雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

伝承 お伽羅哀話 (2)

2018-10-12 17:30:00 | 郷土の歴史等

 伝承 お伽羅哀話 (2)

名主は反対しましたが他に代わりがあろう筈もなく
とうとう賛成し人柱とすることが決まりました。
嫌がるお伽羅を
「皆の為村のために犠牲になってくれ」といい水中に投げ込んでしまいました。
お伽羅は哀しい悲鳴と共に濁流の中に身を没してゆきました。

 やがて悲しい出来事も終わり村は水没することもなく
家屋財産田畑何ひとつ失うことなく人々は助かりましたが
一人として明るい表情を見せる人はいませんでした。

皆が罪の意思義にさいなまれ、
ある者は「川の中からお伽羅の泣き声が聞こえた」といい、
又、村に疫病が流行り始めると「お伽羅の祟りだ」と言って恐れました。
 いつしか人柱にしたお伽羅の供養をしようということになり
村中こぞって鬼怒川辺りでお伽羅の霊を慰めました。
村落の菩提寺でもありこの地方の本寺でもある安楽寺に供養塔を建てて
お伽羅の菩提を弔いました。
疫病もおさまり平安な暮らしが戻るとお伽羅の供養のためとして
「伽羅免」と呼ばれる田畑をお寺に寄進し
永代に亘り供養がつとまるようにとの村人の願いからでした。
ここにまつられている石塔は村人の改心と
感謝の誠をあらわしたものと伝えられています。
   
 やさしいお伽羅の哀しい一生を思い遣り
懺悔と慈悲の懇ろなる供養と末永き回向が勤められますことを念じつつ
  南無阿弥陀仏 南無妙法一心観仏        合掌

天台宗別格本山正覚山蓮前院 厄除元三大師 安楽寺

  以上が2回にわたって紹介した「伝承 お伽羅哀話」の全文です。
  さて、「伝承」として紹介されているお話ですが、
    果たして、この話に信憑性があるのか?
  お伽羅の供養のためとして「伽羅免」と呼ばれる田畑をお寺に寄進」
    とあるので、この安楽寺に寄進された「伽羅免」が 
  現在でも残っているのか?
    さっそく、安楽寺の住職さんに確認の電話を入れてみました。
  「伽羅免」は残っていないが、
  お伽羅が住んでいた場所(庄屋の家?)は特定できています。
    つまり、伝説ではなく、伝承としてこの地域の村人のあいだに語り伝えられた
  「お伽羅」哀話だということなのでしょう。
 
  遠い昔におきたお伽羅の不幸な物語の「哀話」を、後の世に伝え、
  供養塔には今も花が供えられています。
  人間の身勝手な行為とお伽羅の霊を敬い供養する相反する気持ちでわありますが、
  二面性を持つ人間の行動パターンとして認識することも大切なことと思います。
                                   (つづく)

          (2018.10.12記)      (郷土の歴史等№7)

    次回は番外編として、各地に伝わる「人柱」伝説について掲載します。

 

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伝承 お伽羅哀話 (1)

2018-10-09 21:50:45 | 郷土の歴史等

伝承・お伽羅哀話
   両側に深い木立の続く緩やかな上りの表参道の先に長寿門が現れる。
    
  
  この門をくぐれば厄除開運 健康長寿 病気平癒がかなえられるという
  有り難い門で長寿門と言われている。
  門をくぐり、境内の端を西の方に歩いていくとお伽羅の供養等が
  忘れ去られたようにひっそりと建っている。
  土地の人が供えたのだろうか、野菊と造花がお伽羅の悲しみを労わるように
  生けてあった。
  
 
    お伽羅の供養塔           伝承 「人柱お伽羅哀話」案内板

 伝承「人柱お伽羅哀話」(案内板より)

昔、幾日も幾日も大雨が降り続いた年がありました。
鬼怒川は増水し、
河畔の村々では皆が今にも決壊しそうな堤防を固唾をのんで見守っていました。
渦巻く濁流にすべてを押し流される恐怖心は募るばかりで
誰も彼も為す術もなく天を仰ぎ無力感に襲われるばかりでした。
そんなとき誰云うともなく
「龍神様に人柱をたてて怒りを鎮めてもらおう」と言い出しました。
その声は次第に広がり、
誰を人柱にするかということになり、
誰もすすんで人柱に立てようとする人はいませんでした。

 人柱をたてるとは難工事の際荒ぶる神の心を和らげるため
犠牲(いけにえ)として生きた人を水底や土中深く生き埋めにすることであり、
誰一人として愛しいわが子を人柱にはしたくなかったのです。
 その時何処からともなく「お伽羅を人柱にしよう」と誰かが云い出しました。
お伽羅と云う娘は諸国巡礼の母娘の二人連れで
旅の途中常総市まで来た時母は病気で亡くなり、
天涯孤独の身となった娘でした。
名主が境遇に同情し奉公人として養っておりました。
気立ての良いこころのきれいな娘でしたが、
村人たちは身寄りのないお伽羅を人柱にしようとしたのでした。
                            (つづく)
        (2018.10.9記)       (郷土の歴史等№6)

 

 

 


 

 

 

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塩は何時ごろ作られたのか (郷土の歴史№6)

2018-01-10 08:06:28 | 郷土の歴史等

塩は何時ごろから作られたのか
「塩」は生物にとって大切なものです。
アフリカの原野などでは動物たちが昔から本能的に岩塩や塩湖で補給していたことが知られています。
奈良時代の「常陸国風土記」には霞ヶ浦沿岸の人々が製塩していたことが記載されているそうです。

 1万年以上も続いた縄文時代の後~晩期にはすでに製塩されていた証拠が出土しています。

あの素晴らしい縄文土器を生み出した縄文人の精神性の高さには驚かされます。

製塩土器 茨城県・広畑貝塚、上高津貝塚
  広畑貝塚・上高津貝塚は、
霞ヶ浦の南西岸の丘陵の裾に位置する縄文時代後期から晩期前半にかけて営まれた貝塚です。
(当時は霞ケ浦は海と繋がる入り江になっていました。)

ここから、土偶、耳飾り、貝輪などたくさんの遺物が出土しています。
また、炭酸カルシュウムが固化して付着している無文薄手作りの土器も出土していることなどから、
縄文時代に製塩が行われていたのではないかとする説の根拠になっており、
縄文時代の生産活動を解明する上でも重要な遺跡です。
(上高津博物館より)
この土器は塩水を入れ煮沸して塩をとる(煎熬・せんごう)ために使われた土器で、
広畑貝塚をはじめとする霞ヶ浦沿岸から、
縄文時代の製塩遺跡や製塩土器が多く見つかっている。
当時の製塩は土器などで海水を煮詰めておこなったと考えられている。
あの手の込んだ縄文模様は施されず、
注入した海水を煮沸するためにできるだけ薄く作られています。
海水が煮詰まり、塩ができると器のまま運搬され物々交換にも利用されたようです。
塩を取り出すときには器を割って取り出したようで、
出土するほとんどの製塩土器は粉々になっています。

縄文製塩土器の終焉

 東日本で生まれた土器を使った塩づくりは北上して東北太平洋岸を北上し、
宮城、岩手、青森へと広がっていくが海を渡って北海道に伝わる前に姿を消します。
次の弥生時代へ技術が伝播されることはなかった。
縄文製塩土器の技術が消滅してから、約1000年後、本格的な土器製塩が始まります。
約2300年前の弥生時代です。
この製法は東日本の瀬戸内海辺りに起源を求めることができます。
おそらくは朝鮮半島からもたらされた技術と推測されますが、
1700年前ごろには広範囲に拡散していったようです。
その反面、縄文時代には塩の一大産地だった東日本では
弥生時代に入ってから製塩土器がほとんど見られなくなってしまいます。

 縄文時代から弥生時代への移行の中で、
なぜ製塩の技術が途絶えてしまったのでしょう。
縄文土器に魅せられた私には当分、眠れぬ夜を過ごすことになるのでしょう
   (2018.01.09記)


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黄金伝説(川治温泉)

2017-09-20 17:30:00 | 郷土の歴史等

川治温泉・鬼怒川と男鹿川の合流地点付近


 鬼怒川に架かる「黄金橋」
 
 ごくありふれた辺境の地に架かる橋。
 この写真だけでは何故「黄金橋」なのか、名前の由来がわからない。
 観光橋で、橋を渡り切ると林を切り開いたところに小さな「あじさい公園」があるらしい。
 この橋は、伝説の「南平山」に続いているらしい。
   正面の山が伝説の山「南平山」なのか。



 橋のたもとに由来を記した石碑があった。


 碑文 
  黄金橋(こがねばし)の由来
  平家の勇将米澤淡路守は、
  一門の再興を期して莫大な
  財宝を南平山に埋めた。
  財宝のありかを示す鍵歌として
   朝日さし夕日輝くこの丘に
    黄金千杯朱〇千杯
  の歌が伝えられている。
  山頂には今も大小の塚があり
  夕映えの中にひときわ輝く
  ことがある。
  橋の名はこの伝説によった。 

  鍵歌にいたっては、どこかの小学校の校歌に歌われるような幼い内容です。
  平家の落人の集落は、全国各地に存在します。
  そして、現在もその末裔が暮らしています。
  川治温泉では、落人の里があるのかどうか、私は聞いたことがないが、
  こうして埋蔵金伝説が語り伝えられたのでしょう。
  もとより、「黄金橋」があったわけではなく、観光政策として作られた橋なのでしょう。
  なんだか、この橋は取って付けたような橋で、私には違和感がありました。
  むしろ、こうした橋を作るよりも、「南平山」の見えるこの地に、伝説だけを伝える石碑
  だけを置いた方が、夢が膨らむと思うのですが、いかがでしょうか。
        (2017.9.20記)                   (郷土の歴史№4)

  

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キリストの墓  青森・新郷村

2017-06-23 08:30:00 | 郷土の歴史等

キリストの墓  青森・新郷村
   奇想天外なお話し(伝説)
 国道R454を太平洋に面した青森県八戸市から、十和田湖に向かって西へ向かって直線距離で約30㌔地点に新郷村がある(十和田湖を起点にして西へ向かうと約20㌔)。ここにとんでもなく奇想天外な伝説がある。
 平成29年5月31日現在の新郷村の人口は男女合わせて2,61
9人、世帯数949戸の小さな村だ。

 ゴルゴタの丘で磔(はりつけ)にされたキリストが、密かに日本に逃げのびていた。
 村にはキリストの墓があり、墓前では毎年慰霊祭が行われ、キリスト伝説は村の観光戦略にもなっている。

 村を貫く国道R454沿いの高台に木製の十字架が立つ墓が二つ並ぶ。
 「キリストの墓」とキリストの身代わりとなって十字架に架けられたとされる弟の「イスキリの墓」だ。

 

   キリスト祭が開催されるのは毎年6月の第一日曜日。ゴルゴダの丘ならぬ新郷村の丘にあるキリストの墓
  それでは、ゴルゴダの丘で処刑されたのは誰だったのでしょう。 
  案内板によると、イエスの弟イスキリが兄の身代わりにとなって十字架の露と果てたとあります。以下、案内板から引用。
<<キリストの墓>>
イエスキリストは21才のとき日本に渡り12年間の間神学について修行を重ね33才のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕らえて十字架に磔刑に処さんと致しました。
しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てたのであります。他方、十字架の磔刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び、日本の土を踏みこの戸来村に住居を定めて、106才長寿を以って、この地に没しました。この聖地には右側の十来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に弟イスキリを祀っております。以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております。

 この伝説が生まれたれたのは比較的新しく、昭和10年、茨城県磯原市(現北茨城市)から訪れた天津教(新興宗教)教祖竹内巨磨(たけのうちきよまろ)氏により、竹内家の古文書をもとに発見されたそうです。従って、昭和10年以前にはこのような話はまったくなかったようです。毎年キリスト祭では慰霊祭が行われ、ナニャドラヤの歌と踊りが奉納されます。
 なんとその踊りはご覧のようにどこから見ても「盆踊り」です。この「ナニャドラヤ」は
地元の人は誰でも知っているが、歌詞の意味は誰も知らないという。古代ヘブライ語で「主よ讃えよ」という意味だと説もあるが、眉唾(まゆつば)でしょう。
 新郷村は大字名に戸来(へらい)という地名が現在でも残っているが、これは「ヘブライ」が訛ったのだという説もある。
この村にはもうひとつ「大石神ピラミッド伝説」もあり、当時の村長佐々木傅次郎が始めた村おこしだ。
 古代へのロマンを育むにはあまりにも奇想天外な伝説なのだが、新郷村ではことの是非は問わず村おこしの一環として、村のホームページにも「キリストの墓」「キリスト祭」としてアップしている。

                                (2017.6.22記)      (郷土の歴史№3)

 

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自由民権運動(2) 福島事件・ 弾圧

2016-07-26 15:26:27 | 郷土の歴史等

自由民権運動(2) 福島事件・弾圧

自由民権運動への弾圧

 自由民権運動の高まりが、喜多方事件を誘発し、
同時に自由民権運動への徹底した弾圧が幕を挙げる。

 三春町の自由民権広場には、
街を見下ろすように両腕を大きく広げ胸を張った河野広中の大きな銅像が立っている。


 福島の自由民権運動には欠かせない人物だ。
三島県令と福島県会の溝は、喜多方事件を発端にますますその溝を深めていったようだ。

 河野議長が出した議案毎号否決の動議は僅差で可決されたが、
否決派の議員は官吏侮辱罪で投獄。三島県令による自由党弾圧は苛烈を極めた。
 


顕彰碑碑文
 この地三春町は県内における自由民権発祥の地で、常に県内民権運動の先頭に立ち、
その中枢的 役割を果たしてきたところである。 
 すなわち、先覚者河野廣中を盟主とする多くの同志たちは、
明治十一に政治結社「三師社」を創立して民権運動を推進し、
同十四年には青年活動家の養成の学塾「正道館」を独自に創設して実践的運動を展開した。
またこの年創設したわが国最初の政党「自由党」の結成に代表を送り参画した。
翌年には関東東北に魁て、当時としては例のない政治誌「山陽雑誌」を発刊するなど、
その先駆的活動は県内は元より東北地方最大の自由民権運動の拠点になっていった。
 これに対し、藩閥政府を背景にした福島県令三島通庸は、
三春町を拠点とした県内の自由民権運動の大弾圧を強行し、
明治十五年(一八八二)の秋、
「福島事件」といわれる騒動を起こし、多数の県民を獄に投じた。
とくに三春町は河野廣中・田母野秀顕ら十名の同志が国事犯として東京に護送され幽囚の辛苦を受け、
さらに明治十七年の「加波山事件」では正道館に学んだ五名の三春青年が死刑・無期徒刑等の断罪に処せられている。
 ここに三春町合併五十周年に当たり、
われらはわが国近代政治の先駆け的役割を果たした先人の輝かしい政歴を顕彰し、
歴史の証人としてこの碑を建立する。
 平成十八年(二〇〇六)四月
 自由民権運動顕彰会
 三春町自由民権記念碑建立実行委員会

 しかし、命を賭けた信念の火は、
いかなる弾圧をもってしても消すことができないことは、歴史が証明している。
血気にはやる活動家の「三島県令暗殺計画」へと運動は進んでいくが、この計画は頓挫した。

 舞台は茨城県に移り、加波山で挙兵決起しようとした。
いわゆる「加波山事件」の勃発である。
明治
17923日のことである。
 加波山の山頂に「自由の魁」なる旗をなびかせ檄文を飛ばしたが、
喜多方・福島事件を経て加波山事件にいたる自由民権運動が日の目を見るのには、
あと5年の時間が必要だった。

    明治22年、大日本帝国憲法発布
    
明治23年第一回衆議院選挙が行われ、帝国議会が成立した。

先人たちが血を流しながら、時の藩閥政治に向かって、
夢と希望を持って戦った自由民権運動の痕跡をたどる1泊2日の旅でした。
  
    (2016.7.26記)                  (郷土の歴史№2)

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自由民権運動(1) 福島事件

2016-07-25 22:26:13 | 郷土の歴史等

自由民権運動・福島事件(喜多方・三春)そして加波山事件へ
  弾正ケ原から喜多方へ 
 弾正ケ原は、山形・新潟・福島の三県に渡る飯豊山2105メートルを遥かに仰ぐ、
会津盆地の時代に取り残されたような風景の中にひっそりと佇んでいる。
草が茂り、中央に立つ大ケヤキのみが当時の歴史を想像させる。
小高く土盛りしたような地に、弾正ケ原に集まった近隣の農民を睥睨(へいげい)するように立つケヤキ。
そのケヤキに登って民権運動の闘士たちが、
福島県令・三島通庸の三方道路政策の非を暴き、
ひいては明治立憲政治への不満を民衆に説いたことだろう。
おそらく自由民権運動の活動家・瓜生直七あたりがケヤキに登って演説をし、
農民を一つの意志にまとめていったのだろう。

写真中央案内板より必要部分を選択

 喜多方市史によればこのとき集まった農民は3,000人と記録されているが、
この人数が誇張でなければ、弾正ケ原はもっと広かったに違いない。
傍らには「弾正ケ原」の名前の由来となった、栗村弾正清作の墓があり、
屋敷跡でもあることが明示されている。
今はただ、栗村家の墓があるだけで往時をしのぶ痕跡は何もなく、
草莽の上を田園の風が通りすぎていく。

 (自由民権之地 弾正原の石碑) 自由民権発祥の地
 自由党の活動家・宇田成一等の拘留見舞いに集まった農民たちは、
弾正ケ原で集会を開き、
「総代者が喜多方警察署で交流の理由を正してことを運ぶべきだ」として、解散したが、
総代たちが警察署に着くころには、農民の数はふたたび膨れ上がり、投石などの暴挙が起こり、多数の検挙者を出した。
 明治15年11月28日。喜多方事件の発端である。
                                             (郷土の歴史№1)

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