船村徹著 私の履歴書
男の友情(1)
「おれもやっぱりあんな風に流れていくんだろうな」
高野の故郷(茨城県・笠間)の精霊流しの夜、船村がつぶやいた。
なんと寂しいつぶやきなのだろう。
丁度それは高野が悪い咳をするようになった一年ほど前のことだった。
水戸国立病院の医務室で、高野の余命が二週間と聞かされた船村は高野のつぶやき(前述)を思い出す。川面のさざ波にわずかに揺られながら、やがて闇のなかに消えていく。高野はきっとわずかなロウソクの灯りをともし水に流されていく灯ろうの短い命を自分の命に重ねて呟いたに違いない。
高野の病室に戻る道すがら船村は泣いた。
高野が何か悪いことをしたか?
私が何か悪いことをしたか?
何もしていないじゃないか。
なのになぜ高野は二十六歳の若さで、
ようやく作詞家になるという夢叶ったその時に死ななければならないのだ。
悲しみに覆いかぶさるように、悔しさがこみあげてくる。
「慙愧」(ざんき)という言葉が黒々と浮かんだ。
(「歌は心でうたうもの」私の履歴書より)
「別れの一本杉」がやっと世間に認められ、高野はこの歌を病院のベッドで聞いていたのだろう。
九月七日、高野の意識が混濁してきた。
この歌は同様のタイトルで映画化もされ、春日八郎は挿入歌の「別れの一本杉」を歌った。
それ故に、船村はせめて春日に、高野の意識のあるうちに、手を握って欲しいと、春日の家を訪ねる。
翌日、春日は船村と一緒に病院に行くことを承諾する。
だが、運命の風はあくまでも高野に対して非情であった。
「いま息を引き取りました」。
九月八日、春日の家にいた船村に、水戸からの電話は高野の死を伝える。
高野の葬儀が終った。
映画「別れの一本杉」が公開されたのはその一週間後だった。
遺品を整理していると高野がいつも肌身離さず持っていた作詞ノートが出てきた。
病に伏しながら、病床のベッドでも書きつづけられたノートの最後のページに、
原稿用紙に清書した詞が挟まっていた……
著書のこの部分を、何度も何度も読み返し、私も泣いた。
船村の無念さが、私の痛みのように伝わってきたからだ。
(2015.10.18記) (つづく)
(加筆して再掲載しました。2017.02.24)
※ 次回は、「男の友情」(2)を再掲載します。