三島由紀夫の言葉
「明日死んでも……」1968年茨城大討論会
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。今日は死ぬかもしれないという気持ちだったら、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない」
1968年、56年も前の話になるが、茨城大学の学友会が主催する学園祭に作家の三島由紀夫が
招へいされた。1968年11月16日のことだ。
1968年の世相
この年の1月には、東大医学部無期限ストに突入・東大紛争が始まり、
2月には成田空港阻止・三里塚闘争集会等社会不安が募り始め、
学生運動が活発になり、デモ行進が頻繁に行われ、学生間のイデオロギー対立に基ずく、
暴力事件も頻繁に起こり、警官隊との衝突も頻繁に起こった。
新進気鋭の小説家石原慎太郎は政治家としてのスタートを切り、
青島幸雄、横山ノック等タレント議員が出現した。
文学の世界でも、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、
三島、石原、大江の若い作家たちの間で、
「文学で何ができるか」といった、文学の役割論が戦わされた。
三人のうち最後まで文学のみちを維持したのは大江健三郎のみだった。
年末には未解決現金強奪事件「三億円事件」も起きている。
楯の会設立
茨城大学文化祭の討論会(1968年11月16日)に三島が出席する少し前の同年10月5日、
三島は「楯の会」を設立している。
設立目的: 日本の伝統と文化の死守
活動内容: 左翼革命勢力の関節侵略に対する防備
日本の文化と伝統を「剣」で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。
(ウィキペディア参照)
当時、三島は小説家として人気を博していたが、
論客として一橋大や早稲田大で学生との討論会に積極的に出席し、持論を語った。
「守るべきものは何か」「未来は存在するか」という論旨のもと、三島は、
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」
と三島は熱く自分の人生に裏打ちされた「論」を、学生に向かって語り掛け、
学生の言うことにも真摯に耳を傾けた。
(eiga.com)
(1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス)
この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。
茨城大討論会に三島を招いた学生・小野瀬さん
小野瀬さんによれば、当時の学生運動の真っただ中、反政府・反体制を訴える組織もある中、
学友会は政治活動を持ち込まず、学内の正常化を求める立場だったと言う。
三島は学生からの質問を正面から受け止め、答えた。3時間半があっという間に過ぎた。
それから二年余り経った1970年11月25日、三島は陸上自衛隊の市谷駐屯地で自決した。
社会人として活躍していた小野瀬さんは、出張先でこのことを知り、
「こころの中に空白ができ、力が抜ける思いだった」と語る。
あの日、母校茨大の討論会で三島は何を我々に伝えたかったのか。
小野瀬さんは、国際協力活動など、喜寿を迎えた今でも続けているという。
その背景には、あの日の三島の言葉がある。
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。……」
最後に三島の言葉に大きな影響を受けた小野瀬さんの生き方を紹介します。
「私は命ある限り、一生懸命に生き、その命を使って社会に貢献したい」。
情熱をかけて毎日を過ごせば、よりよい社会につながると信じる。
(朝日新聞2024.5.16記事を参照し構成・編集した)
マルチン・ルター(ドイツの宗教改革者)の言葉
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」
生きる力を情熱に変えて、真摯に生きていこうとする心情は三島の言葉と通じるものがある。
「世界滅亡」の危機に晒されても、
希望を失わず決してブレることのない強靭な精神がこの言葉にはある。
いずれにしても、三島の言葉にもルターの言葉にも、
私たちを引き付けてやまない言葉に託した強い思いがある。
それは、「いま自分にできることを精一杯やっていこうという決意」が
この言葉の中に潜んでいるからに違いないと思う。
(ことばのちから№15) (2024.05.07記)