だれが責任をとれるのか。
   使用済み燃料のプルトニウムは核兵器の材料になるから、国際的に厳しく管理されていて、
   日本はプルトニウムの減量を国際公約しているのだが、
   高速炉の開発は、巨費をつぎ込み、挙句の果てにとん挫したままだ(バックエンド問題)。
   経産省の試算によれば、2030年に新設の原発は、事業用の太陽光発電よりも割高になる。
   加えて、新型炉には開発初期のリスクもある。

   原発のコストは規制の厳格化などにより、高騰している。
   原発事故前に1基約4千億円だった建設費は事故後、欧米などでは1兆円を超えるという。
   新規建設はもはや、国による補助なしには成り立たず、国民負担はまぬがれない。

   ざっと上げただけでも以上のような難問がそろっている。
   原発関連の反対運動が起きれば、政府は札束で頬を打ち強引に政策を推し進めてしまう。

   脱炭素問題やロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー危機を踏まえて、エネルギーの安定供給
   に舵を切る。
   昨年暮れには、原発が再稼働に必要な審査などで停止している期間を除外する改正案を提出。
   つまり、最大60年とされた運転は、仮に運転停止期間が10年あれば、
   最長で70年間運転できることになる。
   
そうして、廃炉を迎えた原発の代わりに新しい原発をつくる「建て替え」を進める
   方針も明らかにした。
      まとめ・自民党総合エネルギー戦略調査会の骨子
           原発の新増設・建て替えを推進する。
           運転期間の延長。
           使用済み核燃料の処理(バックエンド問題)の推進。
  
 あの悪夢のような11年前、
 
浪江町に住んでいた佐藤さんは
 「原発が爆発して2回も避難した。これからどうなってしまうのだろう」と不安をつぶやく。
 「俺、ちと長生きしすぎたな。いやなもの見ちまった」と被災直後の4月、
 飯舘の自宅で、104歳の命を絶った大久保さん。104歳まで生きて、最後の選択に「自死」を
 思うとやりきれない。(2022.12.24朝日新聞天声人語参照)

  当時の記録や被災者の声を改めて読み直せば、被災者の声が、現在でも生々しくよみがえってくる。
  原発事故からたった11年、その傷も癒されぬうちに、
  前述のような大きな問題を抱えたまま、原発回帰・推進に舵を切る岸田政権に、
  いったいこの国のリーダーは、国の未来にどのような設計図を描いているのだろうと不安になる。
  世界を震撼させた原発事故の教訓はどこに生かされたのだろう。

        (風の行方・原発№42)             (2023.0210記)
  
 


         

   

 


   


   

 

 


    

 

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ニュースの声(22) 性暴力 他

2023-02-03 06:30:00 | ニュースの声

ニュースの声(22) 性暴力 他
 ① 性暴力 示談協議進まず
      陸自元隊員らを提訴 (朝日新聞2023.01.31)
   国と加害者元隊員5人を提訴。元自衛官のIさん
実名で被害を告発。
     性暴力の被害は多くの場合、泣き寝入りで終わってしまうケースが多いが、
       消して泣き寝入りはしないという決意に敬意を表します。
     損害賠償訴訟についてのIさんの会見での
コメント。
    「できることなら戦う選択をしたくなかったが、(元隊員等は)反省していないと感じた。
    ハラスメントの根絶は不可能なんじゃないかと思った」
     「震災で自衛隊の方々に助けてもらったので、自衛隊への感謝は忘れないし、今でも好き。
    好きな自衛隊を辞めざるを得ず、たくさんのものを失っているので、
    その責任をしっかりと取っていただきたい」 
     希望に燃えて入隊した自衛隊で彼女が経験した辛いセクハラは、
    何事にも代えがたいたくさんのものを奪ってしまった。
    社会人としてスタートした憧れの職場で、「人々の役に立ちたい」という彼女の夢だけでなく、
    生きる力さえも奪いかねない卑劣な行為だったことを、加害者の5人の元隊員は自覚し、
    Iさんに謝罪すべきだ。
    「一人一人が大切にされて、正しい正義感を持っ隊員や組織になってほしい。
    オープンにして真実を明らかにしたい」
    
② 戦争の記憶 今も夜が怖い (朝日新聞2023.01.30) シリーズ ー人生の贈り物ー
  建築家 原 広司氏 少年時代の戦争
   1944(昭和17)年
ごろには上級生は集団疎開でいなくなった川崎。
   この時、原氏小学2年生。
    食糧の配給事情は逼迫し、大豆の油を搾り取ったカスとか、最後はクマザサの葉と茎とか。
    ちょうちん行列が行われ、出征する人を見送る。
    みんな「立派に死んできます」とか言ってね。
   
   兵隊になりたいなんて全く思わなかった。
   夜は空襲で、ほとんど防空壕。
   戦争に行きたくないし、死にたくもない。
   だから夜が怖いんです。
       現在87歳になっても、夜が怖いという原氏の記憶に焼き付けられた戦時下の
      様々な出来事がトラウマとなってよみがえってくるのでしょう。
       お腹をすかした育ち盛りの少年にとって、食べるものへの希求はきっと今でも
      よみがえってくるのでしょう。
      私の母などもよく戦時下の食糧難の時代を振り返り、
      ひもじい思いを後年になって語ってくれました。
      あの時代の少年たちの夢は、「立派な兵隊さんになる」ことだったようですが、
      「兵隊になりたいなんて全く思わなかった」と、
      当時の少年には珍しい「精神の自立」を持った少年だったのでしょう。
      少年の目を通して見た戦時の、
      当時としてはちょっと危ない(危険な)考えを持っていた少年だったのでしょう。
      原少年はちょうちん行列の群れの中で、ただ一人裸の王様を見つめられた少年だった。
               
            原 広司について
                
1936年生まれ。建築家。
                札幌ドーム、大阪梅田のスカイビル、JR京都駅ビルの設計。
                日本建築学会賞、野村藤吾賞など受賞。

(ニュースの声№22)      (2023.01.02記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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