雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

三島由紀夫の言葉 「明日死んでも……」

2024-05-28 06:30:00 | ことばのちから

                

三島由紀夫の言葉
 「明日死んでも……」1968年茨城大討論会

  「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。今日は死ぬかもしれないという気持ちだったら、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない」
 1968年、56年も前の話になるが、茨城大学の学友会が主催する学園祭に作家の三島由紀夫が
招へいされた。1968年11月16日のことだ。
1968年の世相
この年の1月には、東大医学部無期限ストに突入・東大紛争が始まり、
 2月には成田空港阻止・三里塚闘争集会等社会不安が募り始め、
 学生運動が活発になり、デモ行進が頻繁に行われ、学生間のイデオロギー対立に基ずく、
 暴力事件も頻繁に起こり、警官隊との衝突も頻繁に起こった。
  新進気鋭の小説家石原慎太郎は政治家としてのスタートを切り、
 青島幸雄、横山ノック等タレント議員が出現した。
  文学の世界でも、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、
 三島、石原、大江の若い作家たちの間で、
 「文学で何ができるか」といった、文学の役割論が戦わされた。
 三人のうち最後まで文学のみちを維持したのは大江健三郎のみだった。
  年末には未解決現金強奪事件「三億円事件」も起きている。

楯の会設立

茨城大学文化祭の討論会(1968年11月16日)に三島が出席する少し前の同年10月5日、
三島は「楯の会」を設立している。
 設立目的: 日本の伝統と文化の死守
 活動内容: 左翼革命勢力の関節侵略に対する防備
  日本の文化と伝統を「剣」で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。
                              (ウィキペディア参照)
 当時、三島は小説家として人気を博していたが、
論客として一橋大や早稲田大で学生との討論会に積極的に出席し、持論を語った。
「守るべきものは何か」「未来は存在するか」という論旨のもと、三島は、
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」
と三島は熱く自分の人生に裏打ちされた「論」を、学生に向かって語り掛け、
学生の言うことにも真摯に耳を傾けた。
  (eiga.com)
(1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス)
この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。
茨城大討論会に三島を招いた学生・小野瀬さん
 小野瀬さんによれば、当時の学生運動の真っただ中、反政府・反体制を訴える組織もある中、
学友会は政治活動を持ち込まず、学内の正常化を求める立場だったと言う。
 三島は学生からの質問を正面から受け止め、答えた。3時間半があっという間に過ぎた。
それから二年余り経った1970年11月
25日、三島は陸上自衛隊の市谷駐屯地で自決した。
社会人として活躍していた小野瀬さんは、出張先でこのことを知り、
「こころの中に空白ができ、力が抜ける思いだった」と語る。
あの日、母校茨大の討論会で三島は何を我々に伝えたかったのか。
 小野瀬さんは、国際協力活動など、喜寿を迎えた今でも続けているという。
その背景には、あの日の三島の言葉がある。
明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。……
 最後に三島の言葉に大きな影響を受けた小野瀬さんの生き方を紹介します。
「私は命ある限り、一生懸命に生き、その命を使って社会に貢献したい」。
情熱をかけて毎日を過ごせば、よりよい社会につながると信じる。
                               (朝日新聞2024.5.16記事を参照し構成・編集した)
マルチン・ルター(ドイツの宗教改革者)の言葉
 たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

 生きる力を情熱に変えて、真摯に生きていこうとする心情は三島の言葉と通じるものがある。

「世界滅亡」の危機に晒されても、

希望を失わず決してブレることのない強靭な精神がこの言葉にはある。

いずれにしても、三島の言葉にもルターの言葉にも、

私たちを引き付けてやまない言葉に託した強い思いがある。

それは、「いま自分にできることを精一杯やっていこうという決意」が

この言葉の中に潜んでいるからに違いないと思う。

      (ことばのちから№15)                    (2024.05.07記)

 

 

 

 


 


 

 

 

 

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駅弁

2024-05-20 06:30:00 | つれづれに……

駅弁立ち売り
 なんとも懐かしい「駅弁立ち売り」の写真である。
 かつては、旅の風物詩として旅情を誘う風景であった。
 「ベントーベントー」と大きな売り声で、
 ホームに入った列車が停車している間の短い時間のうちに弁当を売り歩く「弁当屋さん」と
 それを買う客との間のやり取りが私は好きだった。
 発車の合図のベルがホームに流れ、「ゴトン」と汽車がゆっくり大きな車輪を回す。
 窓からお金を握りしめ、弁当屋を呼ぶ声に緊迫感がある。
 今と違って汽車はゆっくり発車するから、お金をとりそこなったとか、
 逆にお金は渡したが弁当をもらえずになんてアクシデントは起きなかったのだろう。
 懐かしい昭和のプラットホームの風景である。
 現代のようにファミレスがあり、コンビニやスーパーには多彩な弁当が並んでいる時代と違って、
 日常から非日常の世界へ旅立つ旅行者にとって、
 「立ち売り駅弁」は、何よりの楽しみであり、ごちそうだったように思う。

 (写真はウエブ朝日新聞より引用)
 駅弁立ち売りの懐かしいスタイルである。
  滋賀県米原駅の構内で販売を復活させた「井筒屋」の駅弁である。
  1889(明治22)年に駅弁を始めた老舗で、井筒屋は30年ほど前まで立ち売りをしていたが、
  担当者の引退と共になくなった。
  記事は、「担当者の引退」とともに駅弁立ち売りはなくなったと書いているが、
  それは、消滅の原因の一つで、汽車から電車に替わり窓が開かなくなったことや、
  食料特に外食産業の普及などにより、時代にそぐわなくなったための消滅だった。
  長距離鈍行列車も無くなり、高速電車は瞬く間に目的地に着いてしまう。
  駅ホームでの立ち売り駅弁が姿を消したのは、こうした効率や利便性を追求した結果の
  帰結だったのだろう。
  便利性と快適性を鉄道に求めた結果、
  私たちは「旅情」という大切な感性をどこかに置き去りにしてしまったのだ。
   井筒屋の駅弁の復活は、駅側からの「旅客の弁当ニーズにこたえられないか」という要望で、
  に応えたものらしいが、当面は常時販売ではなく、時期を決めての販売となるらしい。

   時代
の流れに消えていった「立ち売り駅弁」だが、
その始まりは、明治18(1885)年7月16日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売したのが最初らしい。
 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売された。
「おにぎり2個にたくあんが2切れ」を竹の皮に包んで販売価格は5銭だったと記録にあります。
 この時代天丼が4銭で食べられたというから、結構割高な値段だった。
それでも、当時は列車の運行本数が少なかったために、5銭は赤字覚悟の値段だったようです。
              ※日本鉄道とは、国有鉄道ではなく、日本発の民営鉄道で、明治39(1906)に国有化された。

 公式の記録がないので、駅弁の元祖争いは多くの説がある。もっとも宇都宮説も確かな証拠があるわけではない。例えば、群馬県・信越本線横川駅で荻野屋が明治18(1885)年に駅弁を販売している。
  
以下、インターネット駅弁資料館の記事を参照にまとめました。
 〇 大阪府・東海道本線大阪駅説
    明治10(1877)年に発売。
    (大阪駅の開業が1874年ですからひの3年後には駅弁が販売されたことになります)
 〇 兵庫県・東海道本線神戸駅説
   「神戸駅史の年譜」によると、明治10(1877)年7月に「立ち売り弁当販売開始」と書かれているそうで
   す。(神戸駅の開業が明治7年で、その3年後には立ち売りの駅弁が始まっていた)
 〇 東京都・上野駅東北本線上野駅説
    
明治16(1883)年7月28日を発売日としています。この日が上野駅の開業日にあたります。
   「上野停車  場構内 弁当料理 ふぢのや」とあり、上野停車場とあり、
   これが駅構内なのかプラットホームなのかは不明です。

 〇 群馬県・高崎線熊谷駅説
    明治16年7月28日、熊谷駅が開業した日に「駅の売店で寿司とパン」
   が売られた、とありますが、これを駅弁と称してよいものかどうか疑問が残ります。

 〇 福井県・北陸本線敦賀駅説
    明治17(1884)年に駅弁発売。敦賀駅は明治15年開業。明治17年には柳ケ瀬トンネルの開通により便利 
   性が増し、これを記念しての駅弁販売か。

 〇 群馬県・高崎線高崎駅説
    明治17(1884)年、上越線の開通に伴い、おにぎりの販売を始めたのが始まり。

 〇 栃木県・東北本線小山駅説
    明治18(1885)年、小山駅開設に伴い、駅前で売られていた「翁(おきな)寿司」が駅の中で売られるよ
   うになったのが始まり。

  おなじみの「幕の内弁当」の駅弁の登場は、1889(明治22)年姫路駅といわれています。
  メニューを紹介します。
   ・たいの塩焼き  ・伊達巻き   ・焼きかまぼこ  ・だし巻き卵 ・大豆こんぶ煮付け
   ・栗きんとん   ・ごぼう煮つけ ・少し甘みをつけて炊いたゆり根 ・薄味で煮つけたふき
   ・奈良漬と梅干し(香の物)    ・黒ごまをふった白飯
      豊富な品数ゆえに、おかずに目移りがして、口の中で味が分散され、「味わう」
      という行為が減殺されるような気がして、「大人のお子様ランチ」風の「幕の内弁当」は
      敬遠してしまいます。
       現役時代、出張や会議、研修会等が多くあり、たいがいは問答無用の「幕の内弁当」でした。
      だれの好みにも会い、クレームか起きる確率が少ないという理由で、主催者側が便利に選んでし
      まうということもあったのでしょう。そんなこともあって、
      私は、幕の内弁当が好みでなくなりました。
      この弁当は1890年代に開発販売されました。

      明治22(1889)には、小さな土瓶に入った温かいお茶が発売され、
      「汽車土瓶」と言われていました。一方、首から下げた弁当に加え、土瓶のお茶が加わり、
      「立ち売り駅弁」は結構な体力を要求される職業になりました。
  今でも生き残っている人気「駅弁」を紹介します。
   シウマイ弁当 …1954(昭和29)年
   峠の釜めし  …1958(昭和33)年
   ますのすし  …1912(明治45、大正元)年
   だるま弁当  …1960(昭和35)年
   いかめし   …1941(昭和16)年
    それぞれの地域の特徴と吟味した食材を取り入れた、「ご当地弁当」は、
    駅弁から道の駅、高速道路サービスエリア、デパートでの
   「駅弁大会」などで人気弁当となっています。

   駅弁が亡くなり、同時に旅の旅情も半減してしまった現在ですが、
   私は、汽車の座席で母と食べた駅弁がわすれられず、今でも駅弁を買い、
   駅の待合室などで食べることにこだわっとています。
    

(つれづれに…№116)   (2024.5.18記)

 



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「夫のうれしい涙」

2024-05-10 06:30:00 | つれづれに……

「夫のうれしい涙」

   うれしい時も、悲しい時も、涙は流れてくる。


   「人前では泣くな」
   「男は泣くな

   私の子ども時代には、そういわれて育った。
   「泣くな」、「泣くな」。
   どんな悲しいことがあっても、辛いことがあっても
   涙をこらえて泣かなかった。
   もっと正確に言えば、人前で泣かなかった。
   こらえた。

   小学低学年のころ、いじめにあった。
   不快感は残ったが、それだけのこと。
   しかし、同じようないじめが続けば、我慢ができなくなる。
   反撃に出る。
   相手を力でねじ伏せる。暴力によって相手を委縮させる。
   喧嘩は負けては意味がない。勝つために手段は選ばない。
   相手が泣いて悲鳴を上げるまで徹底的に痛める。
   それでいじめはなくなった。

   決して泣かない少年だった。

   それが崩れたのは、嫁いだ姉が亡くなった時だった。
   物言わぬ姉の顔を見て、こらえていた涙がとめどなく流れた。
   声は出さなかったが、こらえようにも感情の制御がつかず、
   大好きだった優しい姉の枕もとで涙を流し続けた。
   涙が枯れてその場を離れ、トイレにこもった。
   悲しみの緊張が狭いトイレの中で一気に崩れた。
   大きな声で泣き続けた。

   以来、人前で泣くことを忌避することはなくなった。
   母が亡くなり、長兄が亡くなり、長姉が亡くなったときも泣いた。

   悲しい時には泣いた。
   うれしい時には……
   泣くほどうれしいことに出会ったことがない。
   でも、「ありがとう」という言葉は、なんども言った。

   朝日新聞に「ひととき」という読者の投稿欄がある。
   65歳になる主婦が「夫のうれしい涙」というタイトルで投稿している。(4月1日記事)

   彼女の夫は、定年まで会社で勤め上げ、定年を迎えた後、小学校の用務員として7年を務めた。
   体もきつくなってきたため、今年の3月に退職の意向を学校へ伝えた。
   ところが年が明けた1月末、仕事中に倒れ、病に伏してしまった。
   退職を2か月後に控えた時期の予期せぬ出来事だった。
   夫が入院して2週間がたったころ、一通の宛名の書いてない茶色の封筒が届いた。
   「飼育委員」と小さな字が書かれていた。
   夫が務めていた小学校の飼育員の子どもたちからの手紙だった。
   夫の喜ぶ顔が見たいと、妻は自転車を走らせた。
   子どもたちが飼育しているモルモットの小屋を夫が倒れる前に、作ったことを妻は知っていた。
   以下、全文を掲載します。

   その小屋やモルモットの絵、それに飼育委員全員からの感謝の手紙が封筒に入っていた。
   結婚して36年。夫が私の前で涙を流したのは長男が亡くなったときと今回の2回。
   2度目はうれしい涙で本当に良かった。

  

   在職中の夫が退職間際に作ったモルモットの小屋が、
   飼育委員たちの心を動かし、感謝の手紙となった。

   第二の職場に選んだ小学校の用務員の仕事。7年勤めあげ、体もしんどくなってきて、
   職を辞したあと、妻との穏やかな第三の老後の人生をスタートさせる予定だった。
   それを、子どもたちの感謝の手紙は、
   病との戦いでスタートせざるを得なくなった男への
   何よりの励ましとなるプレゼントであった。
   飼育員たちの感謝の手紙を、入院先のベッドの上で何度も読み返しながら、
   泣いている夫を見つめる優しい妻の姿が浮かんでくる。
 
 (つれづれに…№115)       (2024.5.9記)

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能登半島災害を謳う (1)

2024-05-04 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う
   多くの人がこの連休を利用して故郷へ帰省し、道路も、鉄道も、飛行機もほぼ満席の状態であった。
  海外への脱出旅行で飛行便もほぼ満席。
  能登半島地震から5月1日で4カ月が過ぎた。
  大勢のボランティア希望者が県の特設サイト登録し、
  現地の希望に沿ってボランティアを派遣するシステムがととのっている。
  登録者はほぼ埋まっているが、受け入れ側の態勢整わずに、抑制気味だという。
  どこでどんなボランティアが必要なのかさえ、なかなか把握できない現状がある。

  4カ月過ぎた現在でも被災地では、インフラが十分でなく、
  ボランティアは500円のボランティア保険に加入し、食事や飲み物、
  マスクなどは各自で用意することになっている。
 (朝日新聞5/1掲載 珠洲市のボランティア・水野義則氏撮影)
  朝日歌壇から能登地震関係の短歌を集めてみた。

 地震きて元旦能登のすざましさ逃げて逃げてのアナウンスの声   ……平野 實
   
   地震から4カ月過ぎた今でも、あの日テレビ画面から流れる
   アナウンサーの幾分興奮気味の「津波が来ます。逃げてくだ
   さい」と繰り返される声が耳の奥に残っている。

                   
 おろおろと椿の幹につかまりておさまるを待つこの大地震に   ……太田千鶴子

   被災者の恐怖が「おろおろと椿の幹につかまりて」の言葉に
   集約されている。わたしは、東日本大震災の時、農村の集落
   を歩いていて、大木にしがみつきざわざわと葉擦れの音に危
   険を感じ道路に四肢をついて身の安全を図った経験がある。

                       
 すてさんの歌に知りたる朝市の通りの火らし夜空を焦がす   ……阿武順子
 輪島のひと山下すての歌にある震災前のしずかな暮らし    ……大谷トミ子

   「すてさん」とは、輪島の住人で、豊かな感性で朝市の様子な
   どを歌に詠み朝日歌壇の常連だった。テレビの映像は数件の家屋
   から火の手が上がっている映像が火災の初期の正体を映していた。
   様々な悪条件が初期消火を阻害し、大きな火災を生んでしまった。
   「能登は優しや土までも」と謳われた半島の街が一転して、瓦礫
   の山になってしまった。

 
 能登地震に募金しにゆく福島の復興途上の浪江町の吾は ……守岡和之

   福島県浪江町は放射能の汚染がひどく、一部期間困難地区が解除に
  なったが、にぎやかさを取り戻した地区はほんの一部に過ぎず、車で
  海岸に向かって走れば、瓦礫の山はなくなったものの、家の土台と門
  柱だけ残した家が当時の悲惨さを今に伝えている。海岸に立つ浪江小
  学校は津波にあったが、生徒は全員無事に近くの高台に避難した。
  現在は震災遺構として開放されている。
  被災した者同士、痛みを分け合う。
  震災から13年を経てなお、復興途上と言わざるを得ない福島の厳しい現実がある。

 時を経るごとに死者数増えてゆくニュース悲しき正月三日  ……戸沢大二郎
 「この下に人間が居ます」と張紙し倒壊家屋の側で待つ家族  ……山口正子 

   日ごと増えていく死者の数と、行方不明の数が、厳しい現実の姿を
  物語っている。いったい誰が瓦礫の下敷きになっているのだろう。
  母とか父とか特定の人ではなく、「人間」と書いたところに、作者の
  怒りや、悲しみ、悔しさが滲んでいて、心を打たれる。

(人生を謳う№25)          (2024.05.03記)

 

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